2024年12月29日「占星術の学者たち」
2024年12月29日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書60章1-6節、エフェソの信徒への手紙3章2-12節、マタイによる福音書2章1-12節
今年最後の礼拝
本日が今年最後の礼拝となります。この2024年の教会の歩みが、神さまと多くの方々の祈りによって支えられましたことを感謝いたします。
先週の22日(日)にはクリスマス礼拝をおささげし、24日(火)にはクリスマス・イブ燭火礼拝をおささげすることができました。キリストの愛と平和の光が皆さんの内にともされますようにお祈りいたします。
25日は過ぎましたが、教会の暦では1月6日(月)の公現日(エピファニー)までがイエスさまの誕生を覚えるクリスマスの期間となります。ですので、リースやツリーもまだそのままにしています。公現日は、イエス・キリストが人々の前に「公に現れた」ことを記念する日です。
占星術の学者たち
本日の聖書箇所マタイによる福音書2章1-12節は、1月6日の公現日に読まれることも多い箇所です。占星術の学者たちが不思議な星の光に導かれ、赤ん坊のイエス・キリストを探し当てて贈り物をささげるという良く知られた場面ですね。イエス・キリストの光が、この時、占星術の学者たちの前に公に現わされました。
9-11節《彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。/学者たちはその星を見て喜びにあふれた。/家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた》。
占星術の学者たちを導いた星は、「ベツレヘムの星」と呼ばれます。クリスマスツリーのてっぺんに飾られている星は、このベツレヘムの星を現わしています。この星が一体何なのかは、後世の私たちにははっきりとは分かりません。この不思議な星に導かれ、占星術の学者たちはイエス・キリストがお生まれになった場所を探し当て、幼子に宝物をささげることができました。
この東方の学者たちは、天文学・占星術を専門とする人々であったと考えられます。夜空を見上げて天体の位置や動きを研究していた人々です。絵画では伝統的に三人組として描かれることが多いですが、聖書本文には三人という人数が記されているわけではありません。三人とされたのは、かつて、古代教父のオリゲネスという人が、贈り物が「黄金、乳香、没薬」の三種類だったことに合わせて、学者の数も三人だとみなしたことに由来しているそうです(参照:クリスマスおもしろ事典刊行委員会編『クリスマスおもしろ事典』、日本キリスト教団出版局、2003年、60頁)。
ここでご一緒に心に留めたいことは、この学者たちがユダヤ人ではなく、外国人であったことです。東方から来た、ということは、彼らが外国から来た人々であることを意味しています。聖書特有の言い方をするなら、「異邦人」です。最初に、異邦人である彼らに、イエス・キリストの光は公に現わされました。ここから、キリストの光はユダヤ人だけではなく、異邦人にも届けられるようになるというマタイ福音書の著者のメッセージを読みとることができます。民族や国籍、あらゆる違いを超えて、私たち一人ひとりにキリストの光が届けられる――これが、本日の聖書箇所が私たちに伝える大切なメッセージの一つです。占星術の学者たちが見出した不思議な星の光は、このキリストの光をいち早く指し示すものであったのかもしれません。
占星術の学者たちは、夢で「ヘロデのところへ帰るな」とお告げを受け、別の道を通って、自分たちの国へ帰ってゆきました。その地を治める王であるヘロデは、占星術の学者たちがから「ユダヤ人の王となるべき人物が生まれた」ことを聞き(2章2節)、不安に駆られ、情報を集めようとしていたのでした。
ヘロデ王は、占星術の学者たちが自分のところへ報告もせず、別の道を通って帰って行ったことを知り、激怒します。そして、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺すよう命令を下します。
2章16-18節《さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。/こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。/「ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」》。幼子イエスとマリアとヨセフは、事前に天使から知らせを受けエジプトに避難していたことにより無事でした(2章13-15節)。
キリストの誕生という最高に喜ばしい出来事の直後に記される、悲惨な出来事。イエスさまの誕生後に挿入されているこの幼児虐殺のエピソードは、私たちの心に暗い影を落としています。
現代では、この幼児虐殺の出来事は史実として考えることは難しいとされています。「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を一人残らず殺した」ということが、マタイが記す通りに、文字通り行われたとは、実際には考えにくいことだからです。
そう知らされると幾分ホッとする想いもいたしますが、一方で、幼い子どもたちの命が奪われるという悲劇は、現在も、現実に起こり続けています。その意味で、この幼児虐殺の出来事は歴史的な事実ではないとしても、私たちの生きるこの世界の現実の悲しみを表わしている箇所として受け止めることができるのではないでしょうか。
《ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ》
マタイはこのエピソードの締めくくりに、旧約聖書の言葉を引用しています。預言者エレミヤの言葉です。マタイは幼児虐殺の出来事を、このエレミヤの預言の成就として捉えていることが分かります。18節《ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから》。
このエレミヤの預言は、紀元前6世紀に起こったユダ王国の滅亡とバビロンへの捕囚という歴史的な事実を念頭に置いています。国が滅び、多くの人が異国へと連行されてしまったという悲劇の中で、このエレミヤの言葉は語られているのですね。
ラケルは創世記に登場する女性で、イスラエル民族の祖ヤコブと結婚した人物です(創世記29章16-30節)。いわば、「イスラエル民族の母」と呼ぶことができる人物です。ラケルが生きていたのは、もちろんバビロン捕囚よりはるかに昔の時代ですが、母という存在を象徴する人物として、ここでラケルの名が登場しているのでしょう。
バビロンとの戦争によって愛する子どもたちが死んでしまった、またはバビロンによって遠い異国へと強制的に連行されてしまった。エレミヤが聴き取っているのはこの母親たちの悲痛な叫びです。母たちは子どもたちのことで泣き、もはや誰からも慰めてもらおうとはしません。愛する子どもたちがもういないからです。我が子を失った悲しみの中で、母親たちは他者から慰められることを拒みます。
かつてエレミヤが聴き取ったこの声は、いまも、私たちが生きる世界のあちこちで湧き上がっています。愛する存在との別れに激しく嘆き悲しむ声が至るところで上がっています。その悲しみのただ中にいる人は、慰めの言葉を拒みます。慰めの言葉はその人々に届くことはありません。
マタイが記す本日の幼児虐殺のエピソードは、人々の深い悲しみ、嘆きがまるで一つに凝縮されているような箇所であると受け止めることができるのではないでしょうか。
現在のパレスチナの惨状
思い起こさざるを得ないのは、現在のパレスチナの惨状です。ガザ地区の保健省は、この度の戦争でこれまでにおよそ4万5000人以上の人々が殺されたと発表しています。その内、3割から4割が子どもです。消息不明者や関連死者数も含めると、全体の死者数はもっと多くなるとも言われています。
イエス・キリストがお生まれになったベツレヘムは、パレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区に属しています。ガザ地区とも距離が近い場所です。ベツレヘムでは2年連続で公のクリスマス関連行事は中止になったとのことです。ある教会では、幼子イエスの人形ががれきの山に飾られ、クリスマス礼拝ではガザの壊滅的な現状に強い想いを寄せ、ガザの人々に対する祈りがささげられました(BBC News Japan、「イエス・キリストの生誕地ベツレヘム、2年連続でクリスマスの祝祭を中止」、https://www.youtube.com/watch?v=kzVfnlpkRzk)。
《ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから》。かつてエレミヤがラマで聴き取った嘆き悲しみの声は、この1年間、ガザのあちこちで湧き上がり続けています。
これ以上、子どもたちのかけがえのない命が傷つけられ、失われることのないようご一緒に祈りを合わせたいと思います。戦争が一刻も早く停戦へと至りますように、パレスチナの人々に対する虐殺が一刻も早く中止されるよう、強く求めます。
隠された預言の後半部分
マタイが引用しているエレミヤの預言には、続きがあります。マタイが引用しているのは半分だけであり、エレミヤ書の本文では、次の言葉が続きます。《主はこう言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい。/あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。/息子たちは敵の国から帰って来る。/あなたの未来には希望がある、と主は言われる。/息子たちは自分の国に帰って来る》(エレミヤ書31章16-17節)。
慰めと希望を語るこの後半部は、マタイ福音書2章においては記されていません。マタイは意図的にこの後半部はあえて記さず、前半部だけを記しているようです。
預言の後半部分が成就されるのは、その先のことです。イエスさまはそのご生涯をもって、そして十字架の死と復活の出来事をもって、この隠された預言の後半部分を実現してくださいました。よって、マタイはイエスさまの誕生の時点では、あえて預言の前半部分だけを記し、後半分部分は記さなかったのでしょう。
ご生涯の最期、十字架の死から三日目に、イエスさまは死よりよみがえられました。そして愛する者たちのもとに帰って来てくださいました。マタイ福音書の根幹にあるのは、この復活のキリストへの信仰です。
この地上に平和が来ますように
私たちが日々の生活の中で経験するのは、エレミヤの預言の前半部だけであるかもしれません。私たちの内にあるのは、ラケルの嘆きです。聴こえてくるのは慰めと希望の言葉ではなく、嘆き悲しむ人々の声です。私たちの生きる世界においては、預言の後半部分は、いまだ隠されたままのようにも思えます。
いまこの瞬間も、たくさんの人々の生命と尊厳が傷つけられています。世界のあちこちで、嘆き悲しむ人々の声が響いています。これ以上、かけがえのない命が傷つけられ、失われることのないように、この地上に平和が来ますように、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。イエスさまが私たちを重んじてくださったように、私たちも互いを重んじ、一人ひとりの生命と尊厳をまことに大切にしてゆくことができますようにと切に願うものです。
《泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい》
もう一つ、最後にご一緒に心に留めたいのは、しかし、どんなものも、イエスさまによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないということです(ローマの信徒への手紙8章38、39節)。たとえ私たちの目にはつながりが絶たれたように見えても、イエスさまからするとそうではありません。イエスさまはいつも、私たちとつながっていてくださる。そしてイエスさまの愛と命に結ばれた私たちも、互いにつながり合っている。そのきずなは、死をもっても断ち切られることはありません。イエスさまはご自分の十字架と復活をもって、この愛と真理を私たちの間に現わしてくださいました。
《主はこう言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい》。いま悲しみの内にある方々に、イエス・キリストご自身の光が届けられますようにと願います。