2024年8月25日「光の子として歩む旅路」

2024825日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:出エジプト記131722節、ヨハネによる福音書81220節、エフェソの信徒への手紙51120

光の子として歩む旅路

 

 

 

2023年秋田豪雨災害支援活動報告書』

 

この度、奥羽教区より『2023年秋田豪雨災害支援活動報告書』が発行されました。昨年714日~16日の大雨により発生した秋田豪雨災害からおよそ1年。皆さんのお祈りとご支援に感謝いたします。報告書は玄関の机の上に置いていますので、どうぞご覧ください。

この報告書の発行をもって教区の秋田豪雨災害支援委員会は活動を終えることになりますが、被災した秋田楢山教会の皆様、地域の方々をこれからも共に祈りに覚えてゆきたいと思います。

 

秋田県は今年も724日からの記録的な大雨により、各地で被害が発生しています。秋田地区の教会には被害はありませんでしたが、由利本荘市では河川が氾濫し、多くの住宅が水につかる等の被害を受けました。山形県でも各地で被害が生じています。1ヶ月経った現在も、懸命に復旧作業が続けられているとのことです。

 

私たちの住む岩手も今月812日~13日、上陸した台風5号の影響により記録的な大雨となりました。現在は台風10号が発生、強い勢力で日本に近づいているとのことです。この夏の大雨により被災された方々の上に神さまのお支えを祈ると共に、引き続き、台風や大雨には気を付けてゆきたいと思います。お一人おひとりの命と安全が守られますよう祈ります。

 

 

 

「光」と「暗闇」

 

 先ほど礼拝の中で読んでいただいたヨハネによる福音書8章の中に、次の言葉がありました。《イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書812節)。イエス・キリストはこの世界を照らす光であることを語る言葉です。

聖書を読んでいますと、「光」という言葉に繰り返し出会います。神さまの光。イエス・キリストの光。いまご一緒にお読みしたエフェソの信徒への手紙5章でもキリストの光について述べられていましたね。《眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる(エフェソの信徒への手紙514節)

 

 皆さんは「光」と聞いて、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。まぶしい朝の光をイメージする方もいらっしゃるかもしれません。あるいは、暗闇の中にともるロウソクの光をイメージする方もいらっしゃるかもしれません。イメージは様々であっても、光は私たちの心に前向きな気持ちや明るい気持ちを喚起させる点では共通しています。まさに「希望の光」ですね。聖書においても、神さまの愛と恵みを表すのに最もふさわしいイメージとして、光が用いられています。

 

 そのように、光には前向きな、良いイメージがあります。私たちは当然、光を待ち望んでいる――と思ってしまうものですが、私たちの心の中を見てみますと、それだけではない部分があることに気づかされます。私たちの心の中には、光によって照らされることを待ち望む自分と、光を避けようとする自分がいる場合があるのではないでしょうか。

 

カーテンの隙間から差し込む朝の光は、気持ちよく目が覚めた朝には、とても良いものです。一方で、疲れていて眠い朝には、むしろ遠ざけたいものとなります。朝の光から身を隠すようにして毛布を頭まで被り、そのままスヤスヤと眠り続けることは日常で誰しも経験していることです。

まどろみの中で朝の光から遠ざかりたいと思うように、私たちの心のどこかには、神さまの光から遠ざかりたいと思う自分がいるように思います。神さまの光から自ら遠ざかろうとすることによって生じる、暗い場所。その場所を聖書は「暗闇」と呼んでいます。神さまの光から切り離された、暗い場所。この暗闇は私たちの社会の内に、私たち一人ひとりの心の内にもあるものだと受け止めることができるでしょう。

 

 

 

光 ~「隠れているものを明らかにする」

 

光には、ものごとを「明るく照らす」性質があります。それは見方を変えますと、「隠れているものを明らかにする」という性質でもあります。暗がりの中で隠れているものを明るみに出す。まるで舞台の照明でスポットライトを当てるように、暗闇に隠れていたものに光を当てる性質があるのです。

 

スポットライトが当たることは、私たちにとって嬉しいことである場合と、そうではない場合があるのではないでしょうか。場合によっては、恐ろしいことのように思えることもあるでしょう。人に見せても良い部分――普段からそのように準備を整えている部分――であったら、スポットライトが当たってもいい。でも、私たちの心の内には、これは決して人には見せたくないという部分もあります。まったく整理が出来ていない、混沌とした場所があります。

また、私たちが普段、人に見えないところで行っていることは、必ずしも誇れることばかりではないでしょう。むしろその振る舞いの大半が、人には見せられないもの、見せたくはないものであることと思います

 

神さまの光によって照らされるということは、そのような、私たちが普段人には見せたくないと思う部分や振る舞いが、光のもとに明らかにされることでもあります。そのことを予感しているので、私たちは時に、神さまの光から遠ざかりたいと思ってしまう。神さまの顔の光から隠れたいと思ってしまうのもある意味、当然のことであると言えるかもしれません。

 

本日のエフェソの信徒への手紙の御言葉は、そのような私たちに語りかけているものとして、本日はご一緒に受け止めたいと思います。51114節を改めてお読みいたします。《実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。/彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。/しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。/明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

 

ここでは、実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさいと語られています。神さまの光のもとに、自分のすべてを差し出すこと。しかし、すでに述べましたように、そのことに抵抗を覚える自分がいるのも事実です。「心の中にあるものをすべて神さまの光の前に差し出しなさい」と言われると、どこかに恐れや不安を感じるのが私たちの率直な姿であると思います。

 

まず確認しておきたいのは、神さまはそれを私たちに強要することはなさらないということです。私たち自身の主体的な意思が大切であるからです。また、私たちが他者に対してこのことを強要してはならないのはもちろんのことです。本人が開示したくないと思っていることを無理矢理、開示させることはあってはなりません。

 

 

 

心の内の暗い場所

 

神さまの光から遠ざかることによって生じる、暗い場所。聖書が「暗闇」と呼んでいる場所。そこには、欲望、嫉妬、怒り、恨み、罪悪感、恥の意識など、様々な否定的な感情が渦巻いています。そしてその根底には何らかの傷、痛み、深い悲しみが存在しています。そうしてその暗い場所で、自分ではどうすることもできず、うずくまり、立ち上がれなくなっているもう一人の自分がいます。

 

心の内のこの暗い場所には、「人を赦せない想い」も存在していることでしょう。「赦し」は聖書全体の重要な主題の一つですが、同時に、私たちにとってとても難しい主題です。私たち自身は、なかなか人を赦すことができません。聖書の「赦しなさい」という言葉を聞く度、それができない自分を責める気持ちが湧いてくることもあるでしょう。

他者からされたひどい言動を思い起こす度、私たちの心の傷口はうずき、痛みと共に激しい怒りが湧き上がってきます。同時に、そのような自分に対して、責める気持ちや罪悪感が込みあがってきます。

このような怒りや罪悪感は、私たちの内から生きる力を失わせてゆきます。自尊心を失わせ、まるで自分で自分を価値のない存在のように思わせ、私たちの心を起き上がることができなくさせてゆくのです。

 

 

 

手と脇腹の傷口を示されたイエス・キリスト

 

 本日ご一緒に思い起こしてみたいのは、十字架の死よりよみがえり、弟子たちの前に現れてその手と脇腹の傷口を示されたイエス・キリストのお姿です。

 

十字架の死から三日目の夕方、弟子たちは家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。恐れと共に、愛する師を裏切ってしまったことの激しい罪悪感により、彼らは打ちのめされ、座り込んでしまっていたことでしょう。「もうすべては終わってしまった」、そのように感じて絶望していたことでしょう。そこへ、復活したイエス・キリストが現れます。イエスさまは彼らの真ん中に立たれ、《あなたがたに平和があるように》とおっしゃいました(ヨハネによる福音書2019節)。イエスさまがおっしゃったのは、自分を見捨てて逃げた弟子たちへの恨みの言葉ではなく、彼らの平安を祈る言葉でした。そうしてイエスさまはご自身の手と脇腹とをお見せになりました20節)。これは、手と脇腹に刻まれた十字架の傷口を弟子たちにお見せになったことを意味しています。手の傷は釘を打ち込まれた際の痕、脇腹の傷は槍で突かれた際の痕です。

 

手と脇腹の傷口は、イエスさまの十字架のお苦しみを象徴しているものです。またそして、イエスさまを裏切った弟子たちの過ち、イエスさまを十字架の死に追いやった人間の罪を象徴するものでもあります。ご自分の苦しみと人間の罪を象徴する傷跡を、イエスさまはここでもはや隠すことなく、お見せになっています。

 

私たちは心に傷を負ったとき、普段それを隠してしまうものではないでしょうか。もしその傷口が表面化すれば、内に秘めている激しい痛みや怒りが湧き上がってきてしまうからです。ですので、私たちは普段、傷口を怒りや様々な感情と一緒に心の奥に押し込めています。

しかし本日の場面において、イエスさまはご自分の傷を隠すことはなさいません。「隠していない」ということは、「赦している」ことにつながっています。自分に深い傷を負わせた弟子たちに、その傷口をはっきりと見せることを通して、イエスさまは赦しのメッセージを伝えてくださったのです。

 

 

 

イエスさまの愛と赦しの声

 

イエスさまは、人をなかなか赦すことができないこの私たちを、赦してくださっています。赦せなくても、いい。赦せないあなたでもいい。そのままのあなたで、わたしのもとへ来なさい――と招いてくださっています。否定的な感情が渦巻いていてもいい。混沌とした状態でもいい。そのままのあなたで、わたしのもとへ来なさい。手と脇腹の十字架の傷口を示しながら、よみがえられたイエスさまは私たち一人ひとりに、「あなたは生きていて、よい」と語りかけてくださっています。

 

私たちがなすべきことは、このイエスさまの愛と赦しの声をただ聴くことです。この愛と赦しの声を聴くとき、私たちの心は起き上がります。うずくまり、立ち上がれないでいたこの私の心は再び立ち上がります。その時、暗闇であったはずの場所は、光へと変えられてゆきます。キリストの光に照らされ、キリストと結ばれたものはみな、光となるからです。

眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる》――。

エフェソの信徒への手紙のこの言葉は、当時、洗礼式において用いられていた言葉(の断片)であるとの指摘もあります。司式者が洗礼式の中でこの言葉を読み上げることもあったのかもしれません。

「起き上がる」「立ち上がる」は復活を意味する言葉です。キリストの愛と赦しの光の中で、私たち自身もよみがえらされてゆく。起き上がらされてゆく。痛みや悲しみの中でうずくまり、立ち上がれなくなっていた私たち自身も、キリストと共に復活させられてゆくのだとご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

光の子として歩む旅路

 

本日の聖書箇所の少し前に、《光の子として歩みなさい》との言葉があります58節)

 

光の子として歩んでいるということは、私たちはいまもその歩みを続けている途上であるということです。私たちはそれぞれ、キリストの愛と命の光に照らされて歩む旅の中にいます。キリストの愛と命に結ばれて、光の子として、一歩一歩、光の中を共に歩んでゆきたいと願います。