2024年5月12日「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」
2024年5月12日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編46編1-12節、ヨハネの黙示録5章6-14節、ヨハネによる福音書7章32-39節
昇天日
来週の5月19日の日曜日はペンテコステです。ペンテコステは聖霊降臨日とも呼ばれ、イエス・キリストの弟子たちの上に聖霊が降ったことを記念する日です。聖霊とは、神さまの霊のことです。ペンテコステはクリスマスやイースターに比べると日本では知られていませんが、キリスト教においてはクリスマス、イースターと並んで重要な祭日です。
このペンテコステの前に、教会の暦で「昇天日」というものがあります。今年は、先週の5月9日が昇天日でした。昇天とは、復活されたイエス・キリストが天に昇られた出来事のことを言います。イエスさまは十字架の死より3日目に復活し、弟子たちと再会を果たした後、神さまのいる天へと挙げられたと聖書は記します(特にルカによる福音書が記述)。
ちなみに、教会ではイエス・キリストが天に挙げられたことを「昇天」、人が亡くなったこと(天に召されること)を「召天」と表記しています。
イエスさまが昇天して、残された弟子たちは孤立無援の状態になってしまったのかというと、そうではありません。その後、イエスさまが約束して下さった通り、弟子たちのもとに聖霊が送られます(ルカによる福音書24章49節)。この聖霊降臨の出来事を記念する日がペンテコステです。そうして聖霊によって力を得た弟子たちにより、キリストの教会が誕生してゆくこととなります。
昇天日からペンテコステまでの10日間
昇天日からペンテコステまで、教会の暦では10日間あります(今年は5月9日から5月19日までの10日間)。これはある意味、空白の10日間と言えるかもしれません。復活したイエスさまは天に挙げられて不在、聖霊なる神さまもまだ降ってはおらず、不在。空白の10日間であるけれども、それは、聖霊が私たちのもとに来てくださることを待ち望む10日間でもあります。
私たちの世界もいま、ある意味、この空白の期間を過ごしているのかもしれません。私たちの目の前には、様々な課題・問題があります。困難な現実を前に、なかなか希望が持つことができないのが、多くの人の率直な実感でありましょう。私たちはいま、夢や希望が見えづらい、その空白の時代を生きていると言えるのではないでしょうか。
このような中にあるからこそ、私たちはいま一度、聖霊が私たちのもとに来てくださることを待ち望み、祈り求めてゆくことが大切であることを思わされます。
心の渇き
冒頭で、ご一緒に本日の聖書箇所であるヨハネによる福音書7章32-39節をお読みしました。その中に、次の言葉が記されていました。《祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。/わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」/イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである》(37-39節)。
仮庵祭というユダヤ教のお祭りの終わりの日に、イエスさまが語られた言葉です。ここでイエスさまは、ご自分を信じる人の内から《生きた水が川となって流れ出るようになる》とおっしゃっています。ヨハネ福音書は、この《生きた水》とは、これから与えられる聖霊のことを指しているのだと記します。
このイエスさまの言葉で前提となっているのは、私たち一人ひとりが渇いていることです。だからこそ、《生きた水》という表現が私たちの心に切実なるものを伴って響いてきます。ここでの渇きとは体の渇きとはまた別の渇き――心の渇きです。
いま多くの人が、心のどこかに渇きを感じつつ、懸命に生活しています。心の深いところが潤いを失い、いつも渇いているような状態。ただし、心の渇きは体の渇きと違って、すぐに自覚しづらい事柄でもあるかもしれません。
普段私たちは様々なことで心を忙しくし、自分の心が渇いていることになかなか気付きません。しかし、この心の渇きは次第に私たちの心を荒れたものにしてゆき、ときには心身に深刻な影響を与えてしまうこともあるでしょう。
人間としての尊厳への渇き
では私たちは、どんなときに心の渇きを覚えるでしょうか。マザー・テレサは「人は、人間としての尊厳に渇いている」ということを繰り返し語ったそうです。私たちは、人間として大切にされること、尊ばれること、そのことに渇いているというのです。言い換えると、それほど現代の社会は、自分の存在が大切であることを実感する機会が少ない社会となっているということなのかもしれません。いま、多くの人が人間の尊厳への渇きを覚えながら生活しています。それは、子どもも大人も同様でありましょう。
「尊厳」とは、言い換えますと、私という存在の「かけがえのなさ」のことです。自分という存在はかけがえのない、替わりがきかない存在であること。これが尊厳という言葉の意味するところであると本日はご一緒に受け止めたいと思います。私たち一人ひとりはかけがえのない、替わりがきかない存在。だからこそ、互いを大切にし合い、尊重し合ってゆかねばなりません。
この「かけがえのなさ」の反対語は、「替わりがきく」という言葉でしょう。私たちは自分という人間のかけがえのなさを感じることができないとき、心の内に渇きを覚えます。
私たちは生きてゆく中で、様々な場面で、自分が「替わりのきく」存在であるかのように思わされる経験をします。(自分の替わりなど、いくらでもいるのではないか。自分はここにいる必要など、ないのではないか……)。その経験が積み重なってゆくにつれ、私たちの内からは自分を尊ぶ心が見失われてゆきます。
子どもたちの中には「尊厳」という言葉をいまだ知らない子もいるでしょう。しかしたとえ尊厳という言葉は知らなくても、その言葉が意味することの大切さは知っています。そしてまた、それが軽んじられることの痛みや悲しみを全身で知っているでしょう。
《渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい》
先ほど、イエスさまの言葉をご一緒にお読みしました。《渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。/わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》。
このイエスさまの言葉は、他ならぬ、私たちの渇きに向けて語られているものです。私たちの内なる渇きを癒すべく、イエスさまは私たちのもとにやってきてくださいました。《渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい》と。
そうして、私たちのもとに聖霊を送る約束をしてくださいました。私たちの内に《生きた水》を与え、その渇きを癒やしてゆくために。《わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》。
神さまへの渇き
聖書には、神への賛美の言葉だけではなく、私たち人間の辛い現実を嘆く言葉が幾つも書き記されています。たとえば、イスラエルの人々の祈りを集めた旧約聖書(ヘブライ語聖書)の詩編には、次の一節があります。《涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。/神に、命の神に、わたしの魂は渇く》(詩編42編2節)。
私たちの内にある渇きとは、すなわち、神への渇きであるのだと詩編は語ります。私たちの心の渇き、尊厳への渇きは、深いところでは、神さまへの渇きとつながっているものです。私たちの渇きを真に癒やしてくださる方は、他ならぬ神さまご自身であることを信じ、古代イスラエルの人々はその渇いた心を神さまに向けました。命の神に祈りをささげ続けました。
神さまの目から見た人間の尊厳
旧約聖書のイザヤ書43章4節には、「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という神さまの言葉が記されています。神さまの目から見て、イスラエルがいかに「かけがえなく、貴いか」が語られている言葉です。かつてイスラエル民族に向けて語られたこの言葉は、いまイエス・キリストを通して、私たち一人ひとりに向けられています。神さまの目から見て、私たち一人ひとりが、かけがえのない、替わりがきかない存在であることをイエスさまは伝えてくださっています。
この神さまの目から見た人間の尊厳を知ることによって、私たちの心の深くにある渇きは癒されてゆきます。この神さまの愛と真理は、私たちの心に潤いを取り戻し、私たちの存在を生きる力――復活の命の力で満たします。イエスさまはそのご生涯を通して、十字架の死と復活を通して、私たちにその愛と真理を伝えてくださいました。いまも伝え続けてくださっています。
聖霊は、このイエスさまが伝えてくださる愛と真理を、私たちがより良く、より深く、理解することができるよう導いてくださる方です。聖霊の働きにより、私たちは神さまの愛と真理へと導かれ、存在の内から《生きた水》が湧き出でるよう促されてゆきます。
私たちの内から湧き出でた泉は、やがて、川となって流れ出るようになるとイエスさまはお語りになります。その川の水はやがて、渇きを覚えている誰かに潤いを与える役割を果たすものとなるかもしれません。
私たちが互いを大切にして生きてゆくことができますように
私たちは来週、ペンテコステを迎えます。どうぞ私たち一人ひとりの内に聖霊が降って下さいますように、一人ひとりの心の渇きを癒してくださいますようにと願います。
そうして聖霊の力に生かされ支えられる中で、私たちがまことに自分を大切にし、隣り人を大切にしてゆくことができますように。私たちが互いを大切にして生きてゆくことができますように、ご一緒に祈りをあわせたいと思います。