2024年3月3日「永遠の命の言葉」
2024年3月3日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編90編1-12節、ガラテヤの信徒への手紙2章11-21節、ヨハネによる福音書6章60-71節
一昨日の3月1日で能登半島地震から2か月となりました。いまも約1万9千戸で断水が続き、1万1447名の方々が避難生活を続けています(参照:朝日新聞、2024年3月1日、1面)。この度の地震で被災された方を覚え、引き続き、祈りを合わせてゆきたいと思います。
3月11日には、東日本大震災と原発事故から13年を迎えます。奥羽教区では、3月10日に大船渡教会と奥羽キリスト教センターチャペルを会場にして、東日本大震災13年を覚えての礼拝をおささげします。東日本大震災と原発事故を覚え、共に祈りを合わせたいと思います。
受難節第3主日礼拝
私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を思い起こしつつ過ごす時期です。本日は受難節第3主日礼拝をおささげしています。
数年前から、受難節の礼拝において消火礼拝の形式を取り入れています。礼拝が始まる際、講壇の前に立てられている7本のろうそくの内、3本のろうそくの火を消したのをお気づきになられたでしょうか。消火礼拝では、毎週1本ずつ、ろうそくの火を消してゆきます。洗足木曜日礼拝をおささげする3月28日には、7本のロウソクのすべての火が消えることとなります。ロウソクの火が消えることによって生じる暗闇は、イエス・キリストがその受難の道において経験された暗闇を指し示しています。
冒頭でお読みしたヨハネによる福音書6章60-71節の中に、12人弟子の一人であるユダの名が出てきました。ユダはイエス・キリストを裏切ったことで知られている人物ですね。このユダが、後にイエス・キリストを裏切り、イエスさまを祭司長たち(政治的・宗教的な権力者たち)に引き渡すために外に出てゆくという場面で印象的な一文が記されています。《ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった》(ヨハネによる福音書13章30節)。最後の晩餐の食卓を離れ、ユダが家の外に出て行ったとき、夜の闇が辺りを覆っていたことが強調されています。イエスさまから離れ去ってゆくユダを覆う暗闇。この暗闇は、私たち人間の罪と悪から生じている暗闇であると受け止めることもできるでしょう。
イエスさまは十字架の道行きにおいて、この暗闇の中を歩んでゆかれました。暗闇をご自分の身に引き受け、十字架を背負い、ゴルゴタの丘まで歩んでゆかれました。受難節のこの時、私たちはこのイエスさまのお姿に心を向けます。
ユダという人物
いま、ユダの名前が出てきました。「裏切り者」として悪名高いユダは、どのように受け止めればよいのか、難しい人物です。人によって、捉え方もさまざまであることでしょう。
ユダの裏切りをきっかけに、イエス・キリストは祭司長たちに逮捕されることとなりました。その点において、確かにユダがイエス・キリストが十字架刑に引き渡される最初のきっかけを作ったことになります。キリスト教の歴史においては伝統的に、イエス・キリストを十字架の死に引き渡すきっかけを作ったユダを「裏切り者」として厳しく断罪する見方があります。
一方で、ユダの裏切りがあったから、神の計画が成就していったのだという捉え方も可能でしょう。ユダの裏切りもまた、神の子が十字架上で救いを「成し遂げる」(19章30節)という神のご計画に組み込まれているものであったという見方です。四つの福音書の中では、ヨハネ福音書の本文は実際にそのようなニュアンスで記されています。
ユダの心に生じた空虚な穴
私はユダという人物が何か特別な悪人であったという風には捉えていません。イエス・キリストに心酔し、熱心に従っていた弟子の一人であったと受け止めています。と同時に、イエス・キリストに心酔し、イエス・キリストに自分自身の希望を託そうとすればするほど、イエスさまが成し遂げようとされていることと自分が期待していることの違いが明らかになったことの失望もまた大きかったのではないでしょうか。
ユダをはじめ、弟子たちがイエスさまに期待していたのは、政治的な救世主の役割でした。ローマ帝国による支配の中で、民族としての誇りがふみにじられ、屈辱的な生を強いられていたイスラエルの民。ユダたちは、イエスさまに対して、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放する、政治的な救世主の役割を期待していたのです。
対して、イエスさまがご生涯の最期に歩もうとされていたのは、十字架の道でした。弟子たちはその時は、イエスさまがこれから成し遂げようとされていることを、理解することができませんでした。
大いなる期待が大いなる失望へと変わったその瞬間、ユダの心の中に、ぽっかりとした穴が生じてしまったのかもしれません。その空虚な穴の中に、悪しき意図をもった何者かが入り込もうとして待ち構えていました。ヨハネ福音書は、その悪しき力を「悪魔(サタン)」と呼んでいます。悪魔はユダに、イエスさまを権力者たちに引き渡す考えを抱くよう誘惑しました(13章2節)。そして、最後の晩餐の席において、イエスさまがパン切れを浸して取り、ユダにお与えになった瞬間、サタンが完全にユダの中に入りました(13章26、27節)。サタンと一体化したユダは、イエスさまのもとを離れ、夜の闇の中へ去ってゆきます。ユダの心の中もまた、暗闇で覆われてしまいました。
本日の聖書箇所は、時系列で言うと、最後の晩餐より以前の場面です。しかし、この先に起こるユダの裏切りが予告されています。6章70、71節《すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」/イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた》。
このイエスさまの言葉には、思わずドキッとしてしまうような表現も含まれています。《その中の一人は悪魔だ》という言葉です。この言葉は、ユダ自身が悪魔なのだという意味ではなく、先ほど述べましたように、ユダの中に悪魔(サタン)が入り込んでしまう事態を指しているのだと思います。
空虚さの中に入り込んでくる悪の力(破壊的な衝動)
ユダの心に生じた、ぽっかりとした穴。そのような空虚さは、私たちにおいて生じることがあるかもしれません。私たちも心の内に空虚な穴を抱え、日々それを何らかのかたちで懸命に埋めようとしています。それは、「飢え渇き」という言葉で表現することができるかもしれません。身体的な飢え渇きとは異なる、心の深いところの飢え渇き――いわば魂の飢えと渇きです。
悪の力について論じた姜尚中先生の『悪の力』(集英社新書、2015年)という本があります。この本の中で、姜先生は悪が「空虚さ(空っぽ)」に根ざすものであることを強調しています。《空虚である。/空っぽである。/自分が何者でもないのではないかという不安は耐え難いものです。その空っぽの中を埋めるようにしてするするっと悪が忍び寄ってくる》(同、38、39頁)。
姜尚中先生が記しているように、悪の力というのは、私たちの心にふと生じたぽっかりとした穴を狙って、するするっと忍び寄ってくるものであるのかもしれません。そうして、とある瞬間、その穴の中にするりと入り込んでしまうのです。
ユダの中に入り込んだ悪魔(サタン)。その悪の力は、愛するイエスさまを祭司長たちに引き渡し、そして、十字架の死に引き渡すよう誘惑しました。ユダが引き寄せられてしまったその力とは、破壊的な衝動――愛する存在・大切な存在を「破壊したい」という衝動であったと受け止めることもできるかもしれません。そのような破壊的な衝動は、自分を深く傷つけ、そして愛する人を深く傷つけてゆきます。破壊的な衝動に身を任せ、暗闇と一体化したユダの行動は、人から人へと次々と連鎖し、結果的に神の御子を殺害するという、とてつもない暴力へと発展してゆくこととなります。
自暴自棄にならず、破壊的な衝動に囚われずに、いかに生きてゆくことができるか、これは現代を生きる私たちも抱える切実な課題です。
永遠の命の言葉 ~私たちの魂の飢え渇きを癒やす《命のパン》
本日の聖書箇所では、他の多くの弟子たちがイエスさまのもとを離れ去り、もはやイエスさまと共に歩まなくなったことも記されていました。《このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった》(6章66節)。イエスさまのことが理解できず、離れ去っていってしまった人が、ユダの他にもたくさんいたようです。期待が裏切られ、失望し、離れて行ってしまった人々が多くいたのです。この去っていった人々の姿は、心に空しさを抱え彷徨う私たち自身の姿を示していると受け止めることもできるのではないでしょうか。
イエスさまが12人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と問うと、シモン・ペトロはこう答えました。《主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。/あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています》(68、69節)。
このように信仰の告白したペトロもその後、イエスさまが逮捕され裁判にかけられた際、イエスさまのことを「知らない」と否んでしまうこととなりますが、ここで彼は奇しくも、イエスさまこそが《永遠の命の言葉》を持っておられることを証しています。ヨハネ福音書6章の表現を用いると、イエスさまこそが、私たちの魂の飢え渇きを癒やす《命のパン》(6章34節)である。イエスさまは十字架の上で、ご自身の体を一つのパンとして、私たちに分け与えてくださいました。私たちのために裂かれたこの一つの《命のパン》から、神さまの愛と命が溢れ出ています。私たちが抱える空っぽの穴は、このイエスさまの《命のパン》によって満たされるのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。
《命のパン》によって、私たちの内の空虚な穴は光で満たされる。夜の闇は、愛と命の光で満たされる。その光の中に、もはやサタンは入り込むことはできないでしょう。
もちろん、私たちはいつも心をイエスさまの言葉で満たすことができるわけではありません。すぐに、その愛と命の光を見失い、何らかの空虚さを抱え込んでしまうのが私たちです。どのような人の心にも、空虚さは生じ得るものです。けれども、イエスさまの《命のパン》をいただき続けることにより、悪が入り込むための隙間はだんだん小さくなってゆくでしょう。その分、悪の力が入り込みづらくなってゆきます。また、一度イエスさまの愛と命の光で満たされたスペースは、悪魔にとって非常に居心地が悪い(!?)はずです。そして、悪の力が私たちの心に入り込もうと忍び寄ってきたとしても、その侵入を事前に防ぐ力も育まれてゆくことでしょう。
イエスさまの愛を知ることは、私たちにとって、決定的な出来事です。小さいようでいて、私たちの魂の内には、大きな、決定的な変化が起こっています。いまこの瞬間も、大きな変化が起こり続けていることをご一緒に思い起こしたいと思います。
《わたしが命のパンである》
イエスさまは私たちに語りかけておられます。《わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしのもとに来る者は決して渇くことがない》(35節)と。
このイエスさまの言葉は特に、十字架の出来事によって成し遂げられました(19章30節)。イエスさまはご生涯の最期、十字架の上で、ご自身の体を一つのパンとして、私たちに分け与えてくださいました。飢え渇く私たちのために裂かれたこの一つの《命のパン》から、いま、神さまの愛と命の光が溢れ出ています。この《命のパン》をいただくことにより、私たちの魂の飢え渇きは癒やされてゆきます。そうして、自暴自棄にならず、破壊的な衝動に囚われない生き方へと、少しずつ変えられてゆきます。イエスさまの愛と命の光で私たちの心が満たされることにより、自分を大切にし、隣り人を大切にし、神さまを大切にする生き方へと変えられてきます。
どうぞいま、《命のパン》であるイエスさまの愛と命の光に、私たちの心を開きたいと思います。