2024年12月22日「ここに、神の愛が示された」
2024年12月22日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書9章1、5-6節、ヨハネの手紙一4章7-14節、ヨハネによる福音書1章1-14節
クリスマス礼拝
本日は皆さんとご一緒にクリスマス礼拝をおささげできますことを感謝いたします。クリスマスの恵みが皆さんと共にありますようお祈りいたします。
講壇の前に飾っているアドベント・クランツのろうそくにもすべて火がともりました。教会ではアドベントの時期になるとクランツのろうそくに毎週1本ずつ火をともしてゆく風習があります。クリスマス礼拝をおささげする今日、4本すべてのろうそくに火がともっています。
このろうそくの光は、キリストの光を指し示しています。聖書はイエス・キリストを「まことの光」と呼んでいます。先ほどご一緒にお読みした聖書箇所には次の一節がありました。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである》(ヨハネによる福音書1章9節)。暗闇の中に輝くキリストの光――愛と平和の光――に、本日はご一緒に心を向けたいと思います。
聖書が語る愛
先ほど礼拝の中でヨハネの手紙一4章7-14節を読んでいただきました。冒頭には次の言葉がありました。《愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです》(7節)。この言葉を始め、本日の聖書箇所ではたくさん「愛」という言葉が使われています。
改めて、聖書が語る愛とはどのようなものでしょうか。
聖書における愛は、ギリシア語でアガペーと言います。聖書がアガペーという言葉を使うとき、それは第一の意味として、「神の愛」を指します。私たちから生じる愛というより、神から生じている愛を指します。いまお読みしたヨハネの手紙一4章は、続けてこう語っています。《愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです》(8節)。神は愛であるから――ヨハネの手紙は「神は愛である」とはっきりと語っています。
では、そのアガペーなる愛とは、どのようなものでしょうか。私なりに表現すると、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にすること」です。このアガペーなる愛は、相手のことが「好き」か「嫌い」かを超えて、相手の存在を重んじ、大切にするように働くものです。
聖書は、神さまが私たち一人ひとりの存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしてくださっていることを語っています。そして聖書は、神さまが私たちを愛するゆえ、独り子であるイエス・キリストを私たちのもとにお送りくださったことを証しています。
ここに、神の愛が示された
ヨハネの手紙一4章は、次のように続けます。《神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました》(9節)。
「お遣わしになった」という言葉には、イエス・キリストが「人となってお生まれになった」ことだけではなく、ご生涯の終わりに「苦しみを受け、十字架におかかりになった」ことが含まれています。この言葉には、イエスさまのご生涯の、そのはじめから終わりまでのすべてが含まれているのですね。
ここで、イエスさまは《独り子》と呼ばれています。《独り子》という言葉には、「愛する子」という意味合いがあります。神さまにとって、イエスさまは、かけがえのない、愛する独り子である。その独り子を、神さまはご自分のもとから切り離し、この世にお遣わしになってくださった。それは言いかえると、それほどまでに神さまが私たちのことを愛してくださっているということです。《ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました》。
神さまはその独り子をお与えになるほどに、私たち一人ひとりを愛してくださった(ヨハネによる福音書3章16節)。かけがえのない存在として重んじてくださった。聖書はそのことを私たちに伝えています。クリスマスは、その神さまの愛が世界に現わされた日です。
重んじられることの喜び、軽んじられることの悲しみ
愛とは、相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にすることであると述べました。愛が他者を重んじることであるとすると、その反対は、他者を軽んじることです。愛の反対は、相手の存在を軽んじることであると言えるのではないでしょうか。
私たちは人から「重んじられている」と感じることができたとき、とても嬉しく思うものです。嬉しく、誇らしい気持ちも湧いてくるものです。反対に、私たちは人から「軽んじられている」と感じるとき、とても悲しく思います。侮辱されたように感じ、自尊心が深く傷つけられます。
ヘブライ語の「軽んじる」という語には「呪う」という意味もあるそうです。他者を軽んじるという行為は、それほどまでに、相手に深刻な影響を与えるものである。相手の存在の内に呪いを植え付けるものである。だから、他者を軽んじる言動は決してしてはならないという、古代イスラエルの人々の認識が示されているように思います。
私たちのいまの社会においては、残念ながら、他者を軽んじる言動が様々な場面で見られます。私たち自身、時にそのような振る舞いをしてしまうことがあるかもしれません。そのような中で、互いに軽んじ、軽んじられるという連鎖が生じてしまうこともあるでしょう。「互いを軽んじる」連鎖をいかにして断ち切ってゆくか――。いまを生きる私たちにとって、切実な課題です。互いを軽んじ傷つけあうのではなく、互いを重んじる道を歩むよう、私たちはイエスさまから招かれています。
《互いに愛し合いなさい》
イエスさまはおっしゃいました。《互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい》(ヨハネによる福音書13章34節)。イエスさまが私たち一人ひとりを大切にし、重んじてくださっているように、私たちも互いを重んじ合うこと。その愛と平和の道を歩むよう、イエスさまは語り続けてくださっています。
イエスさまはそのご生涯の最期、私たちのために命をささげてくださいました。私たちの存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしてくださるゆえに。私たちを愛し、極みまで私たちの存在を重んじてくださるゆえに、イエスさまは十字架上でその命までもささげてくださった方です。《ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました》。
この神さまの愛を受け、ヨハネの手紙も私たちに次のように呼びかけています。《愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです》(ヨハネの手紙一4章11節)。
イエスさまが私たちをかけがえのない存在として重んじてくださっているように、私たちも互いを重んじ合うこと。互いの存在を認め合い、その生命と尊厳を重んじ合ってゆくこと。私たちがこの愛の掟をしっかりと心に留め、日々の生活の中で、実践しようとすることを通して、少しずつ、平和は実現されてゆくのではないでしょうか。私たち一人ひとりには、イエスさまの後に従い、この地に平和を実現してゆくための使命が与えられています。
ここに集った皆さんの内に、またご事情によってここに集うことが叶わなかった皆さんの内に、イエスさまの愛と平和の光が共にありますようお祈りいたします。