2024年7月14日「わたしの目にあなたは貴く、重んじられる」
2024年7月14日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書43章1-13節、ヨハネによる福音書6章16-21節、使徒言行録27章33-44節
「わたしの目にあなたは貴く、重んじられる」
先ほど、本日の聖書箇所の一つであるイザヤ書43章1-13節を読んでいただきました。その中の、「わたしの目にあなたは価高く、貴い」(4節)という言葉を愛唱聖句(大切にしている聖書の言葉)にしている方もいらっしゃることでしょう。私自身、いつも大切に思い起こしている聖書の言葉の一つで、礼拝のメッセージでもよくご紹介しています。
改めて、4節をお読みいたします。《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする》(新共同訳)。
旧約聖書(ヘブライ語聖書)の主人公であるイスラエル民族に対して、神ご自身が語った言葉です。かつてイスラエルに向かって語られたこの言葉は、いま、イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりに語りかけられている言葉としても受け止めることができます。
2018年に出版された新しい翻訳(聖書協会共同訳)では、冒頭の部分は《あなたは私の目に貴く、重んじられる》と訳されています。これまでの翻訳が「貴い」と訳している部分を「重んじられる」と翻訳しているのですね。これまでの翻訳も素晴らしいですが、この新しい翻訳も原文のニュアンスを生かした素晴らしい訳であると思います。原文で用いられている語は、「貴ばれる」とも「重んじられる」とも訳すことのできる言葉であるからです。
「わたしの目に、あなたは価高く、貴い存在。わたしの目に、あなたは貴く、重んじられている存在」――。イザヤ書43章4節は、神さまの目から見て、私たち一人ひとりがかけがえのない、大切な存在であることを語っています。
愛について語る言葉は聖書の中にたくさんありますが、その中でも、このイザヤ書の言葉は、最も美しく、かつ直截的に愛について語っているものの一つであると受け止めることができるでしょう。聖書が語る愛とは、私なりに言い換えますと、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」です。神さまは私たち一人ひとりの存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしてくださっている方です。
神はその独り子をお与えになるほどに
新約聖書は、神さまが私たちを愛するゆえ、独り子であるイエス・キリストを私たちのもとにお送りくださったことを語っています。神さまはそれほどまでに、私たちを重んじてくださっていることを語っています。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(ヨハネによる福音書3章16節)。
先ほどのイザヤ書でも、神が、「国々をあなたの代わりとする」というスケールの大きな表現が出てきました。《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする》。この表現も、神がそれほどまでに、私たちを重んじてくださっていることを示しているものでありましょう。神さまは世界中の国々をあなたの代わりとして与えてもよいとするほど、あなたを重んじておられる。神さまは、その独り子をお与えになるほどに、私たち一人ひとりを愛しておられる。かけがえのない存在として重んじてくださっている。
「かけがえがない」とは、「替わりがいない」ということです。あなたという存在の替わりになる人は、誰一人いません。だからこそ、神さまの目に、あなたは貴く、重んじられている存在であるのです。聖書は、この神の愛を私たちに伝えています。またそして、神の子イエス・キリストにおいて、この神の愛が完全に現わされたことを語っています。
重んじられることの喜び、軽んじられることの悲しみ
聖書が語る愛とは、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」。このことは、私たちの普段の生活でも、実感できることなのではないでしょうか。
私たちは人から重んじられていると感じるとき、とても嬉しく思うものです。誇らしい気持ちが湧いてくるものです。たとえ互いに軽口を叩いていたとしても、相手が自分を、人格をもった大切な存在として重んじてくれていることが分かるとき、私たちはその人を自分の友であると感じます。この喜びは、あらゆる相違を超えて、私たち人間に共通の感情です。
「重んじる」と反対語は、「軽んじる」でしょう。私たちは人から軽んじられていると感じるとき、とても悲しく思います。自分を軽んじてくる相手とは、私たちは友情を結ぶことは難しいものです。人から軽んじられることの悲しみも、あらゆる相違を超えて、私たち人間に共通の感情であるでしょう。
ヘブライ語の「軽んじる」という語には「呪う」という意味もあるそうです。他者を軽んじるという行為は、それほどまでに相手に深刻な影響を与えるものである。相手の存在の内に呪いを植え付けるものである。だから、他者を軽んじる言動は決してしてはならない、そのような古代イスラエルの人々の認識が示されているように思います。 愛とは反対にあるもの、それが相手の存在を軽んじる行為だと言えるでしょう。
一方で、私たちのいまの社会はどうでしょうか。他者を軽んじることがどれほど深刻な影響を与えるものであるか、しっかりと認識されているでしょうか。残念ながら、その認識はどんどんと希薄になっていると思わざるを得ません。いまの私たちの社会は、互いに軽んじ、軽んじられることがむしろ当たり前になってしまっている現状があるように思います。そのような中で、私たち自身、自分や他者の存在が軽んじられることの痛みに無感覚になってしまっている部分があるかもしれません。
私たちはいかにすれば、互いを軽んじることの連鎖を断ち切ってゆくことができるか。これは、いまを生きる私たちの喫緊の課題の一つです。私たちが互いを軽んじる道ではなく、互いを重んじる道――イエス・キリストの道――を共に歩んでゆくことができるよう、切に願うものです。
部落解放祈りの日 ~《みんな大切なひとりひとり》
本日7月第2主日は、私たちが属する日本キリスト教団のカレンダーでは「部落解放祈りの日」にあたります。部落差別がなくなりますように、差別をなくす取り組みの上に神さまのお支えがありますように、共に祈りを合わせたいと思います。次年度の2025年度には、奥羽教区を会場に、部落解放全国会議も予定されています。また詳細が決まりましたら、お知らせします。
この後、ご一緒にお読みする、「部落解放祈りの日を覚えての祈り」に次の言葉があります。《司会者:生れたところで差別するわたしたちがいます。/みんな:でも、みんな大切なひとりひとり。/司会者:病気やしょうがいによって差別するわたしたちがいます。/みんな:でも、みんな大切なひとりひとり/…… 司会者:わたしたちを造られた神様が言われます。/全員:みんな大切なひとりひとり》(日本基督教団、2024年度 部落解放祈りの日運動パンフレット《リタニ―の例》より)。
私たちの社会の中には、部落差別をはじめ、今も様々な差別や偏見が存在しています。生れたところで、あるいは病気や障がいによって、人を分け隔てしてしまうのは、他ならぬ私たち自身です。この祈りの言葉にありますように、神さまの目から見て、《みんな大切なひとりひとり》であること、その真理にいつも立ち帰り、私たちの目の前にある現実を見つめ直し、自分にできることを行ってゆきたいと願います。
神は私たちと共におられる ~インマヌエル
本日はイザヤ書43章に関し、聖書が語る愛についてお話しました。イザヤ書43章1-13節からは、他にも、様々な大切なメッセージを汲み取ることができます。
たとえば、本日のイザヤ書43章では「わたしはあなたと共にいる」という言葉が繰り返されます。《水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない》(2節)、《恐れるな、わたしはあなたと共にいる》(5節)。預言者イザヤを通して、神さまは、「わたしはあなたと共にいる」と力強く宣言してくださっています。
神は私たちと共におられる――。これも、聖書の根本的なメッセージの一つです。神さまは私たちを愛するゆえ、いつも共にいてくださる。火の中を歩むときも、水の中を行くときも。
神は私たちと共におられる。ヘブライ語では「インマヌエル」と言います。新約聖書(マタイによる福音書)は、このインマヌエルがイエス・キリストのもう一つの名前であると記しています。《見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる》(マタイによる福音書1章23節)。イエス・キリストによって、インマヌエルが実現した。そのように新約聖書は受け止めています。《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》(同28章20節)。
大切な存在がそばにいてくれることの慰め。このことも、私たちの普段の生活において実感していることではないでしょうか。大切な誰かが自分に寄り添い、共にいてくれると感じることができたとき、私たちは慰めを感じます。生きる力、勇気が湧いてきます。
聖書は、他ならぬ、神さまが私たちと共にいてくださることを語っています。よみがえられたイエス・キリストがいつも共にいてくださることを語っています。そしてそれは、あなたが、神さまの目に貴く、重んじられている存在であるからです。
賛美歌「私の目にあなたは貴く、重んじられる」
雑誌『礼拝と音楽』(日本キリスト教団出版局)で「聖書の歌をうたう」という連載がされており、私も参加しています。聖書(聖書協会共同訳)をもとに、その音節を整え、新しい賛美歌を創作する企画です。
5月に発行された201号では、私は本日の聖書箇所であるイザヤ書43章1-13節をもとにした賛美歌を発表しました。このみ言葉を歌った賛美歌がぜひあればいいな、と日頃から思っていたからです。この詞のために、飯靖子先生が新しく曲をつけてくださいました。タイトルは「私の目にあなたは貴く、重んじられる」。この曲をこの度、花巻ユネスコ ぺ・セルクルの皆さんにも歌っていただけることになりました。昨日ちょうど、花巻教会を会場にしたぺ・セルクルの合唱の練習がありました。皆さんにこの賛美歌を歌っていただけて、とても嬉しく思いました。今後、花巻教会の皆さんとも、ぜひこの曲を歌うことができればと思っています。最後に、賛美歌の歌詞をお読みいたします。
1,
造り主なる神が/あなたの名を呼んでいる
「私はあなたの神/私があなたを救う
あなたは私のもの/あなたを守り導く」
2,
造り主なる神が/「恐れるな」と告げている
「あなたがどこにいても/私が共にいるから
火の中を歩むとき/水の中を行(ゆ)くときも」
3,
造り主なる神が/あなたの名を呼んでいる
「私の目にあなたは/貴く、重んじられる
あなたを愛している/あなたの替わりはいない」
4,
造り主なる神が/あなたに救いを語る
「私は一つにする/引き裂かれた人々を
あなたは告げ知らせよ/私こそ神であると」
私たち一人ひとりが、神さまの目に貴く、重んじられている存在であること、神さまはどんなときも、私たちと共にいてくださること、このことを、今朝はご一緒に心にとどめたいと思います。神さまが私たちを愛してくださっているように、私たちも互いに愛し合うことができますように。互いを軽んじることの連鎖を断ち切り、互いを重んじる道を一歩一歩、共に歩んでゆくことができますように、聖霊なる神さまの導きを祈り求めましょう。