2023年6月4日「命に至る道」
2023年6月4日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:出エジプト記19章3-8節前半、ルカによる福音書10章17-24節、使徒言行録2章22-36節
台風2号や前線の影響によって、各地で記録的な大雨が発生しています。広い範囲において様々な影響が生じ、河川の氾濫などの甚大なる被害も生じています。いま避難を余儀なくされている方々の上に神さまのお守りがありますように、一人ひとりの生命と安全が守られますようにと願います。
今後も引き続き、土砂災害や浸水、河川の増水・氾濫に厳重な警戒が必要です。皆さんもくれぐれもお気を付けください。改めて、日頃から防災への備えをしてゆきたいと思います。
聖霊降臨節、三位一体主日
先週はご一緒にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝をおささげしました。ペンテコステはイエス・キリストが復活して天に挙げられた後、弟子たちのもとに聖霊がくだった出来事のことを言います。このペンテコステ以降、教会の暦では聖霊降臨節に入ります。本日は聖霊降臨節第2主日礼拝をおささげしています。
キリスト教は伝統的に、聖霊なる神さまを、天の神さま・イエス・キリストと共に信仰の対象としてきました。神さまはお一人であると同時に、「父・子・聖霊」の三つの顔がある。少し難しい言葉では「三位一体(さんみいったい)」と呼ばれます。本日の聖霊降臨節第2主日礼拝は、教会の暦で、三位一体を記念する三位一体主日にあたります。
先ほどご一緒に讃美歌351番『聖なる聖なる』という曲を歌いました(詞:Reginald Herber、曲:John B. Dykes。日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21 交読詩編付き』所収、日本基督教団出版局、1997年)。三位一体を主題とする代表的な賛美歌の一つです。1番には《三つにいまして ひとりなる》という言葉がありましたね。神さまは「父なる神、子なるキリスト、聖霊」の三つに区別されると同時に、ただ一人のお方であると謳われています。三位一体なる神を賛美する曲として、世界中で歌い継がれている曲です。
ペトロの説教
本日の聖書箇所使徒言行録2章22-36節は、ペンテコステの出来事の直後を描いた場面です。聖霊に満たされた弟子たちは、聖霊が語らせるままに、様々な言葉で話し始めました(2章4節)。大勢の人が何ごとかと集まってくる中、弟子のリーダーであったペトロは他の11人と共に立ち上がって、声を張り上げて話し始めました(14節)。ペトロは何を語ったのでしょうか。それは、ナザレの人イエスについて、です。そのペトロの説教の内容を記しているのが本日の聖書箇所です。まさにキリスト教の歴史においてなされた、最初の説教と言えるかもしれません。
ペトロが語ったのは、イエス・キリストの十字架の死について、そして復活についてでした。22-24節《イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。(略)このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。/しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです》。
ここでペトロは、イエスさまの十字架の死と復活の証人として話しています。32節にはこのような言葉もありました。《神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です》。ペトロはここで、証人として、人々の前に立っているのです。
十字架の死と復活の証人として
証人とは、「ある事実・事柄を証明する人」のことを言います。その人が話した言葉は、証言と呼ばれます。特に、裁判所では、自分の知り得た事実を述べるよう命じられた人が証人と呼ばれます。私は裁判の証人として呼ばれたことはまだありませんが、裁判所では証人は宣誓をした上で、証言を行います。虚偽の答弁をした場合は、偽証の罪で罰せられることもあります。証人となることは重い責任が伴うこと、また誠実さと勇気とが必要であることを思わされます。旧約聖書(ヘブライ語聖書)の十戒の中にも《隣人に関して偽証してはならない》との掟がありますね(出エジプト記2章16節)。
ここでペトロはイエス・キリストの解説者というより、イエス・キリストの十字架の死と復活の、その証言者として言葉を発しています。それが事実であることを証明する証人として、多くの人々の前で、はっきりと声を張り上げて語っているのだと本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。
イエスさまの十字架の死と復活は、確かな事実である――それが、新約聖書全体が伝えている使信です。
《だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい》
本日の聖書箇所で描かれるこの誠実かつ勇敢なペトロの姿は、受難物語におけるペトロの姿と対照的です。イエスさまが逮捕された夜、ペトロは周囲の人々から「あなたも仲間だ」と問い詰められると、「わたしはその人を知らない」「そうではない」「あなたの言うことは分からない」と三度、事実とは異なることを言いました。混乱と強い恐れにとらわれる中で、とっさに虚偽の答弁をしてしまったのです(ルカによる福音書22章54-62節)。
ペトロがそう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴きます。イエスさまは振り向いて、ペトロを見つめられました。ペトロは、《今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう》と言われたイエスさまの言葉を思い出し、外に出て、激しく泣きました。
よく知られているこのペトロの否認の場面。ルカ福音書のバージョンでは、振り向いてペトロを見つめるイエスさまのお姿が記されているのが印象的です。イエスさまはどんなまなざしで、外に走り出てゆくペトロを見ておられたのでしょうか。
《ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう》(同22章34節)、そうペトロにお伝えになる直前、イエスさまはこうおっしゃってくださっていました。《しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい》(同22章32節)。
イエスさまはペトロの信仰が無くならないように祈って下さっていたのです。たとえ過ちを犯したとしても、その先に必ず立ち直る時が来ることを信じてくださっていました。《だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい》――。
聖霊の力 ~イエスさまの証人となるための力
イエスさまのことを「知らない」と偽り、愛する師を否んでしまったペトロ。しかし十字架の死より三日目、ペトロたちは復活されたイエスさまと再会を果たします。そして、栄光のうちに、天に上げられるイエスさまを目撃します。イエスさまは昇天する際、次の約束の言葉を遺してくださいました。聖霊が降る約束です。《あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる》(使徒言行録1章8節)。
この約束の言葉では、聖霊が降ると、弟子たちに力が与えられることが語られています。それは、全世界、地の果てに至るまで、イエスさまの証人となるための力です。聖霊なる神さまのお働きの一つとして、私たちを証人として召し出すこと、そしてそのための力を与えて下さることがあることが語られています。語ることに恐れを覚える私たちに、誠実さと、そして勇気を与えて下さるのです。
《だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい》――。ペトロが立ち直ることができた瞬間、それこそが、聖霊が降ったペンテコステの瞬間であると受け止めることができます。ペトロは聖霊なる神さまから力を得て、他の弟子たちと共に立ち上がり、声を張り上げて、言葉を発し始めました。イエス・キリストの証人として、勇気をもって、そして喜びをもって、事実を証言し始めました。
この弟子たちの証言は人から人へと語り伝えられ、いま、私たちのもとにも届けられています。
命に至る道 ~旧約聖書(ヘブライ語聖書)のダビデ王の証言
本日の聖書箇所の中で、ペトロは旧約聖書の詩編を引用しています(詩編16編8-11節)。伝統的にダビデ王の歌とされてきた詩編です。ここでペトロは、ダビデもまた、イエスさまの復活について証言していたのだと語っています。自分たちだけではなく、偉大な先人たちをもイエス・キリストの証人として位置付けているのですね。旧約聖書の言葉をイエス・キリストの到来の預言、言い換えると証言として位置付けているのが、新約聖書の特徴です。当時としては、これはまったく新しい捉え方でした。《ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。/だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。/あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。/あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』》(25-28節)。
末尾のところに、《あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる》とありました。復活したイエスさまは、私たちに命に至る道を示し、私たちを喜びで満たして下さる。かつてダビデはそのことを証言し、そしていま、自分たちもそのことを証言しているのだと、ペトロは大胆に語っています。《神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です》(32節)。
一人ひとりがイエスさまの証人として
本日はイエス・キリストの証人、というところに焦点を当ててお話をしました。証人として召し出されているのは、聖書に登場する人々だけではありません。私たち一人ひとりも、イエス・キリストの証人の役割を与えられています。
証人となることには重い責任が伴い、また時に勇気が必要とされます。誠実さも必要とされるでしょう。恐れにとらわれる私たちに、聖霊なる神さまは力を与えて下さる、その信頼をご一緒に新たにしたいと思います。
私たちの社会は現在、率直に物を言うことがなかなか難しい状況にあります。言うべきことが言えない、という状況があちこちで生じています。そのような中で、事実が埋もれてゆく、あるいは、事実や事柄が歪曲・改ざんされてゆくことも起こっています。私たち一人一人が、事実を伝える証人であろうとすることは、キリスト教においてのみならず、私たちの社会においても重要なことではないでしょうか。
一人ひとりの証言が結び合わされることで
もちろん、各人が理解している事実関係には違いもあることでしょう。事実の受け止め方については、各人で違いがあります。また、私たちはあくまで自分が知り得た範囲でしか、証言をすることはできません。私たちが発する言葉はあくまで、一つの証言でしかありません。と同時にそれは、かけがえのない価値を持つものでもあります。
一人ひとりの証言が集められ、結び合わされてゆくことで、事柄が、より立体的に浮き上がってくることでしょう。私たち一人ひとりの証言が結び合わされることで、イエスさまのお姿が、神さまの救いの御業が、より豊かに、立体的に浮き上がってくることでしょう。そうして交響曲のように、豊かなハーモニーを奏で始めることでしょう。福音という喜ばしき知らせを、私たちが生きるこの社会の内に響かせ始めることでしょう。神さまは私たち一人ひとりが語り始めることを、待っていて下さるのではないでしょうか。
聖霊なる神さまが私たちのもとに来てくださり、私たち一人ひとりに語る力を与えて下さいますように、ご一緒に祈りをおささげしたいと思います。