2024年4月28日「弁護者、すなわち真理の霊が来るとき」
2024年4月28日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:エゼキエル書36章24‐28節、ガラテヤの信徒への手紙5章13-25節、ヨハネによる福音書15章18-27節
2024年度 主題聖句
先週4月21日(日)の礼拝後、花巻教会の定期総会を行いました。2024年度も共に祈り合い、支え合いながら、歩んでゆきたいと願います。
2024年度の主題聖句として、昨年に引き続き、コリントの信徒への手紙一12章26-27節を選びました。《一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。/あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です》。
私たちは共に一つのキリストの体に結ばれており、それぞれが多様な、かけがえのない役割を果たしていることを伝える聖句(聖書の言葉)です。
私たちが違いを認め合い、弱さを受け止め合って、互いを大切にしてゆくことができますように。花巻教会につらなる一人ひとりが、神さまから与えられているかけがえのない使命・役割を果たしてゆくことができますように。この新しい年度も引き続き、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
2024年度 祈りの課題
花巻教会の2024年度の祈りの課題は次の通りです。どうぞお祈りにお覚えください。
・長らく礼拝に来ることができていない方々を覚えて
・施設に入居されている方々、礼拝に集うことが困難になってきている方々を覚えて
・新来会者の方々を覚えて
・地域に根ざし、地域の課題を共に担う教会となることができますように
・東日本大震災、原発事故を覚えて
・地震や災害によって被災された方々を覚えて
・新型コロナウイルス後遺症、新型コロナワクチン後遺症によって苦しんでいる方々を覚えて
・ウクライナでの戦争、ガザでの戦争が一刻も早く停戦へと至りますように
・神さまから、私たち一人ひとりに与えられているかけがえのない使命・役割を果たしてゆくことができますように
愛の反対の言葉は……
「愛」と反対の言葉というと、皆さんはどの言葉を思い浮かべるでしょうか。「愛」と反対の言葉として、たとえば「憎しみ」という言葉を思い浮かべる方もいらっしゃることでしょう。愛と憎しみは、対極にあるものとして語られることがよくあります。
あるいは、「無関心」という言葉を挙げる方もいらっしゃるかもしれません。「愛の反対は無関心」とも言われることがありますね。確かに、自分の存在が顧みられないことは、悲しいことです。反対に、誰かに関心を持ってもらえることは、嬉しい事です。関心を持つことは誰かとつながる上で、とても大切な要素です。
「愛の反対は悪しき関心」
一方で、「関心の持ち方」にも、いろいろな関心の持ち方がありますね。相手のことを想って関心を持っていることもあれば、興味本位で関心を持っていることもあるでしょう。もしくは、攻撃する対象として関心を寄せている場合もあるかもしれません。
たとえば現在、X(旧Twitter)などのSNSでよく「炎上する」ということが起こっています。ある投稿が多くの人によって拡散され、そこにたくさんの批判的なコメント(しかも多くの場合、匿名の)が書き込まれる。このような「炎上」は、多くの人の関心を呼びますね。もちろん、中には、心配して見守っている人もいるでしょう。問題が解決することを願って、関心を寄せてくれている人もいるでしょう。一方で、興味本位で関心を寄せている人もいれば、自分が攻撃することができる対象を見つけたと思って、関心を寄せている人もいるでしょう。
そのことを踏まえると、他者に関心を持つことがすべて、無条件に良いことではないのだと思えてきます。相手を攻撃し傷つけるために関心を寄せているのだとしたら、それは「悪しき関心」と呼ぶことができるのではないでしょうか。
以前、妻とこのような話をしていて、妻が「愛の反対は無関心ではなく、悪しき関心なのではないか」と言いました。なるほど、確かにそうだなあと思いました。「愛の反対は無関心」という言葉ももちろん、私たちに大切なことを伝えてくれています。と同時に、無関心な態度がすべて否定されるべきものかというと、そうではありません。むしろ、真に人を傷つけるのは、悪意のある関心をもって他者に関わることなのではないでしょうか。もっと困らせてやろうとか、攻撃してやろうとか、意地悪してやろうとか、そのように悪しき関心を持って人に関わろうとする姿勢、それが、愛とは正反対にあるところの姿勢なのではないかと思います。
この社会で起っていることにいかに関心を持ってゆくかということが私たちにとって大切な課題であると同時に、私たちの内にある悪しき関心をいかにコントロールしてゆくかも、いまを生きる私たちの大切な課題であることを思わされます。時には、あえて、無関心を貫く姿勢も必要であるかもしれません。もちろん、ここでの無関心とは、困っている人がいても手を差し伸べないという意味での無関心ではありません。「無関心」と表現すると否定的な印象があるかもしれませんので、「悪しき関心を人に向けない」と言い換えてみたいと思います。その姿勢は、相手の考えを尊重する、自分とは違う相手の存在を認め、受け入れることにもつながっています。そしてそれは、人を愛することとつながっているのではないでしょうか。
聖書が語る愛
愛と反対のところにある姿勢について、ご一緒に考えてみました。このことを踏まえた上で、改めて、聖書が語る愛とはどのようなものか思い起こしてみたいと思います。
聖書における愛は、原語のギリシャ語ではアガペーと言います。聖書における愛は「好き」という感情だけを指すのではなく、相手の存在を重んじ、大切にする姿勢を指す言葉です。相手のことが好きか嫌いかを超えて、相手をかけがえのない存在として重じ、大切にするものが、聖書が語る愛です。
聖書は、神さまが私たちを愛するゆえ――私たちの存在を極みまで重んじてくださるゆえ、独り子なるイエス・キリストをこの世界にお送りくださったことを語ります。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された》(ヨハネによる福音書3章16節)。
また聖書は、イエス・キリストが私たちを愛するゆえ――私たちの存在を極みまで重んじてくださるゆえ、私たちのために命を捨ててくださったことを語ります。《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》(同15章13節)。
聖書は、他ならぬ神さまが、私たちをまず愛してくださっていることを語っています。イエスさまが私たち一人ひとりの存在を重んじ、大切にしてくださっていることを語っています。イエスさまが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うこと、これが、イエスさまが私たちに教えて下さった新しい掟です(同13章34節参照)。本日の聖書箇所ヨハネによる福音書15章18-27節の直前の17節には、次のイエスさまの言葉が記されています。《互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である》――。
イエスさまに向けられた憎しみ ~《人々は理由もなく、わたしを憎んだ》
この愛の掟の後に記されているのが、本日の聖書箇所ヨハネによる福音書15章18-27節です。愛について語られていた15章の前半部とは一転して、この後半部では憎しみについて語られています。《「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。/あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。…」》(18、19節)。
この先、愛とは正反対の否定的な力が自分たちに向けられることをイエスさまは予告されます。その否定的な力を、本日の聖書箇所は「憎しみ」という言葉で表現しています。先ほどのお話で言うと、「悪しき関心」とも言い換えることができるでしょう。周囲の人々から、イエスさまと弟子たちが悪しき関心が向けられるようになることをイエスさまは予告されています。事実、イエスさまはこの言葉を弟子たちに告げられた後、十字架の道を歩んでゆくこととなります。人々から激しい憎しみを向けられ、軽んじられ、そして十字架刑によって処刑されることとなります。
愛について教えてくださっていたイエスさまを、なぜ人々は憎んだのでしょうか。攻撃し、その存在を否定しようとしたのでしょうか。
本日の聖書箇所には次のように記されています。《しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである》(25節)。《人々は理由もなく、わたしを憎んだ》という言葉は旧約聖書の詩編の言葉が念頭に置かれていると考えられています。たとえば、詩編69編5節には《理由もなくわたしを憎む者は/この頭の髪よりも数多く/いわれなくわたしに敵意を抱く者/滅ぼそうとする者は力を増して行きます》との言葉があります。イエスさまに対して憎しみが向けられたのは、これらの言葉が実現するためだ、とヨハネ福音書は記します。
ここで重要なのは、《理由もなく》という言葉でありましょう。人々は《理由もなく》、イエスさまを憎んだのです。周囲の人々がイエスさまを攻撃したことの背後に様々な要因を考えることはできるでしょう。しかしそこに結局、明確な理由も十分な根拠もないのかもしれません。攻撃したいから攻撃する、傷つけたいから傷つける。私たちは時にそのように、悪意をもって人を傷つけてしまうことがあります。それは、愛とは正反対のところにある行為です。
何より、ご一緒に心を向けたいのは、憎しみを向けられる側のイエスさまに理由があるわけではない、ということです。悪しき関心を向けられる側のイエスさまに何か問題があるのではない。そうではなく、悪しき関心を向けている側に、問題があるのです。
このことは、現在私たちの社会において重大な問題である、いじめ・ハラスメントの問題とも共通していることでありましょう。いじめられている側に何か問題があるから、いじめが生じているのではない。問題は、いじめる側にあるのです。悪しき関心を向けている人の内にこそ、向かい合ってゆくべき問題があります。その意味において、確かにイエスさまは、《理由もなく》周囲の人々から激しい憎しみを向けられたのだと受け止めることができます。私たちはいかにしたら、内なる悪しき関心を制御し、自分とは異なる相手を受け入れ、大切にしてゆくことができるでしょうか。
弁護者、すなわち真理の霊が来るとき
イエスさまは本日の聖書箇所において、愛とは正反対の憎しみについて警鐘を鳴らしながら、同時に、希望の言葉も残してくださっています。《わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。/あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである》(26、27節)。
イエスさまがこの世界を去られた後、弟子たちのもとに聖霊(神さまの霊)が遣わされる。ここではその聖霊は《弁護者》(ギリシャ語ではパラクレートス)または《真理の霊》と呼ばれています。
この《弁護者》なる聖霊の根本なお働きは、私たちにイエスさまのことを「思い起こさせる」ことです(14章26節)。イエスさまの言葉を、そのご生涯を、十字架の死と復活を、その愛の教えを、私たちに思い起こさせてくださる。そのように私たちがイエスさまを思い起こすとき、そこにイエスさまご自身が共にいてくださることをヨハネ福音書は証しています。
私たちがイエスさまの愛と真理をより深く理解してゆくことができますように。そして私たちがイエスさまの愛にとどまり、その愛の掟を実践してゆくことができますように。イエスさまが私たちを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にすることができますように、《弁護者》なる聖霊の到来をご一緒に祈り求めたいと思います。