2024年9月29日「天上の住みか、地上の住みか」

2024929日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ダニエル書1214節、ヨハネによる福音書11116節、コリントの信徒への手紙二5110

天上の住みか、地上の住みか

 

 

石破茂氏が自民総裁に選出

 

 一昨日、自民党総裁選が行われ、決選投票の結果、石破茂氏が自民総裁に選出されました。皆さんも深い関心をもって結果を見守っていらっしゃったことと思います。同日の記者会見では、石破さんは裏金問題を念頭に置きつつ「ルールを守る自民党でなければならない。守っているかどうか、国民が検証できる仕組みを作らないといけない」と強調し、政治改革に取り組む考えを示しました(参照:朝日新聞、2024828日、1面)。石破さんは明後日、101日の臨時国会において首相に選出されます。

石破茂さんはキリスト者であり、私たちが属する日本キリスト教団の信徒でもあります。石破さんの上に神さまの導きがありますように、神の正義に根ざした政治が行われてゆきますように、共に祈りましょう。国家の栄誉ではなく、国民一人ひとりの生命と尊厳が守られる政治がなされますように願うものです。

 

 

 

新型コロナワクチンの定期接種が開始

 

 来月の1015日から、新型コロナワクチンの定期接種が始まります。対象は65歳以上の方々、もしくは60歳から64歳までの心臓、腎臓、呼吸器の機能に障がいあり、身体障害者手帳1級を交付されている方、あるいはヒト免疫不全ウイルスによる免疫の機能に障がいがあり、身体障害者手帳1級を交付されている方です。これまでの臨時接種とは異なり接種も有料となります(花巻市は自己負担額3000円)。対象となるワクチンは5つの製薬会社によるもの(ファイザー、モデルナ、第一三共、Meiji Seikaファルマ、武田薬品)で、内4つがmRNAワクチンです。

 

このmRNAワクチンについては、健康への深刻な影響が懸念されていることをこれまでも度々お伝えしてきました。事実、この新型ワクチンの接種が始まって以降、国内外で前例のない規模の健康被害が報告されています。918日時点で、新型コロナワクチン接種により亡くなったと認定されている方は835名。これは、死亡とワクチン接種とが因果関係があると遺族が認識し、予防接種健康被害救済制度に大変な労力をかけて申請し、その後、ようやく因果関係が認定されるに至った方の数です。これはあくまで氷山の一角であり、明らかになっていないだけで、実際は、より多くの方々がワクチンにより亡くなっていると考えられます。接種直後に亡くなったのではなく、接種から亡くなるまで、ある程度の時間が経過している場合、その因果関係を認識すること自体が困難であることでしょう。

また現在、多くの方々がワクチン接種の後遺症による深刻な体調不良に苦しんでいます。ワクチンが原因であるとは思い至らず、何らかの体調不良に苦しんでいる方々もたくさんいらっしゃることでしょう。

 

今回の定期接種の対象となるワクチンの中には、Meiji Seikaファルマによるレプリコンワクチンというワクチンも含まれています。自己増殖型のワクチンで、これまでのmRNAワクチンの増殖力をさらに増強したものです。世界に先駆けて日本で初めて認可され、今回の定期接種で初めて使用されることとなりました。このレプリコンワクチンも従来のmRNAワクチンと同様、あるいはそれ以上の、健康への深刻な影響が懸念されます。

 

10月上旬には、対象者に市から予診票が送られてくるとのことです。もしも新型コロナワクチンの定期接種を検討されている方がいらっしゃいましたら、今一度、様々な情報を収集し、リスクがあることを踏まえた上で、接種の有無の判断をしていただきたいと思います。私からは、皆様には、これ以上の接種はしないように、強くお願い申し上げます。コロナウイルス自体が弱毒化している現在、大切なのは私たち自身の免疫力を上げ、しっかりと保ってゆくことであると思います。

これ以上、薬害によって苦しむ人が増えることがないように、いま苦しみの中にある方々の上に神さまからの癒やしがありますように、一人ひとりの生命と尊厳が守られるよう切に願います。

 

 

 

《み国を来たらせたまえ》 ~神の国が来ますように

 

私たちが礼拝の中で毎回お祈りしている主の祈りの中に、《み国を来たらせたまえ》という祈りがあります。《み国》とは、神の国のことです。この地上に神の国が到来することを求める祈りです。

「神の国」はギリシア語の原語では「神の支配」とか「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神さまの愛のご支配が満ちているところ、それが神の国です。

 

聖書は、神さまの目に、一人ひとりの存在がかけがえのないものであることを語っています。一人ひとりの存在が、かけがえのないものとして大切にされること――これが、私たちに対する神さまの願いです。その神さまの願いが実現されている場、それが神の国であるのだと受け止めることもできるでしょう。

 

神の国は「天の国」と呼ばれることもあります(マタイによる福音書)。しかし、普段私たちが用いている「天国」とは少し意味が異なっていることが分かります。死んだ人が行く場所という意味での天国にとどまらず、神さまの愛と願いが実現されている場が、天の国であるのです。それは神さまのおられる天においてすでに実現しており、この地上においても、イエス・キリストを通して実現しつつあるというのが聖書の理解です。

 

主の祈りには、《み心の天になるごとく 地にもなさせたまえ》という祈りもあります。《み心》とは、神の心のことです。「神さまの心(願い)が天において実現しているように、この地上においても実現しますように」との祈りです。イエスさまが教えてくださったこの祈りの言葉にある通り、私たち教会はこの地上に神のみ心がなされることを祈り求めてきました。私たちが天に「行く」より先に、神の国が私たちのもとに「来てくださる」のです。「神の国が来ますように」――そのように祈り求めるのが、キリスト教の信仰の特質の一つです。

 

この祈りの中心におられる方、それがイエス・キリストです。イエスさまはいまも私たちと共に、この地上に神さまの愛と願いが実現されるよう祈り続けてくださっています。一人ひとりの存在が、その生命と尊厳が大切にされるように祈り続けてくださっています。このように、私たちがいま生きている地上を重視する考え方を、ご一緒に大切に心に留めたいと思います。

 

 

 

《わたしたちの本国は天にあります》

 

 一方、聖書の中には、《わたしたちの本国は天にあります(フィリピの信徒への手紙320節)という言葉もあります。私たちはそれぞれ地上に故郷をもっていますが、まことの本国は「天にある」のだとする言葉です。私たちの魂の故郷について語っている言葉として受け止めることもできるでしょう。

 

 先ほど、神さまの愛と願いは天においてすでに実現していると述べました。天においては、すべての、一つひとつの存在が、かけがえのないものとして大切にされています。すべてのものが、神さまの愛と永遠の命に結ばれています。私たちはこの魂の故郷から目的や使命をもって地上にやって来ていて、地上の生涯を終えた後、また天へと還ってゆきます。そしてこの天で、私たちは愛する人々とまた再会を果たします。

 であるのだとしたら、私たちはなぜこんなにも地上で頑張らねばならないのか、と疑問が生じることもあるかもしれません。この地上の生活においては、辛いこと、悲しいこと、苦しいことがたくさんあります。そのような中、魂の故郷に早く還りたいという心情が湧いてくるとしても、それは当然のことであるかもしれません。

 

 

 

天上の住みか、地上の住みか

 

 本日の聖書箇所であるコリントの信徒への手紙二5110節に次の言葉がありました。《わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。/わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。/それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。/この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです14節)

 

 手紙の著者であるパウロはここで、天上の住みかがあることを語っています。一時的な地上の住みかである《幕屋》は消え去っても、決して消え去ることのない、神によって備えられた《建物》が天にある1節)。すなわち、フィリピの信徒への手紙でも述べられている通り、私たちには魂の故郷である天上の住いがあるのです。

 

 しかし、ここでパウロは、早く天上の住みかに行きたいとは言いません。パウロにとって、この地上の住みかもまた、大切なものであるからです。むしろ、パウロはこの地上の住みかの上に、天から与えられる住みかを着たいと語ります。2節《わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています》。

天から与えられる住みかを《上に着たい》とは、独特な表現ですね。この表現は、私たちが地上の世界から解放されて天の国に「行く」のではなく、この地上に天の国が「来る」という信仰とつながっているものとして受け止めることができます。地上に神の国が到来することと、天の住みかを「上に着る」という表現はつながりを持っているのです。

 

4節《この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に呑み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです》。私たち被造物はこの地上の住みかにあって、重荷を負って呻いている。でもそれは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではない、とパウロは強調します。この地上の世界もこの身体も、パウロにとって、神さまがお造りになってくださったもの、かけがえなく大切なものだからです。

 

他ならぬこの地上に、神の国が到来することをパウロは待ち望んでいます。神の国が到来し、この自分の身体がキリストの愛と命に結ばれるその時を、パウロは呻きつつ、待ち望んでいます。大切な人々と共に、すべての被造物と共に(ローマの信徒への手紙82223節)――。私たち教会は、その時が必ず来ることを信じ、共に待ち望んでいます。

神の国が地上に到来し、キリストの愛と命に包まれるその時まで、いまいる場所で、自分のこの体を通して、できることを精一杯するのだ――そのように、パウロは決意していたのかもしれません。

 

この世界は、神さまによって造られた、かけがえのない場所。私たちのこの命も、神さまによって与えられた、かけがえのない命。私たちがいま生きているこの人生は、二度と繰り返すことができない、かけがえのない人生です。あなたがいま生きて、存在していること自体が尊い。そこには替わりがきかない、比類のない、格別な価値があるのだと私は信じています。

 

 

 

かけがえのない関係性 ~愛のきずな

 

そしてそのかけがえのなさは、人との関係性についても、そうでありましょう。私たちはこの地上の世界で、大切な人々と、かけがえのない出会いを果たしてゆきます。

 

他者との関係は、時に私たちを縛る「しがらみ」として表現されることもあります。人との関わりがなければ、私たちは誰かから傷つけられることもないし、その関係について悩んだり悲しんだりすることもありません。

しがらみは元来、川の流れをせきとめるため、水の中にくいを立て、それに木の枝や竹などを横向きに結び付けたもののことを言います。このイメージから、私たちを引きとめ、束縛するものを表す言葉として、どちらかというとネガティブな意味をもって使用されるようになりました。人間関係は私たちにとって確かに、時にしがらみや重荷になるものでしょう。この地上の生活で最も苦労が尽きないもの、それが人の関係であるかもしれません。

 

 一方で、他者との関わりがあるからこそ、私たちは生きることの喜びを感じることができます。またそして、他者との関わりを通して、私たちは愛を知ってゆきます。

 近しい人々との関わりは、私たちにとって時にめんどうなしがらみのように感じることがあるかもしれません。しかしそれは、確かにそこに実体があり、重みがあることのしるしでもあります。この実体をもった、重みのある関係性は、「きずな」と言い換えることもできるのではないでしょうか。このきずなが、まるで船をつなぎとめる「もやい綱」のようにして、私たちをこの地上へとつなぎとめています。

 

 このきずなの土台になるもの、それは、愛に他なりません。神さまからの愛と、大切な人々からの愛。この愛とそのきずながもやい綱のようにして、今日もこの私をこの地上へと、「生きる」ことへつなぎとめてくれています。私が地上での役割を終える、その最期の日まで――。

 

 

 

この地上をまことの故郷に

 

政治学者の姜尚中さんが以前、或るテレビの対談において、故郷について述べる中で、「ここで生きようと決めたときに故郷となる」ということをおっしゃっていました。たとえ私たちがどこにいようと、ここで生きてゆこうと決めたその場所が、自分の故郷になるのだ、と。

 

 この言葉にもある通り、私たちがいま生きているこの場所を、まことの故郷にしてゆきたいと思います。私たちが生きるこの地上に、神の国が来ますように。大切な人々と共に生きるこのかけがえのない世界が、神さまの愛に満ちたまことの故郷へと、少しでも近づいてゆきますようにと願います。