2024年3月24日「十字架への道」

2024324日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編64111節、ヘブライ人への手紙101125節、ヨハネによる福音書18140

十字架への道

 

 

 

受難週

私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節は、イエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。今週は特に、受難節の最後の週の受難週に当たります。木曜日には洗足木曜日礼拝を行い、受難日の金曜日には受難日祈祷会を行う予定です。ご都合の宜しい方はぜひご参加ください。そして331日の日曜日、私たちはイエス・キリストの復活を記念するイースターを迎えます。

 

 

 

受難物語 ~十字架への道

 

本日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書の受難物語の一部です。受難物語とは、イエス・キリストがベタニアで香油を注がれる場面から、裁判にかけられ、十字架刑によって処刑されるまでの一連の出来事を記した物語のことを言います(例:マルコによる福音書1416章)。本日の聖書箇所ヨハネによる福音書18140節においても、イエス・キリストがユダの裏切りをきっかけとして兵士たちに捕らえられて大祭司のもとに引き渡される場面、大祭司から尋問を受ける場面、そしてイエスさまがローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに引き渡される場面が記されていましたね。

イエス・キリストの十字架への道を描く受難物語は福音書の中でも特に重要な位置を占めるもので、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書のいずれも、この受難物語に多くの分量を割いています。

 

 

 

大祭司からの尋問とペトロの否認

 

本日、ご一緒に心を向けてみたいのは、受難物語の中の一場面――イエス・キリストが大祭司から尋問を受ける様子を描いた場面です。真夜中に、大祭司のもとでイエスさまへの尋問が行われたことをヨハネ福音書は記します。この場面では、同時に弟子のペトロにもスポットが当てられています。ペトロは大祭司の屋敷の中庭に潜入していました。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と問われた際、ペトロがイエスさまのことを三度「知らない」と否定してしまった場面はよく知られているものですね。

 

スクリーンに映しているのは、17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが描いた『聖ペトロの悔悛(聖ペトロの涙)』1645年、クリーグランド美術館)という絵です。薄暗闇の中、明かりに照らされたペトロの姿が浮かび上がっています。ペトロは胸の前で手を組み、ハッとしたような表情で前を見つめています。

ペトロの顔を近くで観てみますと、涙を流しています。これは、ペトロがイエスさまのことを三度「知らない」と否定してしまった後、外に出て激しく泣いた(ルカによる福音書2262節。ヨハネ福音書には『泣いた』という記述はなし)という記述を元にしています。この作品が本日の聖書箇所を基にしている絵であることは、ペトロの傍らに鶏が描かれていることでも分かります。改めて、本日の物語を振り返ってみたいと思います。

 

ペトロはそのとき、大祭司の屋敷の門の外に立っていました(ヨハネによる福音書181516節)。屋敷の中では、大祭司アンナスによるイエス・キリストへの尋問が行われていました。最高法院による裁判は通常は昼間に開かれ、その判決も昼間になされなくてはなりませんでしたが、イエスさまの裁判は深夜に開かれていました。人々がすっかり寝静まっている深夜、何かから隠れるようにしてこの非合法の尋問は行われていました。

もちろん、イエスさまは無実でした。無実であるにも関わらず、最高法院の政治的・宗教的な権力者たちは結託して、イエスさまを死刑にしようとしていたのです。

 

弟子たちの多くは、イエスさまが逮捕される直前に逃げてしまっていました。けれどもペトロはもう一人の弟子と共になおもイエスの後に従って来ていました。イエスさまがこれからどうなってしまうのか、事の成り行きを見届けずにはいられなかったのでしょうか。もう一人の弟子は大祭司の知り合いであったので、門番の女性と話をして、ペトロを中に招き入れました。その際、門番の女中がペトロに言いました。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか?」。素性を隠そうとしていたペトロは、激しく動揺したことでしょう。咄嗟に、「違う」と否定しました1617節)

屋敷の中庭では、人々が炭火を起こし、火にあたっていました。夜も更け、寒さも増していたのでしょう。ペトロも彼らと一緒にそこに立って、火にあたることにしました18節)

 

ここで物語はイエス・キリストの裁判に戻ります。大祭司はイエスさまに弟子のことや教えについて尋ねていました。イエスさまはお答えになりました。《わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。/なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている2021節)。深夜、ひそかに行われているイエスさまへの非合法な裁判。しかしイエスさまご自身は、いつも世に向かって公然と話されていたこと、ひそかに話したことは何もないことを宣言されました。イエスさまは「世の光」として、人々の前にはっきりとご自分を輝かしておられたのです。

 

すると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスさまを平手で打ちました22節)。イエスさまに対する暴力、虐待はその後さらに激しさを増してゆくことになります。暗闇がイエスさまを包み込もうとしています。しかし、イエスさまは怒りに対して怒りを返すことなく、平静な心でお答えになりました。《何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか23節)

 

ここで物語は再び、屋敷の中庭に戻ります。中庭にいた人々は、一緒に火に当たるペトロを見て、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか?」と問いただしました。ペトロは打ち消して、「違う」とまた否定しました25節)。人々の視線にさらされ、ペトロはさらに恐怖を覚えたことでしょう。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた1810節参照)人の身内が言いました。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」。ペトロは再び打ち消しました。するとすぐ、鶏が鳴きました2627節)

 

鶏が鳴いたのは、夜明けが近づいていたからでした。瞬間、ペトロはイエスさまの言葉を思い出しました。《はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう1338節)――。その晩、イエスさまが捕らえられる前に、イエスさまがあらかじめペトロに語られた言葉です。

ペトロはそのときは、「あなたのためなら命を捨てます」と言っていました1337節)。けれども、イエスさまの言葉の通り、鶏が鳴くまでに、ペトロはイエスさまのことを三度「知らない」と言ってしまったのです。マタイ、マルコ、ルカ福音書は、その後、外に飛び出して激しく泣いたペトロの姿を記録しています(マタイによる福音書2675節、マルコによる福音書1472節、ルカによる福音書2262節)

 

 

 

「ゆるされない過ち」?

 

 大祭司によるイエス・キリストの尋問の場面、ペトロがイエスさまのことを「知らない」と三度否定する場面をご一緒に振り返りました。「あの晩、大祭司の屋敷の中庭で、鶏が鳴くまでに、イエスさまを三度『知らない』と否定してしまったこと」――それが、ペトロの犯してしまった過ちでした。ペトロはその過ちによって、自分の罪深さを思い知らされたことでしょう。自分の弱さを思い知らされたことでしょう。ペトロにとって、自分の罪深さの認識は、この具体的な過ちに結びついているものです。

 

 その後、イエスさまは最高法院の権力者たちの思惑通り、十字架刑に処せられ、殺されてしまいます。ペトロは、「ゆるされない過ちを犯してしまった」と思ったことでしょう。自分は取り返しのつかないことをしてしまった……。福音書が記すのは、しかし、それで「終わり」ではなかったということです。受難物語の後、福音書は復活の物語を記します。

 

 

 

復活の物語 ~復活のキリストとの出会い

 

 復活の物語において、弟子たちはよみがえられたイエスさまと出会います。復活のキリストとの出会いを通して、弟子たちは自分たちの過ちをイエスさまが「ゆるしてくださっていた」ことを知らされました。イエスさまはすべてをゆるし、十字架におかかりになってくださった。すべてを受け止め、十字架への道を最後まで歩き通してくださった。それほどまでに、自分たちを愛して下さっていた。

ペトロをはじめとする残された弟子たちは、そのイエスさまの愛を知らされました。イエスさまの愛に包まれながら、弟子たちは再び立ち上がってゆく力を与えられてゆきました。

 

 自分たちがゆるされていることを知らされつつ、もしかしたらペトロの心には、「あの晩の出来事」が引っかかっていたのかもしれません。愛する先生を三度否んでしまった、あの出来事です。その自分の過ちがどうしても心に引っ掛かり続けて、離れなかったのかもしれません。またそして、イエスさまを裏切った自分自身が、どうしてもゆるせなかったのかもしれません。

 

 

 

心の向きを変える ~自身の罪ではなく、キリストの愛へ

 

そのような中、よみがえられたイエスは再度ペトロたちの前に現れて下さいました。それは復活のキリストと弟子たちとの「三度目」の出会いでした。ヨハネ福音書にはその三度目の出会い――復活されたイエスさまとペトロの出会いとその時になされた対話が書き記されています211523節)

 

イエスさまはペトロに向かって、「わたしを愛していますか」とお尋ねになりました。その問いに対し、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。その問答が三度、繰り返されます(同1517節)。三度目にはペトロは悲しくなって、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えます。

この「三度」という表現は、あの夜ペトロが、大祭司の屋敷の中庭で、鶏が鳴くまでにイエスさまを三度「知らない」と否定してしまった出来事を思い起こさせるものであるということを、多くの人が指摘しています。イエスさまはペトロに向かってご自分への愛を三度確認することで、ペトロが三度否認してしまったあの過ちを、はっきりと過去のこととしてくださったのではないでしょうか。そうして、自分の罪ではなく、キリストの愛へと心の向きを変えるよう促してくださったのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。心の向きを変える――自身の罪ではなく、キリストの愛へと。死ではなく、復活へ。終わりではなく、はじまりへ、と。

 

このイエスさまの大いなる愛と出会うことによって、ペトロははじめて、心から、自分の過ちを過ちとして受け入れることができるようにもなったのではないでしょうか。そうして、イエスさまの愛に包まれる中で、立ち上がれないでいた心が、再び立ち上がっていったのだと思います。ペトロはその後、原始キリスト教会の中心的な指導者(牧者)として立たされてゆくこととなります。

 

 

 

私たちは再び立ち上がることができる

 

ペトロは教会の指導者となってから、自ら、人々に自分のあの過ちを告白したのでしょう。ラ・トゥールの絵にあるように、涙を流しながら、人々に自分の失敗を話したのかもしれません。あふれでる涙は、ペトロの懺悔の涙であると同時に、キリストの愛に心が満たされるゆえの涙でもあったことでしょう。ペトロの告白を聴いた人々はもはやペトロを非難するのではなく、むしろその告白を通して、神の愛の炎に触れる経験をしたのではないかと思います。だからこそ、このペトロのエピソードは福音書の中に記され、今日に至るまで大切に伝え続けられているのでしょう。

 

過ちを認めることは、「終わり」ではありません。それは新しい生き方の「はじまり」です。神さまの目に、「ゆるされない過ち」というものはありません。キリストの愛にとどまる中で、私たちは再び立ち上がることができる。キリストの愛に結ばれた私たちは何度でも、やり直すことができる――その真実を、聖書は私たちに力強く証しています。

 

鶏の鳴き声は、私たちに夜明けを告げるものです。鶏の鳴き声はペトロの過ちを思い起こさせるものであると同時に、私たちに復活の朝の訪れを思い起こさせるものとなります。

 

「私の命を受けて、あなたは生きよ」、そう私たちに語り続けてくださっている十字架と復活のイエスさまの愛にいま、私たちの心を開きたいと思います。