2024年8月4日「神の掟」
2024年8月4日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編146編1-10節、ヨハネによる福音書7章1-17節、ヨハネの手紙一5章1-15節
「神の掟」
平和聖日
本日は平和聖日礼拝をおささげしています。平和を心に留め、共に礼拝をささげる日です。私たち花巻教会が属する日本キリスト教団は8月の第一週の日曜日を平和聖日に定めています。平和聖日の今日、改めてご一緒に平和への祈りを合わせたいと思います。
平和はヘブライ語では「シャローム」と言います。「平安」とも訳すことができ、「すべてが完全であり、何一つ欠けることがないという状態」を意味する言葉です。聖書が語るのは、神さまが与えてくださる平和・平安です。私なりに言い換えますと、「神の目にかけがえのない存在である私たち一人ひとりが、現実に重んじられ、大切にされている状態」。それが、聖書が語る平和であると受け止めています。
私たちが生きるいまの社会を見ると、様々な場面において平和とは正反対の状況が見出されます。一人ひとりが大切にされていない状況が見出されます。その最たるものは戦争でありましょう。
ロシアとウクライナの戦争、ガザ地区でのイスラエルとハマスの戦争はいまだ停戦に至ることなく、続いています。7月31日には、イランの首都テヘランを訪問していたハマスの最高指導者ハニヤ氏が殺害されるという事件が起きました。イランの最高指導者ハメネイ氏は「報復は我々の義務だ」としてイスラエルに対して報復を宣言、報復が報復を呼ぶその連鎖はとどまるところを知りません。中東の情勢はさらに緊迫の度合いが高まっています。私たちはいかにしたら報復の連鎖を断ち切ってゆくことができるのでしょうか。
一刻も早く、ウクライナでの戦争、ガザでの戦争が停戦へと至るように、イスラエルがパレスチナの人々に対する虐殺を止めるように、これ以上、神の目にかけがえのない命が傷つけられ、失われることがないよう切に願います。
奥羽教区 祈りの課題
平和聖日に際して、奥羽教区(青森県、秋田県、岩手県の3県で構成)からも祈りの課題が配布されています。今年の祈りの課題は次の通りです。
《・イスラエルとパレスチナの間に平和が実現するように。
・ロシアとウクライナの戦争が終結するように。市民が安全な生活を取り戻せるように。
・防衛のための軍備増強ではなく、外交による紛争解決がなされるように。
・核兵器廃絶のために。
・原発及び再処理工場等の「核燃料サイクル」への依存をやめ、原発に頼らない国つくりのために。
・沖縄をはじめ軍事基地の存在に苦しめられている人々に連帯して。
・安全保障法制、共謀罪法制が廃止されるように。
・朝鮮半島の二国間緊張が緩和されるように。
・平和憲法である「日本国憲法」が守られるように。
・様々な差別に悩む人々のために。私たちが自らの課題とすることができるように》。
挙げられている課題のいずれも、いまを生きる私たちにとって重要な課題です。5つ目の祈りの課題に《原発及び再処理工場等の「核燃料サイクル」への依存をやめ、原発に頼らない国つくりのために》がありました。青森県の下北半島の六ケ所村には再処理工場があります。私たち奥羽教区に属する者にとっても切実な課題です。
先週の7月29日、青森県が下北半島北部に位置するむつ市の中間貯蔵施設への使用済み核燃料の受け入れを表明しました。中間貯蔵施設は、原発から出た使用済み核燃料を再処理工場で再処理するまでの間、一時的に――最長50年――貯蔵・管理する施設で、むつ市に建設されているものが全国初のものです。県が事業開始の前提となる安全協定を結ぶ意向を表明した一方で、市民からは、「一時的な中間貯蔵施設ではなく、最終貯蔵施設となるのではないか」等の懸念の声が上がっています。貯蔵は最長50年とされているけれども、そのまま、むつ市が使用済み核燃料の最終貯蔵地とされてしまうのではないか。この懸念は当然のものではないでしょうか。使用済み核燃料の搬出先として想定されている六ケ所村再処理工場は完成延期がすでに26回に上り、稼働の目途が立っていません。核燃料サイクル計画自体が破綻しかかっている、あるいはすでに破綻している現状があります。
一方で、県内では市民の方々の間で中間貯蔵施設への懸念の声、反対の声が広がっていかない現状もあるようです。むつ市が使用済み核燃料の受け入れを容認したことを報じた7月30日の朝日新聞の記事には、《広がらぬ50年後への懸念》という脇見出しが付けられていました(財政難 頼った原発マネー、朝日新聞、2024年7月30日、朝刊、28面。記事の中では「核の中間貯蔵施設はいらない! 下北の会」代表の野坂庸子さんの声も取り上げられています)。
先のことがイメージできない私たち
私たちは現在、先のことがなかなか考えられない状況の中を生きています。先のことをイメージすることができるとしても、それは数年先までのことかもしれません。あるいは、5年先のことかもしれません。何とかイメージすることができて、10年先のことまでかもしれません。生活も大変な中、一日一日を何とか、精一杯生きているというのが私たちの実情でありましょう。経済面での不安、健康面での不安、様々な不安を抱えつつ、それぞれが日々懸命に生活しています。50年後のことはイメージできないというのも、確かに、その通りでありましょう。私たちのほとんどが、50年後にはすでに天に召され、その時にはこの世界にはおりません。また、生活が苦しい中で、余裕のない中で、《50年後への懸念》より、目の前の自分の生活の方を優先して考えてしまうというのも理解のできることです。
私たちはいかにしたら未来のことを考えてゆくことができるでしょうか。周囲の環境や未来に関心を向けられず、「いまの自分(たち)さえよければよい」という心情にしばしば陥ってしまうのも、私たちの率直な姿です。私たちはいかにしたら限定されたイメージを押し広げ、視点を拡げて、これからの未来を生きる、次の世代の人々のことを考えゆくことができるでしょうか。
神さまの愛の光 ~誰一人欠けることなく
先ほど、聖書が語る平和とは、「神の目にかけがえのない存在である私たち一人ひとりが、現実に重んじられ、大切にされている状態」であると述べました。
平和について考えるには、まず、神さまの目から見た自分の存在の尊さへの感受を深めてゆくことが大切です。聖書に、「わたしの目にあなたは価高く貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章4節)との神さまの言葉があります。神さまの愛の光の中で、価高く貴い存在として重んじられている自分自身を想像してみてください。すぐには想像することができない方もいらっしゃるかもしれません。たとえ自分ではうまくイメージできなくても、神さまの目にあなたが価高く貴い存在であることは、イエス・キリストが伝えてくださっている真理であり、現実です。イエスさまはその生涯を通して、ご自分の命を懸けて、その真理を私たちに伝えてくださっています。何一つ欠けることなく、あるがままに、あなたはいま、神の愛の光の内にいます。
このあなたを照らす愛の光は、あなたの隣の人を照らしています。両隣の人を、ここに集う一人ひとりを照らしています。自分だけではなく、自分を含む一人ひとりが重んじられ、大切にされる状態。誰一人欠けることなく、一人ひとりが尊ばれている状態が、平和です。そのことをいま、共に心に留めたいと思います。
そして、この神さまの愛の光は、私たちの前方にいる、未来の子どもたちを照らしています。いまを生きる私たちだけではなく、未来を生きる一人ひとりが重んじられ、大切にされること、それが平和です。神さまの大いなる光のもとで、誰一人欠けることなく尊ばれ、重んじられている。この十全なる世界のあり方を常に心の内にイメージし、そのヴィジョンがこの地に実現してゆくよう、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと願います。
先ほどご一緒に歌った讃美歌『このこどもたちが』の歌詞にある通りです。《このこどもたちが 未来を信じ/つらい世のなかも 希望にみちて、/生きるべきいのち 生きていくため、/主よ、守りたまえ、平和を、平和を》(讃美歌371番『このこどもたちが』1番、詞:Douglas Clark、曲:山中知子、日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21』、日本基督教団出版局、1997年)。
子どもたちが希望をもって生きてゆくことができる世界を願い、自分にできることを果たしてゆくことは、今を生きる私たちの責務なのではないでしょうか。
神の掟
メッセージの冒頭で、ヨハネの手紙一5章1-15節をお読みしました。冒頭に次の言葉がありました。《イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。/このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。/神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません》(1-3節)。ここでは、私たち一人ひとりが、神から生まれた者、神の子どもたちと呼ばれています。《神を愛するとは、神の掟を守ることです》(3節)との言葉もありました。ここでの神の掟とは、イエス・キリストが与えてくださった「互いに愛し合いなさい」という掟のことを指しています(ヨハネの手紙一3章11節、23節、4章7節、11節、ヨハネによる福音書13章34節)。イエスさまが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うこと。イエスさまが私たちを神の子どもたちとして重んじ、大切にしてくださっているように、私たちも互いを重んじること、これが神の掟です。
本日の聖書箇所の直前には、次の言葉もありました。《「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。/神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です》(4章20、21節)。
目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができない――印象的な言葉ですね。言い換えますと、目に見える隣り人を大切にすることが、目には見えない神さまを大切にすることにつながっているのだと受け止めることができます。「神」の名のもとに、あるいは「正義」の名のもとに、人の命と尊厳を軽んじ傷つける行為がいかに多く行われていることでしょうか。「互いを軽んじること」の連鎖を断ち切り、「互いを重んじる道」を歩んでゆけますよう願うものです。
本日はご一緒に平和聖日礼拝をおささげしています。一人ひとりが大切にされる社会を求めて――いまを生きる一人ひとりが、未来を生きる一人ひとりが希望をもって、喜びをもって生きてゆくことができるよう、それぞれが、いま自分にできることを行ってゆきたいと願います。