2024年10月13日「大祭司キリスト」

20241013日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編13018節、ヨハネによる福音書114554節、ヘブライ人への手紙91115

大祭司キリスト

 

 

イスラエル・ガザ戦争から1

 

 先週107日、パレスチナのガザ地区におけるイスラエルとハマスの戦争が開始されて1年が経ちました。戦争はいまだ停戦へと至らず、現在も多くの人々の命が奪われ、その生活が破壊されています。ガザ地区の保健当局によると、この1年間の死者は約42000人にのぼるとのことです。その多くが子どもと女性です。皆さんも胸が張り裂ける思いで、この1年、ガザでの戦争の報道に接してこられたことと思います。

 イスラエル軍は、ハマスに連帯を示すレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラおよびヒズボラを支持するイランとも戦争を続けており、停戦へ至るどころか、より中東一帯の戦闘が激化している現状があります。一刻も早く戦争が停戦へと至りますように、イスラエルがガザの人々への虐殺を止めるよう、切に願います。

 

先週は、イスラエルがイランの核施設を報復攻撃の対象とするかもしれないという大変恐ろしい情報も飛び交いました。その後、核施設は報復攻撃から除外する可能性が高いと報道されましたが、緊迫した状況が続いていることには変わりはありません。イスラエルは事実上核兵器を保有しており、イランも核開発を進めています。現在行われている戦争において核兵器が使用される脅威は減少するどころか、さらに増している現状があります。

 

 

 

日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞

 

そのような中、一昨日の11日、今年のノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が受賞することが発表されました。日本被団協は広島・長崎の原爆の被爆者(生存者)の方々によって作られた組織で、1956年の結成以来、一貫して国内外で核の廃絶を訴え続けてこられました。ロシアがウクライナとの戦争において核兵器使用の可能性を示唆し、それによって脅しをかけるなど、核兵器使用の「タブー」に圧力がかけられている現状を踏まえての受賞であるとのことです。

ノルウェー・ノーベル委員長のヨルゲン・フリドネス委員長は、報道陣の《実際に紛争地で核兵器が使われる脅威が現実味を帯びてきた、という判断をしたのか》という質問に、《核の「タブー」を減退させるようなすべての言動は、人類にとって危険です。今年の賞は、それを守る必要性を訴える賞であり、特に核保有国には道義的な責任があります》と答えています(朝日新聞、20241012日朝刊、第3面)

 

花巻市在住で今年100歳になる岩手県原爆被害者団体協議会名誉会長の斎藤政一(まさかず)さんは毎日新聞の取材に応じ、《この日を待って、待って、待っていた。生きているうちに受賞の報に接することができ、こんなにありがたいことはない》と声を詰まらせて話されました。一緒に活動してきた仲間たちが次々にこの世を去る中、《核廃絶の実現に少しでも尽くすのが、自分の生きる意味だと思ってやってきた。長年の活動が認められたのだと思う。100歳になってこの知らせを聞けて良かった》とも語っておられます(毎日新聞website20241011日、https://mainichi.jp/articles/20241011/k00/00m/040/324000c

世界にはいまだ1万2千以上の核兵器が存在しています。核廃絶という共通の目標に向かって国際社会が一致して進んでゆかない現実があります。被爆者の方々の高齢化も進んでおり、平均年齢は85.58歳です。地方組織の解散も相次いでいるとのことです。北海道被爆者協会の事務局次長の北明(きため)邦雄さん(77)は朝日新聞の取材に応じ、今回の受賞について、《『おめでとう』で終わりではなく、『なぜ受賞したか』に想いをはせてほしい》と語っておられました。同協会は来年3月に解散するとのことですが、北明さんは《動ける被爆者は限られている分、気持ちを同じくする2世や支援者が代わって声を届けたい》とも語っておられます(朝日新聞、20241012日朝刊、第2面)。私たち次の世代が記憶を継承し、被爆者の方々の想いを受け継いでゆく、その責務の重要さを思わされます。

 

二度とこの地球上で核兵器が使用されることのないように――核の廃絶へ向けて、今一度ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと願います。

 

 

 

贖罪日(ヨム・キプール)

 

 先週の11日(金)の日没から昨日12日(土)の日没にかけて、ユダヤ教では贖罪日(ヨム・キプール)という祭日でした。贖罪日はユダヤ教の祭日において最も重要なものとして定められている日です。ヨムはヘブライ語で「日」、キプールは「覆う、償う、なだめる」という意味です。転じて「贖う」という意にも訳されます。

このヨム・キプールにおいて、ユダヤ教徒の方々はすべての労働を休止します(レビ記1631節参照)。現在も西エルサレムでは、この日は公共交通機関や会社・お店が休みとなります。あらゆる仕事が休止となるので、ユダヤ教徒の男性は顔も洗わず髭も剃らないそうです。インターネット、スマホの使用も休止です。

またこの日、イスラエルの民はすべての労働を休止するとともに、《苦行》をしなければない、と律法(レビ記1631節)は記します。苦行といっても必ずしも何か特別に苦しい修行をするということではなく、具体的には断食をすることを意味しています。現在も、ユダヤ教徒の方々の多くが(子どもと病人以外は)、日の出から日没までの間、断食をします。

1965年には、メジャーリーグのユダヤ教徒の投手がヨム・キプールのために試合の先発を拒否したという出来事が起こりました。また1973106日、ヨム・キプールで休息しているイスラエル軍に対してエジプト側が奇襲攻撃を仕掛けるという出来事が起こり、第四次中東戦争が勃発しました(またそれに伴い第一次石油危機が発生しました)。よってイスラエル側はこの戦争を「ヨム・キプール戦争」と呼んでいます。

 

昨日、イスラエルはガザでの戦争、レバノンとイランとの戦争をする中、緊迫した状況の中で、贖罪日を迎えました。静寂の中、人々はどのような心持ちで過ごしたのでしょうか。イスラエルの指導者の方々の内に、神のまことと正義が取り戻されることを願わずにはおられません。

 

 

 

大祭司による贖いの儀式

 

旧約聖書の時代、年に1度のこの贖罪日において、最も大きな役割を担うのが大祭司でした。大祭司はすべてのイスラエルの民の象徴(出エジプト記28221節)として、ただ一人、神殿の至聖所に入り、贖いの儀式を行います。

大祭司は、犠牲の動物の血を垂れ幕の奥の至聖所に携えて行って、贖いの座の上と前方に振りまきます。《こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う(レビ記1616節)。ここで血によって清められるべき「罪」とは、具体的には律法違反の罪を指しています。あらゆる律法違反の「罪」とその汚れから人々を清めるため、大祭司は年に一度、至聖所で贖いの儀式を行っていたのです。

エルサレム神殿が紀元70年にローマ軍との戦争によって破壊され、現在は贖いの儀式は行われてはいませんが、前述しましたように、ユダヤ教徒の方々は現在も贖罪日を大切に守り続けています。

 

 

 

大祭司キリスト

 

キリスト教において、贖罪日(ヨム・キプール)はどのように受け止められているでしょうか。キリスト教においては、贖罪日はもはや祭日には位置付けられていません(一部のグループにおいては、キリスト教徒もヨム・キプールを覚えて共に祈ろうという運動がなされているとのことです)。一方で、大祭司による贖いの儀式については、ユダヤ教にはない、まったく新しい位置づけがなされています。すなわち、新約聖書において、イエス・キリストこそがまことの大祭司であるという新しい解釈がなされているのです。特にそのことをはっきりと記しているのが、本日の聖書箇所の一つであるヘブライ人への手紙です。

 

ヘブライ人への手紙は、イエス・キリストこそは、まことの大祭司であったと記します。大祭司キリストが天の至聖所に入り、十字架上で、《ただ一度》御自身を犠牲として献げることによって、すべての罪を贖ってくださった。よって、もはや旧約聖書の時代のように、大祭司が毎年、繰り返し犠牲の献げ物を献げ続ける必要はなくなったというのが、ヘブライ人への手紙が提示している新しい解釈です。ここでの罪とは、律法違反の罪というより、私たちすべての人類の罪として受け止めることができるでしょう。

91112節《けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、/雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです》。

 

当然ながら、ユダヤ教徒の方々にとっては、このような解釈は受け入れがたいものであったでしょう。イエス・キリストへの贖罪信仰は、ユダヤ教とキリスト教を分かつ重要な要素となってゆきました。

 

 

 

「ただ一度きり」の犠牲

 

本日ご一緒に心を向けたいのは、イエス・キリストが《ただ一度》、ご自身を犠牲として献げてくださったというところです。イエス・キリストの十字架上の犠牲は、「ただ一度きり」のものです。イエスさまが《ただ一度》、ご自身を犠牲としてささげてくださったことにより、もはや私たちは犠牲をささげ続ける必要はなくなったのだということを、本日はご一緒に心に留めたいと思います。私たちはもはや、自他を犠牲にして歩むのではない道を歩むよう、キリストから招かれています。

 

日本では戦時中、「滅私奉公」という言葉が使われていました。私を滅ぼして(殺して)、公=天皇と国のために仕えることを良しとする言葉です。滅私奉公を強いること、あるいは強いられることは、いまの時代も起こり得るものではないでしょうか。国のため、社会のため、組織のため、自他を犠牲にして奉仕すること。戦争時、あるいは非常時に発生するものが、この滅私奉公的な考えです。

 

東京基督教大学教授の稲垣久和先生が、「滅私奉公」に対して、《活私開公》という言葉を提案しておられます。これからは、「滅私」(私を滅ぼすこと)ではなく、「活私」(私を積極的に活かすこと)が重要である。またその際、「奉公」(お上に対する奉公)ではなく、「開公」(公共に貢献する開かれた姿勢)が大切なものとなります。

稲垣先生の《活私開公》で重要であると思うのは、この「私」が、「かけがえのない私」である点です。《ここで「私」の意味は「自己」であり同時に「個人」であるような人格ということです。かけがえのない私、他にかえがたい希少価値としての私、人権や権利の主体である私、ということです》(稲垣久和『改憲問題とキリスト教』、教文館、2014年、77頁)

滅私奉公を自他に強いるとき、決定的に抜け落ちているのは、「神さまの目に、一人ひとりの存在がかけがえなく貴い」という視点です。私たち一人ひとりは神さまから見て、かけがえがない=替わりがきかない大切な存在なのであり、だからこそ、その命と尊厳が犠牲にされることがあってはならないのです。イエスさまは、私たちが国家や組織の犠牲となって苦しむことを願ってはおられないのだと私は信じています。

 

 

私たちがなすべきことは、イエスさまの「ただ一度きり」の犠牲を、その大いなる愛と恵みをただ受け取ることだけです。そしてその愛と恵みに生かされながら、「かけがえのない私」として、喜びをもって生きてゆくことです。大祭司キリストのただ一度の、そしてとこしえなる愛と恵みに、いま、私たちの心を開きたいと思います。