2024年9月1日「イエス・キリストの内に」

20249月1日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編65614節、ヨハネによる福音書83136節、ヨハネの手紙一51021

イエス・キリストの内に

 

 

台風10

 

台風10号の影響により、全国各地で記録的な大雨となり、深刻な影響や被害が生じています。岩手県内でも記録的な大雨が降り、様々な被害が生じています。先週は私たちの住む花巻でも一部地域で避難指示が出され、昨日は一部地域で高齢者等避難情報が出されました。今日は雨も止み晴れ間となりましたが、皆さんも引き続き、大雨の影響による冠水や川の増水、土砂災害、またお車の運転の際にはくれぐれもお気を付けください。この度の大雨で被災された方々の上に神さまのお支えがありますように、一人ひとりの命と安全が守られますように祈ります。

昨今の異常気象を見ていますと、まるで地球が悲鳴を上げているかのようです。ちょうどこの9月のカトリック教会の祈りの課題として、フランシスコ教皇は「地球の叫び」のために祈るよう呼びかけていらっしゃいました。教皇は《地球の叫びのために祈りましょう。/地球の体温を測るならば、熱があることがわかるでしょう。具合が悪い人と同じように、地球も具合が良くないと感じています》と述べ、《……私たち一人ひとりが、地球の叫びに、また、環境災害や気候変動の犠牲者の叫びに心の耳を傾け、私たちの住む世界を大切にする生き方へと導かれますように》と祈りの言葉を述べておられます(バチカン・ニュース「9月の教皇の祈りの意向:地球の叫びのために」 https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2024-08/intenzioni-preghiera-settembre-2024.html

教皇のメッセージにあるように、地球の体温を測るならば、熱がある。具合が悪い人と同じように、現在地球も具合が悪くなり、叫び声を上げている、そのように感じざるを得ません。私たち人間が地球環境を意のままに利用し続けた結果、気候変動とそれを要因とする自然災害が引き起こされている現状があります。特に、先進国による経済活動が気候変動を引き起こし、それが世界各地で甚大なる自然災害を引き起こしている現実があります。日本で毎年この時期に発生している大型台風も、海水温度の上昇が関係していることが指摘されています。

 

 私たちは地球のために、いま何ができるでしょうか。直面する深刻な気候変動に対して、どのようなことができるでしょうか。防災への備えをすると共に、地球の環境を少しでもより良い状態に戻してゆくため、自分にできることを祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

聖書が語る「永遠の命」

 

いまご一緒にヨハネの手紙一51021節をお読みしました。ヨハネの手紙一の結びにあたる箇所です。本日の箇所では、「永遠の命」という言葉が繰り返し出てきました。11その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです》、13節《神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです》。

ヨハネの手紙の著者は、神さまが私たちに永遠の命を与えられたこと、その永遠の命は御子イエス・キリストの内にあることを繰り返し語っています。手紙をしめくくる2021節にはこうあります。《わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。/子たちよ、偶像を避けなさい》。私たちは御子イエス・キリストの内にいる、そしてこの方こそ、真実の神、永遠の命である、そのように記して、ヨハネは筆を置きます。本日はこの永遠の命について、ご一緒に思い巡らしてみたいと思います。

 

聖書が語る永遠の命とは、私たちが不老不死の体となって、この世界にいつまでも生き続けるという意味での永遠の命ではありません。生物としての私たちの命は、あくまで有限のものです。私たちの命は限りのあるものであり、やがてこの地上と別れを告げる時が訪れます。私たちの命は限りあるものですが、限りのないイエス・キリストの命に結ばれることで、私たちにもまた永遠の命が与えられる。いや、キリストに結ばれた者には、すでに永遠の命が与えられている。そのことをヨハネの手紙の著者は力強く証しています。

 

 

 

「死はすべての終わりではない」

 

と同時に、では永遠の命とは一体どのようなものなのか、私たちにとって分かりづらいことであるのもその通りです。ヨハネの手紙の著者が手紙の中で永遠の命を強調しているのも、ヨハネの教会の人々にもなかなかこのことが伝わりづらいことであることを自覚していたからかもしれません。

 

そもそも地上にいる私たちは、いまだ死を経験していません。よって、死後の世界の領域について、経験を通して知ることはできていません。聖書も死後の世界の領域についてははっきりとは語っていません。私たち人間にはいまだ、理解と経験の及ばない広大なる領域があることを思わされます。

 

しかし、聖書がはっきりと語っていることがあります。それは、「死はすべての終わりではない」ということです。「わたし」という存在は、死をもって消え去ってしまうものではない。私たちがこの地上での生涯を終えた後も、「わたし」は神さまの命の中を生き続ける。キリストに結び合わされた私たちは、永遠の命にも結ばれる。私たち教会はこの2000年間、永遠の命の約束を大切に受け継いできました。

 

永遠の命は、多くの人にとって、経験的に理解しているものというより、約束として信じているものであるのでしょう。永遠の命がどのようなものではあるか、いまだ地上にいる私たちにははっきりとは分からないけれども、私たちはその約束を信じている。なぜなら、その約束は、イエス・キリストが与えてくださった約束であるからです。

私たちはイエス・キリストを信じています。イエス・キリストの愛に私たち一人ひとりが固く結ばれていることを信じています。そのイエスさまが永遠の命であるのなら、私たちは永遠の命にもまた固く結ばれていることになります。

 

「わたしはここにいる、わたしは永遠の命である」――イエス・キリストは私たちにいつもそう語りかけてくださっているのだ、本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

「わたしはここにいる、わたしは永遠の命である」

 

私たちは苦しみや悩みの内にあるとき、イエスさまがそばにいてくださることを感じられなくなることもあります。死の現実を前にして、「復活」や「永遠の命」という言葉が何か空々しく思える時もあるでしょう。

たとえ私たちの心の耳には聞こえなくても、永遠の命であるイエス・キリストは、いつも、どんなときにも、私たちに語りかけてくださっているのだと私は信じています。これはイエス・キリストへの信頼、と言い換えることができるものかもしれません。

 

私がよく思い起こすエピソードがあります。アウシュヴィッツの強制収容所での経験を記したフランクルの『夜と霧』の中に記されたエピソードです。

強制収容所の病棟において亡くなった、ある一人の若い女性がいました。亡くなる数日前、医師であったフランクルは病の床にあるこの女性を訪ねました。そのとき、彼女は病室の窓の外のマロニエの木を指さして、「あの木とよくおしゃべりをするのです」と言ったそうです。フランクルは当惑しつつ、「木も何か言うのですか」と尋ねた。すると彼女はこう応えたそうです。

《木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって……》(『夜と霧』V・E・フランクル=著、池田香代子=訳、みすず書房)

病院の窓の外に植えられた、一本の木。この一本の木から、永遠の命の声が聴こえてきたというこのエピソードは、私の心にずっと刻まれ続けています。私たちの世界にはきっと、このようなことが起こっているのではないでしょうか。女性に語りかけた命の声――。この存在をどう呼ぶかは宗教によって、人によって、違いがあるかと思います。私たちキリスト教徒はその存在をイエス・キリストと呼ぶでしょう。

 

永遠の命は、聖書を通して、あるいは身近な存在を通して、いつも私たちに語りかけてくださっている。その意味で、私たちはこの地上の生涯を終えた後に永遠の命に出会うのみならず、日々の生活の中で、永遠の命と出会っているのだと言えるのかもしれません。

 

永遠の命は、どこか遠く離れたところから私たちに語りかけておられるのではない。私たちがどこにいようと、私たちがどれほど困難の中にいようと、いつも私たちの傍らにいて、命の言葉を語りかけてくださっています。「わたしはここにいる、わたしは永遠の命である。あなたは独りではない」、と。

 

 ほんのかすかにでもこの声を聴き取ることができたとき、この命の言葉を感じ取ることができたとき、私たちの心には光が灯ります。たとえ盛大な光ではなく、暗闇に差し込むかすかな光のようであったとしても、この小さな光は、私たちの心に慰めを与え、消えることのない希望を与えてくださるものです。

 

 

 

共に悲しみ、共に涙を流されるイエス・キリスト

 

 そしてもう一つ、私がいつも思い起こすのは、ヨハネによる福音書が証しする、愛する者の死を前に涙を流されたイエス・キリストのお姿です。

 

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。/イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、/言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、ご覧ください」と言った。/イエスは涙を流された(ヨハネによる福音書113235節)

愛するラザロが病気で亡くなり、マリアや大勢の人々が涙を流す中で、イエスさまも共にその死を悲しみ、共に涙を流してくださったことをヨハネ福音書は証ししています。

 

死後の世界の領域についてもすべてご存じのはずのイエスさまが、愛する人の死を前に、涙を流すことしかできない私たちと同じように、涙を流してくださっている。イエスさまはそのように、私たちと共に悲しみ、共に苦しんでくださることによって、私たちとの間に固い絆を結んでくださっています。

私たちの傍らで、共に悲しみ、共に涙を流してくださっているイエス・キリスト。この共におられるイエスさまが、すなわち、永遠の命であるのです。

 

イエスさまは、どこか遠く離れた高みから、私たちに語りかけておられるのではありません。私たちの傍らで、共に涙を流しながら、命の言葉を語りかけてくださっています。「わたしはここにいる、わたしは永遠の命である。あなたは独りではない」。

 

 

 

イエス・キリストの内に

 

 改めて、本日のヨハネの手紙一の言葉をお読みいたします。《その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです11節)、《神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです》13節)、《わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です20節)

 

 私たちはいま、イエス・キリストの内にいます。キリストの愛と命に結ばれ、その内に抱かれています。天にいる者も、地にいる者も、共にこの永遠の命に結ばれています。私たちはこの命の光の中で、共に生き、共に生かされています。誰一人失われることなく、すべての者がキリストの愛と命に結ばれていることが、神さまのとこしえの願いであるのだと信じています。

 

 

「わたしはここにいる。わたしは永遠の命である」――イエス・キリストの命の言葉にいま、私たちの心を開きたいと思います。