2024年7月21日「神の国の正義と平和と喜び」
2024年7月21日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:列王記上17章8-16節、ヨハネによる福音書6章22-27節、ローマの信徒への手紙14章10-23節
平和 ~戦争がない状態、一人ひとりが大切にされること
全国的に厳しい暑さが続いています。今週半ばからは10年に1度の暑さになるとのこと。皆さんもどうぞ熱中症や体調不良にはくれぐれもお気を付けください。礼拝の間も水分を取っていただいて大丈夫ですので、各自、体調管理をしていただければと思います。皆さんのご健康が支えられますようお祈りしています。
さて、本日はメッセージのタイトルを「神の国の正義と平和と喜び」といたしました。タイトルの中に平和という文字が含まれています。
平和はヘブライ語では「シャローム」と言います。「平安」とも訳すことができ、「すべてが完全であり、何一つ欠けることがないという状態」を意味する言葉です。聖書が語るのは、神さまが与えてくださる「平和」「平安」です。本日はまず平和ということについて、ご一緒に思い巡らしてみたいと思います。
皆さんは平和と聞くと、どのような状況をイメージするでしょうか。それぞれ、自分なりの平和のイメージがあるかもしれません。平和な社会が実現されることは、いまを生きる私たちの共通の願いです。
いまの世界情勢を鑑みると、平和という言葉から「戦争がない状態」を真っ先に思い浮かべる人も多いことと思います。ロシアとウクライナの戦争、ガザ地区でのイスラエルとハマスの戦争がいまだ停戦に至ることなく、続いています。一刻も早く、停戦へと至るように、これ以上、かけがえのない命が傷つけられ、失われることがないよう切に願うものです。
また、国と国との間に戦闘行為が生じていない場合でも、平和ではない状態というのは生じ得るものです。たとえば、私たちの生きる社会に格差や貧困が生じているとしたら。それは平和ではない状態にあると言えるのではないでしょうか。環境が破壊され、生態系が壊されている状態も、平和ではない状態だと言えます。あるいは、身近なところで、私たち自身が対立していたり、互いに傷つけあったりしてしまっているとしたら、そこでもやはり平和は失われてしまっているということになるでしょう。その意味で、平和という言葉を「戦争がない状態」だけではなく、より広い意味で捉えることができます。私なりに表現すると、「一人ひとりが大切にされること」――そのように平和という言葉を受け止めることもできるかと思います。
私たちの生きる社会には現在、さまざまなところで、平和ではない状況が生じています。それらの平和ではない状況は、一人ひとりが大切にされていないことから生じていると言えるのではないでしょうか。そして、一人ひとりが大切にされないことの最たるものが、戦争です。戦争ほど、人を大切にすることができない状況へと私たちを追いやるものはありません。
ローマの教会内における対立 ~食物に関する問題を巡って
メッセージの冒頭で、本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙14章10-23節をお読みしました。本日の聖書箇所を読みますと、手紙の宛先であるローマの教会においても、当時、平和ではない状況があったことが伺われます。教会の中で、一人ひとりを大切にすることができない状況が生じてしまっていたようです。具体的には、教会の中で、互いに断罪し合い、軽んじ合う状況が生じてしまっていた。この状況を受けて、手紙の著者であるパウロは、《もう互いに裁き合わないようにしよう》(13節)と懸命に呼びかけています。
なぜ、そのような状況が生じてしまっていたのでしょうか。想定されるのは、異なる宗教の儀式でささげられた動物の肉を食べても良いか否かという問題です。当時、食物に関する問題を巡って、教会内に対立が生じていたようです。
旧約聖書(ヘブライ語聖書)には、食べ物についての律法が記されています(いわゆる食物規定)。律法とは、神が定めた掟のことを言います。豚(イノシシ)の肉を食べてはならないという掟はよく知られているものですね。旧約聖書では「食べてよい=清いもの」あるいは「食べてはならない=汚れているもの」についての詳細な、様々なルールが記されています。旧約聖書の律法に基づくと、異なる宗教の儀式でささげられた動物の肉は「食べてはならない」、すなわち「汚れているもの」であることになります。当時、これらの食べ物についての律法を厳格に守っている人々がいました。ローマの教会の中には、肉は一切口にせず、野菜だけを食べることにしていた人々がいたようです。先祖代々受け継いできた信仰に基づいて、食べ物について厳格なルールを自らに課していた人々がいたのですね。ユダヤ教徒の方々は長きにわたって――そして現在も――この食物規定を大切に守り続けてきました。
一方、当時のローマの教会の中には、従来にはない、新しい考えを持っている人々もいました。あるものは「食べてよい=清い」、あるものは「食べてはならない=汚れている」と区別するのではなく、神がお造りになった命はすべて「清い」と考える人々が現れ始めていたのです。神の子イエス・キリストによって、あらゆる隔てが取り除かれた。もはや「清い」「清くない」の区別は取り除かれ、キリストを通してすべてのものが「清い」もの、神の目に「良い」ものとされた。そのイエス・キリストへの信仰に基づいて、キリスト教徒として、食べ物についてのルールから自由になろうとする人々がいたのですね。
信仰が関わる問題として
以上のように、ローマの教会では異なる信仰理解を持つ人々の間で対立が生じていました。そうして、自分たちこそが「正しい」として互いに裁き合う状況が生じていました。
前者はいわゆる「保守的な」考えを持つ人々、後者は「革新的な」考えを持つ人々と呼ぶことができるかもしれません。ご一緒に心に留めておきたいのは、この対立は単に食べ物についての意見の相違から生じているのではないということです。これは、当人たちにとっては信仰に関わる問題です。つきつめてゆくと、この対立は信仰理解の相違から生じています。信仰が関わっているからこそ、互いの相違を受け入れることができず、立場の違う相手をゆるすことが困難であったのだと受け止めることができます。
立場や考えが異なる人々を受け入れることの難しさ
信仰あるいは思想信条に関わる事柄において、自分と立場や考えが異なる人々を受け入れることがいかに難しいかは、私たちも実感できることだと思います。
7月13日(日本時間14日午前7時)、ドナルド・トランプ氏が選挙集会での演説中に銃撃されるという衝撃的な事件が起きました。トランプ氏は右耳にけがをしただけで無事でしたが、集会に参加していた1名が亡くなり、2名が負傷しました。銃撃直後、警護担当者たちに囲まれながら、トランプ氏がアメリカの国旗を背景に拳を突き上げる写真は世界中を駆け巡りました。この銃撃事件後、トランプ氏を支持する人々と、トランプ氏を支持しない人々の間でますます対立が激化していることが報じられています。NHKのニュース番組の中で、あるアメリカの専門家の方が「アメリカでは(一部の人々において)、もはや立場の違う相手を人間として見ることができなくなっている状況が生じている」と述べていました。
思想信条や支持政党の異なる相手が、もはや「敵」にしか見えなくなっている。「同じ人間」として見ることができなくなっている。非常に深刻な事態ですが、これはアメリカ社会のみならず、世界中で、私たちが生きる日本の社会でも起こっていることであると思います。自分の信仰や思想信条に関わることであるからこそ、私たちは自分と異なる相手を受け入れることが難しい。むしろ、相手に対する怒りや憎しみに駆られてしまう、「敵」として相手を全力で否定しようとしてしまうことがあるのではないでしょうか。
このような私たちの状況は現在、特に、SNSを通して可視化されています。旧Twitter(X)などのSNSでは、自分と異なる立場や考えの相手を「同じ人間」ではなく「敵」とみなし、断罪あるいは攻撃する言説であふれています。それぞれが自分の思想信条を持ち、自分としての「正しさ」を持っていることは大切なことです。けれども、自らの立場を絶対視し、異なる他者を全否定しようとしてしまうところに問題が見受けられます。
《神はこのような人をも受け入れられたからです》
改めて、本日のローマの信徒への手紙の言葉を見てみたいと思います。パウロは対立しているローマの信徒たちに対して、次のように諭します。《食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです》(3節)。
パウロ自身は、どんな食べ物も自由に口にしてよいのだという考えを持っていました。イエス・キリストへの信仰によって、この世界においてそれ自体で「汚れたもの」は何もないと確信していたからです。いわば「革新的な」考えを持っていたわけですが、しかしパウロはその自分の考えを他者に強要することはしませんでした。何を重んじるかの判断については、《各自が自分の心の確信に基づいて決めるべき》(5節)だと考えていたからです。
それよりも、大切なのは、神さまがそのような私たち一人ひとりを受け入れてくださった(3節)こと。そのことをこそ、いつも互いに思い出そうとパウロは呼びかけています。あなたが食べる物のこと、そして信仰理解が異なることで批判しているその相手も、神は愛する存在として受け入れてくださっているのだ、と。
《キリストはその兄弟のために死んでくださったのです》
15節には次の言葉がありました。《あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです》。
パウロはここで、愛に従って歩むことが肝要であるのだと述べています。それぞれ、自身のゆずることのできない信仰あるいは思想信条があるのかもしれない。しかしその自分の「正しさ」ゆえに隣人を軽んじ傷つけてしまっているのであれば、あなたはもはや愛に基づいて歩んではいないのだとパウロは諭します。
食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはならない。なぜなら、《キリストはその兄弟のために死んでくださったのです》(15節)。パウロは、自分とは立場や考えが異なるその人も、神の目に大切な一人の人間であること、その人のためにイエス・キリストは死んでくださったことを思い起こすよう呼びかけています。
自分とは立場や考えが異なる相手も「敵」ではなく、「同じ人間」。しかも、「神さまの目に大切な同じ一人の人間」であることを、私たちもいま一度思い起こしたいと思います。
神の国の正義と平和と喜び
冒頭で、平和とは「一人ひとりが大切にされること」であると述べました。私も、あなたも、それぞれが、神の目に大切な同じ一人の人間である。だからこそ、私たちは互いを大切にし合い、重んじ合ってゆくことが求められています。一人ひとりが大切にされる平和な社会を祈り求めてゆくことが求められています。それぞれが神の目に価高く貴い存在であるという真理を土台とすることにより、私たちは少しずつ、互いの違いをも受け止めることができるようになってゆくのではないでしょうか。
パウロは語ります。《ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。/神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです》(16、17節)。自分の正しさを主張することではなく、一人ひとりが大切にされる在り方を求めることが正義であり、神さまの心に適ったことであると、本日はご一緒に受け止めたいと思います。この神さまの正義と平和、そしてそのことによってもたらされる喜びをご一緒に祈り求めてゆきたいと願います。