2024年10月20日「目標を目指して」
2024年10月20日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編34編16-23節、ヨハネによる福音書17章13-26節、フィリピの信徒への手紙3章7-21節
目標を目指して
中学生・高校生の頃、私は陸上部に所属していました。高校生の頃の専門の種目は400メートル。短距離の中では最も距離が長い種目です。最後の直線100メートルのラストスパートはとても苦しく、ゴールをした後は地面に倒れ込んでしまいそうになるほど気力と体力を消耗しました。いま振り返ると、よくあんなに苦しい種目を走っていたなあ、と思います。自分で自分をほめてあげたい(!)です。
中学・高校と私なりに懸命にクラブに打ち込んでいましたが、大学生になると陸上は辞めてしまいました。ですのでもうずいぶんと長い間、全力で走ることをしていません。前回全力疾走したのはいったいどれくらい前なのか、思い出せないくらいです。岩手に来てからは基本的に車移動。走ることはおろか、歩くことも少なくない日々です。健康のためにも、体を意識的に動かさなくてはなりませんね。
さて、中学・高校の陸上部でのことをお話したのは、今日お読みした聖書の箇所の中に「走る」ことに関連した表現が出てきたからです。フィリピの信徒への手紙3章13、14節《兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、/神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです》。
この箇所で具体的にイメージされているのが、陸上競技です。手紙の著者であるパウロは信仰者の歩みをここで、陸上競技にたとえているのですね。パウロは別の手紙でも陸上をたとえとして使っています(コリントの信徒への手紙一9章24-27節)。パウロという人は意外とスポーツ好きであったのかもしれません。
パウロはイエス・キリストについて、教会の人々に教える立場にあった人です。しかし、自分はまだまだ完全ではないと思っていたようです。陸上競技でたとえると、ゴールを目指して一生懸命走っている途中。目標を目指して、懸命に走っている最中なのだ、というのがパウロの率直な想いであったようです。自分はいまだゴールに達していないし、完璧・完全な者にもなっていないと受け止めていたのですね。
復活のキリストを目指して
では、パウロにとっての目指す目標とは何だったのでしょうか。10-11節には次のように書かれていました。《わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、/何とかして死者の中からの復活に達したいのです》。
ひたむきに走り続けるパウロが一心に見つめているのは、復活されたイエス・キリストのお姿でした。イエス・キリストが十字架の死より三日目に死者の中から復活された――。そのことを信じ、自分もいつか、死者の中からの復活に達したい、そのようにパウロが願っていたことが読み取れます。言い換えますと、復活のキリストと結び合わされることへの願い、そしてその復活の命の力に与ることへの願いです。
陸上競技でたとえますと、ゴールで両手を広げて待ってくださっているのが、復活されたイエスさま。「最期までよく走りぬいたね」とほめられ、与えられる賞が、イエスさまの復活の力ということになるでしょうか。パウロはその目標を目指して、懸命に、ひたすら走っているという心境であったようです。
十字架のキリストと結ばれて
では、パウロはただ独りで、孤独に目標に向かって走っているのでしょうか。そうではありません。パウロは自分は独りで走っているのではないと確信していました。他ならぬ、イエスさまがいつも一緒にいてくださっていると受け止めていたのです。イエスさまはゴールで待ってくださっているだけではなく、自分と共に走ってくださっているのだと信じていました。
そのイエスさまとは、十字架におかかりになっているイエスさまです。十字架のキリストが、いつも自分と一緒にいてくださっている。いつも自分と固く結びついてくださっている。まるで伴走者のようにして――。十字架のキリストに結ばれ、そのお苦しみに共に与っているというのが、パウロの日頃の実感でした。
パウロの別の手紙のガラテヤの信徒への手紙には次の言葉があります。《わたしは、キリストと共に十字架につけられています。/生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです》(2章19、20節)。また、コリントの信徒の信徒への手紙二には次の言葉もあります。《わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために》(4章10節)。
十字架のキリストと結ばれ、そのお苦しみに与りながら、何とかしてゴールで待ってくださっている復活のキリストにまでたどり着きたい。そうして、復活の命の力にも与りたい。その切なる願い、希望が書き記されているのが、本日のフィリピの信徒への手紙の箇所です。3章10-12節を改めてお読みいたします。《わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、/何とかして死者の中からの復活に達したいのです。/わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです》。
パウロとは異なる考えを持つ人々
このことをフィリピの教会の信徒たちへの手紙の中に書き記したのは、理由もあったようです。当時、パウロとは異なる考えを持つ人々が教会で別のことを教えており、その教えを是正したいとパウロは考えていたようです。
その人々は、自分たちはすでに復活のキリストに結ばれ、その復活の力に与っていると主張していました。「自分たちの身に、復活はすでに起こった」「自分たちは完全な者になった」と考えていたのですね。陸上競技のたとえで言いますと、「自分たちはもうすでにゴールしているよ」という考えです。
すでに述べましたように、パウロ自身は、いまだゴールには達していないと考えていました。目標を目指して、懸命に走っている最中である。この点において、パウロとその人々は違った考えを持っていました。
パウロと異なる考えを持つ人たちは、もしかしたら、復活の力に与ることを競争として捉えていたのかもしれません。自分たちは他の人々よりも先にゴールすることが出来た。そうしてまだゴールできていない人たちと自分たちを比較して、優越感に浸り、得意になってしまっていた部分があったのかもしれません。
けれどもそもそも、復活のイエスさまを目指すこの旅は、競争ではありませんね。誰かと比較するものではなく、勝ち負けでもありません。それぞれが、目標に向かって最後まで走り抜くことが大切であるのでしょう。パウロが陸上競技をたとえとして用いたのはそれが競争であることを伝えたかったのではなく、いまだ私たちはその旅路の途上にあること、そしてそれぞれが目標に向かって走り抜くことの大切さを伝えたかったからではないでしょうか。
また、すでに復活のキリストに結ばれていることを強調し過ぎることは、いま、十字架のキリストに結ばれていることへの感受が背後に退いてしまうことにもつながってしまい得るものです。十字架のキリストに結ばれ、その苦しみに与ることには、私たちにとって、かけがえのない、重要な意味があるからです。
イエスさまと共に、愛する人々と共に、すべての存在と共に
パウロが記したローマの信徒への手紙の中に次の言葉があります。《被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。/被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます》(ローマの信徒への手紙8章22、23節)。
被造物とは、神さまによって造られた存在のことを指します。私たち人間のみならず、すべての被造物が共にうめき、産みの苦しみを味わっているとパウロは語っています。産みの苦しみとは、私たちが神の子とされ、体が贖われること。言い換えますと、復活のキリストに結ばれ、復活の力に与るようになることです。
先ほど、パウロは自分は独りで走っているのではないと確信していたと述べました。イエスさまがいつも一緒にいてくださっているからです。自分は独りではない、ということはもう一つ、大切な意味があります。それは、愛する人々と共に走っているということです。
私たちは互いに支え合い、助け合いながら、共に、復活のキリストを目指して進んでいます。すべての被造物も共に、永遠の命の光を目指して進んでいます。十字架のキリストに結ばれ、共にうめきながら――互いの痛みを、悲しみを、苦しみを共有しながら。また、互いの喜びを、楽しみを共有しながら。だから、私たちは独りなのではありません。パウロはこの「共に」ということを大切にしたいと思っていたのだと思います(ローマの信徒への手紙12章15節)。もし隣りの人が苦しんでいるのなら、自分もその人と共に、その苦しみを共にしながら進んでゆきたいと願っていたのではないでしょうか。
そうして、私たち一人ひとりがゴールにたどりつくまで、すべての被造物が復活の力に与るその終わりの日まで、イエスさまは十字架におかかりになったお姿で、私たちといつまでも共にいてくださるでしょう。イエスさまは私たちに約束をしてくださいました。《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》(マタイによる福音書28章20節)。だから、私たちは独りなのではありません。
イエスさまと共に、愛する人々と共に、すべての存在と共に、完成の日に向かって歩んでいることをご一緒に心に留めたいと思います。