2023年7月2日「キリストは、一人ひとりのために」

202372日 花巻教会 主日礼拝説教(創立記念日)

聖書箇所:詩編222532節、ルカによる福音書171119節、使徒言行録11418

キリストは、一人ひとりのために

 

 

創立記念礼拝

 

本日は花巻教会の創立を記念して礼拝をおささげしています。花巻教会が創立されたのは1908721日です。内丸教会で開かれたバプテスト東北部会において、正式に伝道所として認められました。それから信仰のともし火がともされ続けて、今年で115年になります。

 

いま申しましたように、当教会は1908721日を創立記念日としていますが、その前身となった花巻浸礼教会は、すでに1880年に創設されています。第3回東北伝道旅行に来ていたトーマス・ポート宣教師と有志の方々によって設立されたこの花巻浸礼教会は、5年間の活動の後、1885年に解散し、盛岡浸礼教会(現在の内丸教会)に合流しています。

 

ただし、教会が解散となったその後も、花巻での集会は定期的に続けられてゆきました。

そのような中、1904年に、後に現在の花巻教会の母体となる第一回目の集会が開かれました。出席者は4名だけの小さな集会です。以降、この集会は場所をいくつか変えながらも、継続して開かれるようになりました。途切れることなく続いていったこの集会が現在の花巻教会の母体となってゆきます。そしてその後、冒頭で述べましたように、1908721日に、花巻教会は正式に伝道所として認められることとなりました。

 

花巻教会の歴史についても、またぜひ皆さんと理解を深める時間が持てればと思います。これまでの歩みが、神さまと多くの方々によって支えられましたことを感謝するとともに、これからの歩みのために、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

旧約聖書の食物規定

 

 旧約聖書(ヘブライ語聖書)には「食べてよいもの」と「食べてはならないもの」についての決まり(律法、神の掟)が書かれています。いわゆる食物規定の掟です。食べてはならない動物の一つとしてよく知られているのはブタです。古代イスラエルではブタは食べてはいけない動物とされていました。ユダヤ教、イスラム教では現在もブタを食べることをしませんね。

 

 これらの決まりはもともとは、宗教的な儀式(祭儀)において「食べてよいもの」「食べてはならないもの」という意味を持つものでした。古代イスラエルでは祭儀において動物を屠り、その後それを食す習慣がありました。

 

 ブタを食べることを禁ずる決まりが書かれている箇所を実際に読んでみましょう。旧約聖書のレビ記1178節)です。《いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。/これらの動物の肉を食べてはならない》。

「いのしし」と訳されている言葉は、「ブタ」と訳すこともできる言葉です。イノシシを家畜化したものがブタですので、どちらで受け止めることもできるでしょう。

 

 これらの個所には「汚れたもの」という言葉が出てきています。もちろん、豚やイノシシ自体が何か不潔で危険な生き物であるという意味ではありません。食べてもよい基準に当てはまらない動物が、ここでは「汚れている」と形容されているのです。反対に、食べてもよい基準に当てはまる動物は「清い」存在とされています。

 

 では、旧約聖書における「清い=食べてもよい」動物の基準とはどのようなものでしょうか。その基準とは、①ひづめが分かれている、②反すうをする、というものでした。この基準に当てはまる動物は「清い=食べてもよい」ものとされ、当てはまらない動物は「汚れている=食べてはならない」ものとされました。

 

 ここでちょっとクイズを出してみたいと思います。次の中で、旧約聖書において食べてもよいとされている動物はどれでしょうか? 「ウシ、タヌキ、ヒツジ、ラクダ」。正解の動物は2匹です。判断するポイントは、①ひづめが分かれており、②反すうをする動物であるかどうか、です。

 順に正解を確認してみましょう。まずウシ。ウシはひづめが分かれており、反すうをするので、「食べてよい」。正解の動物の一つは、ウシです。

 タヌキはどうでしょうか。タヌキはひづめが分かれておらず、反すうもしませんね。ですので、「食べてはいけない」ことになります。

 次に、ヒツジ。ヒツジはひづめが分かれており、反すうもします。よって、「食べてよい」。もう1匹の正解は、ヒツジでした。旧約聖書において犠牲のささげものとされる代表的な動物の一つがヒツジです。

 最後に、ラクダはどうでしょうか。ラクダは写真を見るとひづめは分かれているように見えます。反すうもします。ということは「食べてよい」ことになるのではないか、と思いますが、旧約聖書ではラクダは食べてはならないと記されています。《従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである(レビ記114節)。もしかしたら、当時はラクダのひづめは、ひづめではなく「指」とみなされていたのかもしれません。

 

 

 

野生の生き物たちを保護するという側面

 

 ちょっとしたクイズを出してみましたが、この①ひづめが分かれている、②反すうをするという不思議な基準は、当時、家畜化されていた動物の特徴に由来するものです。当時、家畜化されていた動物の共通項が、ひづめが分かれていて、反すうをする、というものであったのですね。旧約聖書においてはすでに家畜化されている動物以外の野生の動物は、食べることが禁じられていることになります。これは、人間が境界線を超えて、野生の動物の世界を侵害することを制限する機能を果たしているという見方もあります(参照:S.E.バレンタイン『レビ記』)。これらの食物規定には、野山や海空に生息する野生の生き物たちを保護する側面があったのではないかと受け止めることもできます。

 

 食物規定をはじめとする旧約聖書の律法は、現代の私たちの視点からすると意味が分かりづらいものも多々ありますが、当時の社会においては大切な意味があったことが分かります。旧約聖書においては、これらの律法を遵守することが神さまへの信仰であり、神さまの願いに適う道であると捉えられていました。

 また、旧約聖書の律法の中の「動物たちを人間の過剰な搾取から守る」という視点は、現代の私たちが改めて思い起こし、学ぶべき視点であると思います。

 

 

 

受け止め方の変化 ~神がお造りになった命はすべて「清い」

 

 このように、旧約聖書においては「食べてよい」「食べてはならない」という決まりが厳格に定められていたわけですが、新約聖書になると、その受け止め方に変化が生じています。ある生き物は「清い=食べてよい」、ある生き物は「汚れている=食べてはならない」と区別するのではなく、神がお造りになった命はすべて「清い」という受け止め方に変化してゆくのです。

 

 その変化について語っているのが、本日の聖書箇所である新約聖書の使徒言行録11章です。改めて410節をお読みしたいと思います。《そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。/「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。/その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。/そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、/わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』/すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。/こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました》。

 

 弟子のペトロはある日、幻を見ます。天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて下りてくる幻です。その中には《地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥》、すなわち律法で「食べてはならない」とされている「汚れた生き物」たちが入っていました。そのとき、不思議な声が聴こえます。《ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい》。ペトロはこれまで自分は清くない物、汚れた物は食べたことがないと拒みますが、《神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない》という声がまた聴こえます。

 

 この箇所からも、新約聖書において何か大きな意識の変化が生じていることが伺われます。それまでの律法の枠組みを超え出る、新しい世界観が生じ始めているのです。それは、イエス・キリストへの信仰によって与えられた、新しい世界観でした。神の子イエス・キリストによって、あらゆる隔てが取り除かれた。もはや「清い」「清くない」の区別は取り除かれ、キリストを通してすべてのものが「清い」もの、神の目に「良い」ものとされた。この世界において、《それ自体で汚れたものは何もない(ローマの信徒への手紙1414節)――。イエス・キリストへの信仰を通して、初代のクリスチャンたちはそう新たに理解するようになったのです。

 

 旧約聖書の創世記には、神さまが6日間かけて天地を創造された後、ご自分が創られたすべてのものをご覧になり、《見よ、それは極めて良かった(創世記131節)とおっしゃったことが記されています。キリストに結ばれることで、私たちはこの「良い」という原初の声とのつながりを再び回復することができるのだと受け止めることもできます。

 

 

 

「神は人を分け隔てなさらない」

 

 この新しい世界観は、初代のクリスチャンたちの人間関係にも大きな影響を与えたことでしょう。いや、人間関係にこそ、最も大きな変化をもたらしていったことでしょう。

 

 当時のユダヤ人の社会においては、外国人(異邦人)と交際したり、外国人を訪問したり共に食事をすることが律法で禁じられていました。外国人は神が定めた「清さ」の枠組みの外にいる人々、神の救いの外にいる人々だと捉えていたからです。しかし、ペトロは先ほどの神さまからのメッセージを受け、「どんな人も清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」と考えるようになりました。すべての人が神の救いの内にいるのだと考えるようになったのです。

 

あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました1028節)。そしてペトロはこう告白します。《神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました(同34節)。この告白こそ、新しい世界の見方によって導き出された真理です。

 

「神は人を分け隔てなさらない」、言い換えますと、神は人を差別なさらない。神さまの目から見て、一人ひとりが、生まれながらに、価高く貴い(イザヤ書434節)存在である。これが、聖書全体が伝える真理であり、その中心的なメッセージの一つです。

 

 

 

キリストは、一人ひとりのために

 

 神さまの目から見ると、清くない者、汚れている者もなく、価値の劣る者もない。私たちの目から見るとたとえ自分に価値がないように思えても、ある人のほうが秀でていて価値がある人のように見えても、神さまの目から見ると、そうではない。神さまから見ると一人ひとりが等しく、極めて「良い」存在、かけがえなく、大切な存在であるのです。

 その大切な一人ひとりのために、キリストは私たちのもとに来てくださいました。

 

 

 

神の国の平和の実現のため

 

 

本日はご一緒に創立記念礼拝をおささげしています。創立を記念するにあたって、神さまの目から見て、私たち一人ひとりが、等しく、大切な存在であることを心に刻みたいと思います。この私も、私につながる一人ひとりも、キリストに結ばれているすべての人が、かけがえがない=替わりがきかない存在であること。だからこそ、私たちは互いに尊重し合い、重んじ合う道を歩むようにと招かれています。この真理をいつも心に刻むところから、少しずつ、平和は創り出されてゆくでしょう。

神の国の平和の実現のために、それぞれが、自分にできることを行ってゆきたいと願います。