2024年8月18日「キリストの体に結ばれて」

2024818日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:出エジプト記3449節、ヨハネによる福音書8311節、ローマの信徒への手紙716

キリストの体に結ばれて

 

 

先週812日から13日かけて、岩手県・秋田県を台風が通過しました。岩手県沿岸、特に久慈では記録的大雨となり、一時孤立する集落も発生しました。花巻では特にこの度の台風の影響はありませんでした。岩手地区の教会でも、被害の報告は受けていません。現在は台風7号が発生しています。引き続き、大雨の影響による冠水や川の増水、土砂崩れ等に気を付けてゆきたいと思います。一人ひとりの命と安全が守られますよう祈ります。

 

 

 

洗礼式について

 

キリスト教が誕生してからずっと大切に受け継がれてきた儀式として、洗礼式と聖餐式があります。洗礼は、皆さんもよくご存じのように、キリスト教に入信する際に行われる儀式です。聖餐は、礼拝の中心に位置付けられてきた共同の食事のことで、パンとぶどう酒(またはぶどう液)を用います。プロテスタント教会は洗礼と聖餐の二つを聖礼典(サクラメント)と呼んでいます。聖餐については、728日の礼拝メッセージでも詳しくお話ししました。本日は改めて、洗礼とはどのようなものか、ご一緒に確認したいと思います。

 

洗礼式の特徴は、水を用いることです。宗教的な儀式において水を用いることは、世界共通のものであると言えます。キリスト教の母体となったユダヤ教でも、伝統的に水が清めのために用いられてきました。日本でも古代より、水のまつりが行われてきました(参照:奈良県立橿原考古学研究所付属博物館編『水と祭祀の考古学』、学生社、2005年)。水の祭祀には清め(浄化)の他に、「死と再生」の意味が込められていたと考えられます。儀式において水が重要な役割を果たすことは、キリスト教の洗礼式に限ったことではありません。

 

洗礼式には現在、大きく二つの形式があります。滴礼と浸礼です。滴礼は、水を頭に三度振りかけるという形式で行われます。三という回数には、「父・子・聖霊の三位一体の神」の名によって洗礼を授ける意味が込められています。現在は多くの教会でこの滴礼の形式で洗礼式が行われています。

浸礼は、水の中に頭まで、全身を浸すという形式で行われます。キリスト教が誕生して間もない頃は、川に入って水の中に全身を浸す、この浸礼の形式で洗礼式が行われていました。イエス・キリストも、ヨルダン川にて、洗礼者ヨハネより洗礼を受けられました。

洗礼は原語のギリシア語ではバプテスマと言い、動詞のバプティゾーは元来「水に浸す」という意味を持っています。現在も一部の教会(たとえば、バプテストの伝統を持つ教会)はこのバプテスマの元来の意味を尊重して、浸礼で洗礼式を行っています。私たち花巻教会も浸礼の形式で洗礼式を行っています。

 

皆さんが座っている会衆席からは見えませんが、私が立っている講壇の後方の地下には洗礼槽(バプテストリー)と呼ばれるスペースがあります。洗礼式の際は、ふたを開け、洗礼槽に水を溜めて洗礼を行います。スクリーンに映していますのは、花巻教会の洗礼槽の写真です。

洗礼槽がまだなかった時代は、川で洗礼を行っていたそうです。花巻教会も初期の時代には近くの豊沢川で洗礼を行っていました。連日のこの厳しい暑さのことを思うと、川での洗礼式は何とも涼し気ですが、一方、夏以外の時期は、さぞかし冷たかったことでしょう。河原に火を焚いてはいたそうですが、雪が舞う中での川での洗礼式は大変な寒さであったことと思います。もしも真冬のクリスマスの時期に川で洗礼を行うとしたら……想像しただけで身が凍ってしまいそう(!)ですね。現在私たちが使っている洗礼槽(バプテストリー)はお湯が出ますのでご安心ください。

 

 

 

洗礼 ~「キリストと共に死に、キリスト共に生きるようになる」こと

 

 洗礼式には滴礼と浸礼の二つの形式があることをお話ししました。形式は異なっても、その内実はまったく同じです。洗礼の仕方で何か違いが生じるということはありません。

ではそもそも、洗礼式にはどのような固有の意味が込められているのでしょうか。洗礼においてどのようなことが起こると信じられてきたのでしょうか。

 

新約聖書のローマの信徒への手紙には次の言葉があります。《それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。/わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです634節)

 

ここでは、洗礼を受けるとは、イエス・キリストに結ばれることであると語られています。具体的には、イエス・キリストの十字架の死に結ばれ、そして復活の命に結ばれることです。そのような固有の意味が、キリスト教の洗礼式には込められているのですね。

 

メッセージの初めの方で、儀式において水が重要な役割を果たすのはキリスト教の洗礼式に限ったことではないと述べました。水のまつりは日本でも古代より行われてきました。世界各地の水の祭祀には、古い自分が一度死に、新しい自分が生まれるという、「死と再生」の意味が込められていることがあります。キリスト教の洗礼式も、水の中で一度古い自分が死に、水から上がったとき、新しい自分が生まれ出るという、一種の死と再生の儀礼として受け止めることも可能です。洗礼者ヨハネが当初、ヨルダン川で行っていた「悔い改めの洗礼(バプテスマ)」にはそのような意味もあったのでしょう。しかし、引用しましたローマの信徒への手紙には、まったく新しい意味が込められています。洗礼を受けてキリスト教徒になるということは、イエス・キリストの十字架の死に結ばれ、そして復活の命に結ばれること。すなわち、「キリストと共に死に、キリスト共に生きるようになる」(ローマの信徒への手紙68節)こと。それが、洗礼式が指し示す新しい出来事であるのです。キリストと共に古い自分が死に、キリストと共に新しい人として生きるようになること。洗礼式は、このイエス・キリストの救いの業、その恵みを、水を通して可視化しようとする儀式です。

 

 

 

キリスト共に、古い自分と一度「切り離される」

 

 キリスト共に古い自分が死ぬ――これはどのようなことなのか、なかなか分かりづらいことでもあります。「死」という表現が強烈ですし、何だか怖いと感じる方もいらっしゃるかもしれません。「死ぬ」という表現に抵抗を覚える方は、「切り離される」と言い換えてみてはいかがでしょうか。キリスト共に、古い自分と一度「切り離される」。古い自分と切り離されるとは、自分という人間を形づくって来た様々な要素と一度切り離されるということです。

 

これまでの自分を形づくって来た要素には、様々なものがあります。性別、国籍、家族関係、育ってきた環境、仕事、心身の状態、家庭の役割……。様々な要素が集まって、現在の「私」という人間が形づくられています。それらの自分を形づくって来た様々な要素と一度「切り離される」ことが、古い自分の「死」を意味するのだと本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。

 

 自分という人間を形づくって来た様々な要素から一度、切り離される。それは、私たちにとってどのような感覚でしょうか。ある人にとっては、解放として感じられるかもしれません。ある人にとっては、強い恐れや不安を感じるものであるかもしれません。まるで根無し草になってしまうような感覚、あるいは空っぽの空間に放り出されたかのような感覚として予感されるかもしれません。

本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙が記された時代、洗礼を受けてユダヤ教徒からキリスト教徒になった人々にとって、これまでの自分を形づくって来た最も重要な要素の一つであったのが、律法でした。

 

 

 

律法から「切り離される」

 

律法とは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)に記された神の掟のことを言います。特に、モーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒が有名です。旧約聖書には十戒を始めとし、たくさんの掟が記されています。ユダヤ教では伝統的に聖書には613の律法が記されているとしています。これらの律法を守り、それを実践して生きてゆくことが、ユダヤ教徒の人々にとって最も大切なことでした。

洗礼を受けてユダヤ教徒からキリスト教徒になるとは、その律法から切り離されることを意味していました。これが当時の人々にとって、いかに重大なことであるか、私たちは想像をすることしかできません。まさにこれまで生きてきた自分という人間の、ある種の「死」を意味する出来事であったのではないでしょうか。

 

本日の聖書箇所には次の言葉がありました。ローマの信徒への手紙746節《ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。/わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。/しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです》。

 

律法に対しては死んだ者》という言葉もありました。言い換えますと、律法からはっきりと切り離された存在となったということです。《自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています》とも述べられています。この言葉を記したパウロにとっても、律法はこれまでの自分を形づくって来た最も重要な要素でした。と同時に、もしかしたら一番自分を縛っていたものであったのかもしれない。洗礼を受けて、いまやその最も大きな存在であった律法とも切り離された。解放され、自由になった。なぜなら、いまや新しく、キリストと結ばれているからです。そしてそれはパウロにとって、律法を通して働く《罪へ誘う欲情》から自由になることを意味していました。

 

本日の聖書箇所の前半ではパウロは、律法から自由になることを、夫に先立たれた女性はその夫婦関係を規定づける律法から自由になることとなぞらえています13節)。夫婦関係、家族関係というのはもちろん、私たちにとって非常に重要な要素です。洗礼を受けてキリストと結ばれることは、その家族関係からさえも、一度切り離されることを意味するのだと受け止めることもできます。

 

 

 

一人ひとりをかけがえのない「個人」へと回復させるための剣

 

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。/わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。/こうして、自分の家族の者が敵となる(マタイによる福音書103436節)。マタイによる福音書に記されたイエス・キリストの言葉です。どう受け止めれば良いか難しい言葉の一つですが、この不可思議なイエス・キリスト言葉もいま述べた文脈で捉えてみると理解がしやすくなるのではないでしょうか。

 

当時のイスラエルの社会は、私たちが生きているいまの社会よりさらに血縁の結びつきが強い社会でした。どの家の生まれで、誰の子かが重視される社会であったのです。「どの家の生まれの、だれだれの子」ということが他者を判断する第一の要素となっていたのですね。そのような社会にあって、「その人を父と、娘を母と、嫁をしゅうとめと敵対させる」とイエスさまはおっしゃったのですから、その言葉はどれほど人々を驚かせたことでしょうか。

 

「敵対させる」と訳されている言葉は、「二つに分ける」ことを意味する言葉です。必ずしも対立を意味するものではなく、一体となっている両者を一度「切り離す」ことを意味しているのだと受け止めることができます。息子と父を一度、切り離す。娘と母を一度、切り離す。嫁と姑を一度、切り離す。目には見えない剣で、一緒になっていたものを、一度、切り離す。

 父の影響下から切り離された息子は、もはや「だれだれの息子」ではなく、一人の人間になります。その人「個人」になります。母と切り離された娘も、もはや「だれだれの娘」ではなく、一人の人間になります。姑と切り離された嫁も、もはや「だれだれの嫁」ではなく、やはり、一人の人間になります。イエスさまはここで、それぞれが、神の目に価高く貴い「一人の人間」に立ち還ることを求めていらっしゃるのだと受け止めたいと思います。イエスさまが手にしておられるのは混然一体となっているものを一度切り離し、一人ひとりをかけがえのない「個人」へと回復させるための剣です。

 

 

 

キリストの体に結ばれて

 

イエスさまは、私たちを一人の人間として受け入れてくださっている方です。イエスさまはあなたを性別で呼ばず、出自では呼ばず、職業の名前でも呼ばず、社会的身分でも呼ばず、現在の心身の状態でも呼ばず、家庭での役割でも呼ばれません。ただ、あなたを、あなたとして、あなたの名前を呼ばれます。イエスさまはわたしたちをあるがままに、神の目にかけがえのない=替わりがきかない存在として受け入れてくださっている方です。「クリスチャンである」とは、このキリストの愛と固く結ばれていることを意味しています。

 

キリストの体に結ばれて、一人ひとりが、かけがえのない「私」になってゆくこと。キリストの命を受けて、キリストと共に、新しい人になってゆくこと。それが、神さまの願いであるのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。私たちはいまも、この「クリスチャンとなる」旅の途上にいます。自分を縛りつけるものや、それらを通して内に働く否定的な感情や悪しき力から自由になってゆく旅の途上にいます。またそして、この旅路を歩む中で、一度切り離された存在とも同じキリストの体に再び結び合わされ、本来的な関係性――真の平和的な関係――を共に、新しく形づくってゆくことができるのだと信じています。

 

 

最後に、ガラテヤの信徒への手紙の一節をお読みします。キリスト教が誕生して間もない頃、洗礼式で実際に読み上げられていたとされる言葉です。《あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。/洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。/そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです32628節)