2023年4月9日「復活の朝」
2023年4月9日 花巻教会 イースター礼拝説教
聖書箇所:詩編30編1-13節、ローマの信徒への手紙6章3-11節、ルカによる福音書24章1-12節
イースター礼拝
イースターおめでとうございます。本日、皆さんとご一緒にイースター礼拝をおささげできますことを感謝いたします。
イースターはここ数年、ディズニーランドやデパートでも取り上げられ、だんだんと日本でも浸透してきています。改めまして、イースターは、何の日でしょうか? もちろん、「イエス・キリストが復活したことを記念する日」ですね。キリスト教会はこれまで、このイエスさまのご復活を最も大切なことの一つとして信じ続けて来ました。
皆さんもご存じの通り、イースターのシンボルとして、タマゴとウサギが登場します。タマゴはイースター・エッグ、ウサギはイースター・バニーとも呼ばれます。昨日、教会の有志の方々がイースター・エッグ作りをしてくれました。お帰りの際に、どうぞ持ち帰りください。
タマゴには、「新しく生まれる」というイメージがありますね。殻をやぶって、中から新しい命が生まれる。そのイメージと、イエス・キリストが暗い墓の中からよみがえられたイメージとが結び合わされ、伝統的にタマゴがイースターのシンボルとして用いられるようになったようです。
ヨーロッパでは、ウサギもやはり、「新しく生まれる」というイメージがあります。ウサギは春先にたくさん子どもを産みます。新しい命をイメージさせる動物として、ウサギはタマゴと共にイースターのシンボルとして用いられるようになったようです。
十字架を踏まえた復活
イースターは「イエス・キリストが復活したことを記念する日」。私たちキリスト教会はこのイエスさまのご復活を最も大切なことの一つとして信じ続けて来たと先ほど述べました。
イースターは、より詳しく言いますと、「イエス・キリストが十字架におかかりになって亡くなられ、その三日目に復活されたことを記念する日」です。イエスさまのご復活は、十字架の死という現実を受けとめた上でのご復活であるのですね。
私たちは2月22日(水)から昨日の4月8日(土)まで、教会の暦で受難節の中を歩んで来ました。受難節とは、イエスさまのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期のことをいいます。特に、受難節の最後の1週間は、受難週と呼ばれます。4月6日の木曜日には洗足木曜日礼拝をおささげし、7日の受難日の金曜日には受難日祈祷会を行いました。イースターは、これらの受難を通りぬけたものであるからこそ、私たちにとってまことの光となり、希望となる出来事となっています。
イースターをお祝いする時期が春であるのも、大切な意味があるように思います。イースターを実感するには、春という季節が最もふさわしいですね。長い冬が終わり、春が来る――この嬉しさは、私たちが住む岩手をはじめ、寒さの厳しい地域においては、ひとしおです。長い冬が終わり、春が来る。雪がとけ、草花が一斉に咲き始める、その嬉しさ。長い冬を経験するからこそ、春が来たことの喜びを深く実感することができます。そのように、イエスさまのご復活は、ご受難と十字架の死を経たものであるので、私たちの心の、その最も深きところに響く出来事となっています。
復活 ~人を立ち上がらせる力
さて、「復活」という言葉について、少しお話をしておきたいと思います。復活という語は、原文のギリシャ語では「立ち上がる」「起き上がる」という意味をもつ言葉です。イエス・キリストが暗い墓の中から「立ち上がった/起き上がった」。そのことを、「復活した」と訳しているのですね。
ヨハネによる福音書の中には、《私は復活であり、命である》というイエスさまの言葉が記されています(ヨハネによる福音書11章25節)。イエスさまの内にこそ復活の命があることを、イエスさまご自身が宣言されているところです。イースターの時期にもよく読まれる御言葉です。
岩手県気仙地方の言葉で聖書を訳した(ケセン語訳聖書)山浦玄嗣さんは、この御言葉を《この俺にァ、人ォ立ぢ上がらせる力ァある》と訳しています(『イエスの言葉 ケセン語訳』、文春新書、2011年)。「復活」を「人を立ち上がらせる力」と表現しているのですね。このように言い換えてみますと、「復活」という言葉がより身近に感じられるかもしれません。
復活の物語
先ほどはご一緒に、ルカによる福音書の復活の場面(ルカによる福音書24章1-12節)をお読みしました。復活の日の朝、イエスさまが葬れたお墓に向かった女性たちは、天使たちに出会い、イエスさまが「復活された」こと――墓の中から「立ち上がらされた」ことを知らされました。
天使たちは女性たちに言いました、《なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。/あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。/人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか》(5-7節)。生前、イエスさまご自身が予告されていた通り、十字架につけられ、その三日目に復活されたのです。
深い悲しみの中で立ち上がれないでいた女性たちは、この知らせを聞き、再びその魂が立ち上がらされてゆきました。女性たちは墓から帰り、この知らせを弟子たちに知らせます。そうしてまた、新しい物語――復活の物語が始まってゆきます。
聖書が記す復活の物語とは、イエス・キリストが「復活した」物語であると同時に、残された人々が復活の朝の光の中で「再び立ち上がらせられていった」物語でもあります。深い悲しみの中で起き上がれないでいたその魂が、再び起き上がらせられていった物語でもあるのです。
詩編における「陰府(よみ)」の世界
私たちもまた、時に、もう起き上がることができないと思うほど、辛い経験をすることがあります。立ち上がれないほど、大変な経験をすることがあります。ここにおられる方の中にもいま、そのように辛い心境でいる方がいらっしゃるかもしれません。
先ほど、本日の聖書箇所の一つである詩編30編を読んでいただきました。旧約聖書(ヘブライ語聖書)の詩編は、私たちが生きてゆく中で時に経験するその暗闇のことを「陰府(よみ)」と表現しています。光が届かない、暗い地下の世界を指す言葉です。
日本語で「黄泉(よみ)」というと、死んだ後の世界、死者たちのいる世界のことをイメージします。聖書の陰府も死んだ後の世界を指すこともありますが、それだけではありません。たとえ本人は生きていても、陰府に落ち込んだと表現されることがあります。
詩編において、陰府は「神から断絶された場所」を意味しています。神さまから断絶され、神さまの恵みの光が届かない場所、そこが陰府であるのですね。またそこには、親しい人々から断絶されること、それまでの当たり前の生活から断絶されることも含まれています。
そのような断絶された感覚、孤立感の中で、人は次第に、闇が自分の周囲を覆っているように感じてゆきます。自分が深い穴の底に落ち込んでしまっているように感じてゆきます。いまを生きる私たちも経験し得る、このような非常に辛い状況を、古代イスラエルの人々は「陰府に落ち込んでいる」と形容したのではないでしょうか。
信頼 ~神さまは必ず陰府から救い出して下さる
しかし、詩編を紡いだ人々が深い信頼を置いていたのは、きっと神さまがこの穴底から引き上げて下さる、ということでした。神さまは必ず、自分をこの陰府から救い出して下さる。たとえいまは暗闇の中に落ち込んでしまっているとしても、神は必ず自分を引き上げて下さる。その信頼を謳っているのが詩編です。
そして詩編30編においては、真実に、神さまが陰府から引き上げて下さったことへの感謝が謳われています。《主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました》(4節)。
陰府から引き上げられた喜びの中で、詩編30編は謳います。《あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました》(12節)。
この詩編の一節は、まさにイースターにふさわしいものだと言えるのではないでしょうか。神さまが私たちの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださった日、それが、イースターだからです。
陰府(よみ)がえりの力、再び立ち上がる力
神さまはイエスさまを死よりよみがえらせてくださいました。そしてそのことを通して、私たちを暗い穴の底から引き上げて下さいました。私たちに「陰府から帰る=陰府(よみ)がえり」の力を与えて下さいました。
神さまはイエスさまを暗い墓の中から立ち上がらせられました。そしてそのことを通して、私たちの魂を再び立ち上がらせてくださいました。独りでは立ち上がれないでいる私たちの内に、「再び立ち上がる」力を与えて下さいました。
大きな困難の中にあってもなお、私たちは再び立ち上がってゆくことができる。復活のキリストに結ばれた私たち一人ひとりには、そのよみがえりの力が与えられているのだと信じています。
私たちはもはや、神さまと断絶されてはいない。愛する人々と断絶されてはいない。私たちはいま共に、イエスさまの愛と復活の命に結ばれ、一つとされています。
《わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます》(ローマの信徒への手紙6章8節)。
どうぞここに集ったお一人おひとりに、またここに集い得なかったお一人おひとりに、イースターの喜びが届けられますようにと願っています。