2024年11月10日「共に生きてゆくために」
2024年11月10日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:マタイによる福音書3章7-12節、ガラテヤの信徒への手紙3章1-14節、創世記13章1-18節
2024年「障がい者週間」 ~「支え合う『いのち』」
本日11月10日(日)から16日(土)まで、「障がい者」週間です。NCC(日本キリスト教協議会)は、毎年11月の第2週を障がい者週間に定めています。障がい者週間は、障がいに対する偏見と差別をなくし、お互いに支え合っていけるよう祈りをあわしてゆく期間です。今年のテーマは昨年と同様、「支え合う『いのち』」、主題となる聖書の言葉は《見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び》(詩編133編1節)が選ばれています。互いに支え合い、共に生きてゆくことが出来る在り方をご一緒に祈り求めてゆきたいと思います。
NCC「障害者」と教会問題委員会発行の『「障害者」と教会問題NEWS』(No.73、2024年9月19日)の巻頭言で、委員長の日髙馨輔さんが次のように記していらっしゃいました。
《これまでの10年を振り返り、「障害者」にとっての生活環境、また法的環境も整えられつつあります。加えて、「障害者」への理解も多少ながらも進んできているように見られます。とはいえ、現実には「障害者」が生きる社会が依然として変わっているわけではありません。また、ある意味で情報、経済格差が強まり広がっているようにさえ感じられます。「障害」を持つ今の子どもたちが未来に向かって希望を持って歩み続けて行くためには何が必要なのでしょうか? わたしは学校での教育が課題では無いだろうかと考えています。文部科学省は「障害児」に対する教育に対して分離教育(特別支援学校への入学)を進めています。しかし、地域の学校に入学し、「非障害児」と共に学ばせることが真の教育であり、インクルーシブな社会を形成してゆく源ではないでしょうか》。
日髙さんは現在の課題として学校での教育を挙げ、これまでの分離教育ではなく、障がいをもった子どもが地域の学校に入学し、共に学ぶことがインクルーシブな社会を形成してゆく源となるのではないかと述べておられます。昨日行われた「障がい者週間」の集いでは、講師に片桐健司さん(日本バプテスト連盟・元小学校教員)をお招きし、障がい児教育についてお話をしていただいたとのことです(講演題:『障がい児も共に普通学級で――その教育実践を学ぶ』)。
インクルーシブな社会の形成
引用した日髙馨輔さんの文章の中に《インクルーシブな社会》という言葉が出てきました。インクルーシブとは、「包摂的」という意味の言葉です。インクルーシブな社会とは、違いを持った一人ひとりがそのままに、誰一人排除されることなく包摂されている社会のことを指します。違いを受け止め合い、共に支え合うことができる社会のことです。今年の障がい者週間のテーマ「支え合う『いのち』」は、このことを表現しているのだと受け止めることができます。
引用した文章の中で今後の課題として挙げられていた、障がいを持った子どもも持っていない子どもも共に学ぶという教育の在り方は、インクルーシブな社会の形成を目指すものです。「共に」というのは、私たち教会においても大切な課題ですね。私たち教会が、誰一人取り残すことなく、一人ひとりを包み込む教会となっているか、絶えず問い直すことが求められていると思います。
ぽっぽの会、ののはなハウスの活動のご紹介
先月10月13日(日)の午後、重い障がいがある在宅者の生活を豊かにする会、通称「ぽっぽの会」主催のぽっぽCAFEが花巻市のなはんプラザを会場にして行われました。重い障がいがある在宅者とその家族のより良い暮らしを考える機会、互いに交流する機会になることを願って開催されました。役員会が終わってから、私も遅れて参加いたしました。ぽっぽの会には花巻教会のメンバーである上野さんご家族が参加しておられます。
ぽっぽの会の案内には、「ぽっぽの会が目指すこと」として、「居場所づくり」「余暇活動」「家族の休息と憩いの場づくり」「周知活動」が挙げられています。「居場所づくり」について記した一文を引用させていただきます。
《居場所づくり/重い障がいがある子どもたち・人たちは、健康面の配慮が健常な方より多く必要なため、ふつうの人が通う保育施設や学校や園をほとんど利用できません。限られた施設や学校、家庭以外に居場所がないのです。特に支援学校を卒業して大人になると、病気や障害のために就労することができず、行くところがなくなってしまいます。/家庭以外にも居場所を作ってあげたい。こういう子どもたちの存在を知ってもらいたい。就学前、学齢期、卒業後、そして親が面倒を見られなくなってからも安心して暮らせる、それぞれの居場所を確立することが私たちの願いであり、目指すことです》(「ぽっぽの会」案内より)。
重い障がいがある子どもたち・人たちは限られた施設や学校、家庭以外に居場所がない。だからこそ、安心して暮らせるそれぞれの居場所を確立したいとの願いと目標をもって、活動を続けておられます。
上野さんご家族はご自宅を開放し、「ののはなハウス」として活動をしていらっしゃいます。SNS(Instagram)のプロフィールを引用させていただきます。《~障がいあるなしにかかわらず共に楽しく暮らしたい~/全介助・医療的ケア等が必要な方と、共に楽しく過ごす居場所づくりからスタート/★毎週木曜日 13:30~15:30 音楽&お茶っこの時間/★毎月第2金曜日、最終土曜日 16:30~19:30 みんなで夜ごはん会♪》。
「みんなで夜ごはん会♪」は当初はご自宅で開催されていましたが、7月より花巻教会を会場にして開催していただいています。先週金曜日に開催した夜ごはん会には、お子さま8名、大人12名が参加。たくさんの方がご参加くださり、にぎやかな、楽しいひとときとなっています。花さんの生活について知ってもらう目的で夜ごはん会が始まり、現在は必要な居場所として参加してくださる方もいて、そのことが活動を続ける力の源にもなっているとのことです(『花巻教会だより』第36号、洋介さんの寄稿文より)。これからさらに、様々な方が関わってくださるようになったら嬉しく思います。
居場所づくりという課題
ぽっぽの会、ののはなハウスの活動について、皆さんにご紹介しました。目的として挙げている「居場所づくり」は、私たちにとって、とても大切な課題ですね。インクルーシブな社会を作ることは、一人ひとりの居場所を作ってゆくということでもあると思います。
いま、障がいの有無にかかわらず、多くの人が、自分の居場所がないと感じています。言い換えますと、自分は社会から排除されている、取り残されていると感じています。一人ひとりの居場所をいかに作ってゆくかは、私たちの社会にとって、喫緊の課題です。私としても、この教会が集って来てくださる方の居場所の一つになることができればと願っています。
約束の地 ~とこしえの居場所として
メッセージの冒頭で、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の創世記13章1-18節をお読みしました。神さまがイスラエル民族の父祖アブラハムに、カナンの地を与えると約束をする場面です。カナンの地とは、現在のパレスチナのことです。神さまはアブラハムに対し、子孫の繁栄とカナンの地への定住を約束しました(12章1-7節も参照)。
13章14-17節《さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。/見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。/あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。/さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから》。カナンの地をイスラエルの「約束の地」とする根拠の一つとなっている箇所です。
カナンの地が与えられることを神から約束されたアブラハム。これは言い換えますと、神から、カナンの地をとこしえの居場所として与えられることを約束されたのだと受け止めることができます。
他者の居場所を奪うことによって、自分たちの居場所を確保しようとすること
その後、アブラハムの子孫たちは、神の約束を信じ、荒れ野での40年の旅の末(『出エジプト記』~『ヨシュア記』)、カナンの地への入植を果たします。ただし、そのカナンは無人の地ではなく、すでに先住民族が住んでいました。カナン人やアモリ人など、先住民族による都市が形成されていたのです。旧約聖書の物語においては、イスラエル民族は先住民族との戦争をし、それらの土地を奪うことによって、カナンの地への定住を果たします。他者の居場所を奪うことによって、自分たちの居場所を確保しようとしていったのです。
カナンへの入植は、イスラエル民族の視点からすると「神の約束の実現」ですが、先住民族の人々の視点からすると、「侵略」となります。このことは、現在のパレスチナ問題とも密接につながっています。1948年、国家としてのイスラエルが建国された際、イスラエルが行ったのは、すでにパレスチナに住んでいるパレスチナ人の土地を奪うことによって、そこに定住を果たしてゆくことでした。
私たちはいま改めて、これらの旧約聖書の約束の物語を読み直すことが求められているでしょう。いまを生きる私たちは、他者の居場所を奪うことによって自分たちの居場所を確保しようとすることをもはや正当化することはできません。確かに、自分の居場所を確保することは、私たちにとって、喫緊の課題です。しかしだからといって、他者の居場所を奪っても良いことにはならない。それぞれの居場所をいかに確保することができるか、いかにして、異なる他者同士が共に生きてゆくことができるかを考えることが求められています。
現在の、イスラエル軍によるパレスチナの人々に対する虐殺も決してゆるすことができないものであることはもちろんのことです。ガザでの戦争が一刻も早く停戦へと至りますように、イスラエルがガザの人々に対する虐殺を停止するよう強く求めます。
分かち合うことの尊さ
先ほどご一緒に讃美歌424番『美しい大地は』を歌いました。1番の歌詞にはこう記されていました。
《美しい大地は 私たちの神が/与えられた恵み、貴い贈り物。/約束の大地は わかちあいの大地。/神の強いみ手に 導かれた土地》(詞・曲:Elena G. Maquiso、日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21』所収、日本基督教団出版局、1997年)。
この讃美歌では、神が与えられた約束の大地は《わかちあいの大地》だと謳われています。異なる他者同士が共に生きてゆくために大切なこと、それは分かち合うという姿勢ではないでしょうか。
神さまはこの美しい大地を、それぞれが自分のものとして独占するために与えられたのではない。私たちが共に分かち合い、支え合うための場所として与えてくださっているのです。共に分かち合い支え合うことを通して、いま私たちが生きているこの場所が、私たちの居場所になってゆくのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。
この場所を私たちの居場所に
この後、讃美歌419番『さあ、共に生きよう』をご一緒に歌います。4番の歌詞には次のように記されています。《さあ、共に生きよう。/主は飢えた者に/その身をパンとして/与えてくださる》(詞・曲:Rolf Schweizer、同所収)。
イエス・キリストはご自身の体をパンとして、私たちに与えてくださったことが謳われています。イエスさまは私たちに、そのお身体を通して、分かち合うことの尊さを伝えてくださいました。いまも、伝え続けてくださっています。この世界に存在するものはみな、限りあるものです。この大地も、この命も、限りあるもの。時間も、私たちの手もとにあるものも、限りあるもの。限りあるものを私たちが互いに分け合うことによって、限りのない神さまの愛が現れ出ます。
私たちが共に分かち合い、支え合って生きてゆくことができますように、いま生きているこの場所を私たちの居場所にしてゆくことができますように、お祈りをおささげしましょう。