2024年1月14日「キリストの愛にとどまる」
2024年1月14日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編119編9-16節、ガラテヤの信徒への手紙1章11-24節、ヨハネによる福音書1章35-51節
能登半島地震
1月1日、最大震度7を観測した能登半島地震が発生しました。甚大なる被害の報告に、皆さんも大変心を痛めていらっしゃることと思います。13年前の東日本大震災の記憶を思い起こしている方も多くいらっしゃることでしょう。この度の地震によって愛する人を失った方々の上に神さまの慰めを祈ります。またいま避難生活をし、困難な生活を強いられている方々の上に神さまのお支えがありますように、必要な支援が行き渡りますようにと祈ります。
日本基督教団に属する教会では、特に、輪島教会に大きな被害が生じています。中部教区(富山・石川・福井・岐阜・愛知・三重の6県で構成)のホームページに、教区内の教会・伝道所の被災状況についての情報が随時掲載されていますので、どうぞご確認ください(http://uccj-chubu.com)。教団と中部教区のそれぞれで、能登半島地震募金が開始されています。祈りをもってご協力をいただきますようお願いいたします。
被災した方々を覚えて、引き続き、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
この度の地震によって、志賀原発(石川県志賀町、運転停止中)でも重大な影響が生じています。志賀原発は現在1、2号機とも運転停止中ですが、再稼働に向けての審査が進められていたところでした。そのような中で起こった、この度の大地震。震度5強の揺れによって、1・2号機の変圧器の配管が壊れて、約2万リットルもの油漏れが発生、外部電源とつながる送電線の2系統が使えなくなる事態が生じました。別の回線に切り替えることで、使用済み核燃料の冷却などが行われています。原発内には非常用電源もあるため、北陸電力は安全確保に影響はないとしていますが、震度5強の揺れでこのようなトラブルが生じるというのは、一体どういうことなのか。不安と強い不信感を感じずにはおられません。
また、北陸電力は地震発生から8日も経ってから、1月1日にはおよそ1メートルから3メートルの津波が複数回到達していたことを発表しました。なかなか情報が発信されず、情報が発信されたとしてもそれが二転三転するというのが、今回の対応でした。原子力規制委員会はこの度の地震の原発への影響について、「現時点で異常なし」と報告していますが、一歩間違えれば大事故にもつながった、重大なトラブルであると言えるでしょう。いまもこの度の地震と津波による影響の全貌が明らかでない部分もあります。
私たちが住むこの日本には、至るところに活断層があります。いつ大地震が生じてもおかしくない地に建てられている、原発。原発がこの世界に存在し、稼働していること自体が、いかに恐ろしいことであるか。すべての生命とその安全を脅かすものであるのかを改めて思い知らされています。取り返しのつかない事態が生じる前に、原発を廃止してゆくことが、いまを生きる私たちの責務であると考えます。13年前に起こった東京電力福島第一原子力発電所の事故を、二度と繰り返してはなりません。
原発がこの地から無くなりますように――いま一度私たちの内にその決意を新たにしてゆきたいと願います。
キリストの愛にとどまる
本日の聖書箇所は、イエス・キリストがペトロやアンデレたちを弟子へと招く場面です。洗礼者ヨハネと共にいた二人の弟子は、《見よ、神の小羊だ》というヨハネの言葉を聞き、イエス・キリストの後に従ってゆきます。
改めて、前半のヨハネによる福音書1章35-39節をお読みいたします。《その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。/そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。/二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。/イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、/イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである》。
洗礼者ヨハネの言葉に促され、イエスさまの後に従ってゆくアンデレたち。イエスさまは彼らがご自分の後に従ってくるのをご覧になり、《何を求めているのか》とおっしゃいます。彼らが《どこに泊まっておられるのですか》と言うと、イエスさまは《来なさい、そうすれば分かる》とお答えになります。アンデレたちはついて行って、イエスさまがどこに泊まっておられるかを見ます。そしてその日は、イエスさまのもとに泊まります。
「泊まる」という言葉は、「とどまる」とも言い換えることのできる言葉です。原語のギリシャ語では「メノ-」。「とどまる」は、ヨハネ福音書において重要な意味を持つ言葉の一つです。ヨハネ福音書では40回も使用されています。
弟子たちの《どこに泊まっておられるのですか》との質問は、「どこにとどまっておられるのですか」とも言い換えることができるものなのですね。アンデレたちはイエスさまの後についてゆき、イエスさまがどこにとどまっておられるのかを見ます。そうしてその日は、イエスさまのもとにとどまります。
この「とどまる」は、ヨハネ福音書では他にどのような箇所で使われているでしょうか。代表的な箇所は、15章9節です。《父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい》。
イエスさまはここで、《わたしの愛にとどまりなさい》と呼びかけておられます。この言葉から、「とどまる」という言葉が、どこにとどまることを意味しているかが明らかになります。それは神さまの愛であり、キリストの愛です。キリストの愛にいつも結ばれていることを、ヨハネ福音書は「とどまる」と表現しているのですね。
アンデレたちはイエスさまの後に従い、イエスさまが「どこにとどまっておられるのか」を見ました。その場所こそが、神さまの愛でした。そうして、アンデレたち自身もイエスさまのもとにとどまりました。それは、アンデレたちがイエスさまの愛にとどまったことを意味しています。それは、ただイエスさまのもとに「滞在した」「泊まった」ことを意味するのではなく、イエスさまの愛の内にとどまったことを意味しています。
神さまが独り子であるイエスさまを愛されたように、イエスさまも私たち一人ひとりを愛してくださっている。このイエスさまの愛にとどまっていることの大切さを本日はご一緒に思い起こしたいと思います。
イエスさまは私たち一人ひとりを、かけがえのない存在として愛してくださっています。替わりがきかない存在として、神の目に価高く貴い(イザヤ書43章4節)存在として、重んじてくださっています。イエスさまの弟子となるということは、このイエスさまの愛にいつも結ばれていることを意味しているのだと受け止めることができます。私たち一人ひとりが、イエスさまに愛された弟子(愛弟子、13章23節)なのです。
ぶどうの木のイメージを通して
いま引用しました15章9節は、良く知られた「イエスはまことのぶどうの木」(15章1-10節)の中の一節です。《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である》(15章1節)との言葉で親しまれている箇所です。
15章4、5節には次の言葉がありました。《わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ》。
ここでも、「とどまる」と同じ語が使われています。「つながる」と訳されている部分です。ですので、いまお読みした箇所は、次のように訳することもできます。「わたしの内にとどまっていなさい。わたしもあなたがたの内にとどまっている。ぶどうの枝が、木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことができない。…》。
「とどまる」とは、イエスさまの愛にいつも結ばれていること。イエスさまはここでは、それをぶどうの木のイメージを通してお語りになっています。ぶどうの枝が幹から離れないでいつもしっかりつながっているように、いつもキリストの愛につながっていること、キリストの愛の内にとどまっていること――その大切さを伝えてくださっています。
どんなものも、神の愛から私たちを引き離すことはできない
パウロが記したローマの信徒への手紙には次の言葉があります。《わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
/高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです》(8章38、39節)。
どんなものも、イエスさまによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないこと、その確信が語られています。
本日は、キリストの愛にとどまることの大切さと、そして、どんなものもこの愛から私たちを引き離すことはできないことへの信頼をご一緒に新たにしたいと思います。
たとえ私たちの目にはつながりが絶たれたように見えても、イエスさまからするとそうではない。イエスさまはいつも、私たちとつながっていてくださる。イエスさまの方から、私たちと固く結びついてくださっている。私たちのもとにとどまっていてくださる。
私たちが生きているこの世界では、様々な悲惨な出来事、困難な出来事があります。時に、「神はどこにいるのか」と問わずにはいられない瞬間もあります。私たちの近くに遠くに、どのように受け止めれば良いのか分からない、悲しい出来事、困難な出来事、不条理な出来事があります。しかし、どんなことがあっても、私たちは神の愛から引き離されることはない。そのことは、私も確信しています。これまでも、いまも、これからも、イエスさまを通してその愛の内にとどまり続けることを、ご一緒に心に留めたいと思います。
いま困難の中、深い悲しみの中にある方々のもとに、神さまの愛が届けられますように願っています。