2025年1月12日「あなたはわたしの愛する子」

2025112日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編2112節、ローマの信徒への手紙61223節、マタイによる福音書31317

あなたはわたしの愛する子

 

 

公現日

 

先週16日、私たちは教会の暦で公現日を迎えました。公現日はイエス・キリストが人々の前に「公に現れた」ことを記念する日です。先週と先々週は占星術の学者たちが星の光に導かれ、赤ん坊のイエス・キリストを探し当てて贈り物をささげる場面を読みました。カトリックやプロテスタントなどの西方教会では、伝統的に公現日をイエスさまの存在が東方の学者たちをはじめとする「異邦人」(ユダヤ人以外の外国人)に対して公に現わされた日として受け止めてきました。

 

 この公現日の歴史は古く、もともとは「イエス・キリストが洗礼(バプテスマ)を受けた日」として祝われていたそうです(参照:クリスマスおもしろ事典刊行委員会編『クリスマスおもしろ事典』、日本キリスト教団出版局、2003年、37頁)。先ほどご一緒にイエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を授けられる場面をお読みしました(マタイによる福音書31317節)。その中で、イエスさまが洗礼を受けられた際、天から《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という声が聞こえたとの記述がありました。神によってイエスさまが「神の子」であると宣言された場面、すなわち、この世界に対してイエスさまが神の子であることが公に現わされた場面としても受け止めることができるでしょう。

 

 改めて、イエスさまが洗礼を受けられた場面をご一緒に読んでみたいと思います。

 

 

 

イエス・キリストの洗礼

 

マタイによる福音書31315節《そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。/ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」/しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした》。

 

ここに登場する洗礼者ヨハネは当時、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼」という儀式を行っていた人物です。ヨハネが行っていた洗礼は、川の中に入って全身を沈めるというやり方でした。このヨハネが行っていた洗礼には、まだ「クリスチャンになる」という意味合いはありません。ヨハネが行っていた洗礼には罪を「悔い改める」意味が込められていました。水の中に沈んで、古い自分が一度死ぬ。そして、水の中から起き上がり、新しい自分に生まれ変わる。水の中に沈むという動作の中にはそのような象徴的な意味が込められていたのだと考えられます。

 

洗礼者ヨハネが行っていたこの悔改めの儀式は当時、多くの人々の心をひきつけていました。イスラエルの各地から、ヨハネのもとに人々が集まって来ていました。イエスさまもその一人として、ヨハネのもとを訪ね、彼から洗礼を受けられました。

 

 

 

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

 

イエスさまが洗礼を受けた際、それまでにはなかった新しい出来事が起こったことを福音書は記します。1617節《イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。/そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた》。

 

イエスさまが洗礼を受けてすぐに水の中から上がられると、天がイエスさまに向かって開きました。そして、聖霊が鳩のようにご自身のもとに降って来るのをご覧になりました。すると天から《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という声が聞こえて来ました。神さまによって、イエスさまが「神の子」であることが宣言された=公に現わされた瞬間です。

 

ここでご一緒に注目したいのは《愛する子》という表現です。「神の子」であるだけではなく、「愛する子」であることが語られています。

この場面においては、神さまの言葉はイエスさまお一人に対して語られたものです。その場にいた大勢の人々に対しても語られたのではなく、あくまでイエスさまお一人に対して宣言されたものです。はたから見ると、大勢の中の一人の男性がヨハネから洗礼を受けただけの出来事にしか見えなかったかもしれません。水の中から上がってしばらく立ち尽くしているイエスさまを、不思議そうな顔で見ていた人もいたかもしれません。

イエスさまご自身は、このとき、「自分が何者であるか」を理解されました。自分は「神の子、キリストである」とはっきりと理解されました。けれどもそれを周りの人々に言うことはなく、ただその事実を自分の胸の内にだけ納められたようです。

 

その後、イエスさまがなさったことは、この神さまの声を、私たち一人ひとりに対しても語りかけられている声とすることでした。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」――この神さまの愛の声が、一人ひとりに語られているものとするべく、イエスさまはその公の活動を始められてゆきます。イエスさまが私たちの前に「公に現れて」くださったのは、私たちが神さまの愛を知るためであったのだと私は受け止めています。

 

ヨハネから洗礼を受けられてからその後の数年間の活動において、イエスさまは、神の愛を伝えるべく、全精力を注がれました。神の国の福音を宣べ伝え、病の床にある人を自らお訪ねになり、社会から疎外され差別されている人に寄り添われました。そうしてご生涯の最期には、私たちへの愛ゆえに、自ら受難と十字架の道を歩まれました。福音書を読むことを通して、私たちはそのイエスさまのお姿の一端に触れることができます。

 

 

 

「罪悪感」の苦しみ

 

一方で、時に私たちは「あなたはわたしの愛する子」という言葉が自分に向けられたものであると感じられなくなることがあります。聖書には確かに素晴らしい言葉や教えがたくさん書いてあるけれども、どこか、自分とは遠いところで語られている言葉のように感じることもあります。聖書の言葉が自分に対して語られている言葉であるとは思えない、そのように感じてしまうこともあるかもしれません。

 

聖書の言葉を十分にうまく受け入れられないことには、色々な理由があるでしょう。一言で語ることはできませんが、私自身の場合を顧みてみますと、大きな要因として、「罪悪感」というものが関係しているように思います。ここでの罪悪感とは、自分の存在が何か「悪い」ものであるように感じる意識のことを言っています。原罪意識と言いかえることもできるでしょう。自分が自分であること、自分が生きていること自体が何か「悪い」ことのように後ろめたく感じる意識です。大小の差はあっても、私たちはそれぞれ、心のどこかで「自分は悪い人間」であると感じる気持ち、「自分はゆるされていない」との気持ちを抱えつつ生きている部分があるのかもしれません。

 

 

 

「罪悪感」と「罪の自覚」は異なるもの

 

私自身は、10代から20代の前半にかけて、特にその意識が顕著でした。いつもそういう気持ちに苦しめられているわけではありませんでしたが、ふとした瞬間、自分でもよく分からぬ罪悪感を覚え、それに苦しめられることがありました。そしてそのことに伴って、聖書の言葉も十分に受け止めることができないことがあったように思います。自分なりに懸命に聖書を読んではいましたが、聖書を読んでいて、喜びを感じるよりも、むしろ辛い気持ちになったり反発心を覚えたりすることもありました。

 

私が特にひっかかっていたのは、「罪」という言葉でした。皆さんもご存じのように、聖書には罪という言葉が頻繁に出て来ます。この言葉を目にする度、この罪悪感が呼び覚まされ、辛い気持ちになっていたのです。

 

現在の私は、この「罪悪感」と「罪の自覚」を異なるものとして受け止めています。罪悪感が自分は「悪い」存在だと感じ苦しむことであるとすると、罪の自覚は、自分の言動の過ちを率直に受け入れることです。聖書の罪という言葉が促しているのは本来、この率直な罪の自覚であって、人の心に罪悪感を増し加えるものではないのだ考えています。けれども、当時の私はまだそのことをうまく言葉にすることができていませんでした。罪悪感と罪の自覚とを混同し、苦しんでいたように思います。

 

私たちはこの罪悪感の苦しみから解放されるからこそ、率直なる罪の自覚にも至ることができるようになってゆくのではないでしょうか。神さまと隣人の前に犯してしまった過ちを、心からの痛みと共に、認めることができるようになってゆくのではないでしょうか。言いかえれば、心のどこかが罪悪感で縛られている限り、私たちは自分の言動の過ちを率直に認めることもまた難しくなってゆくのです。

 

 

 

「良い」という語りかけ

 

 そのような中、ある時、自分にとってとても大切な経験をしました。大学4年生の時でした。机に向かって考え事をしていた私は、ふと、自分の心にイエス・キリストが語りかけてくださったように感じました。その声をあえて言葉にするなら、「良い」というひと言でした。自分を超えた、大いなる存在が、「あなたが、あなたそのもので、在って、良い」と心に語りかけてくださったように感じたのです。それは単なる自分の現状の肯定ということではなく、自分の存在そのものが根底から「良し」とされたと感じた経験でした。

 

この語りかけを受けて、私は、「ああ、わたしがわたしであることは、『良い』ことであったのだ」と知らされました。この経験をきっかけとして、罪悪感は少しずつ私の心の中でほどけ、消えてゆきました。自分の存在を「悪い」ものだとする原罪意識は、自分の誤解であった。神さまの目から見て、私という存在は「良い」ものである、価高く貴いものであることに気付かされました。

 

創世記1章には、神が万物を創造された後、それらをご覧になって「極めて良かった」と語られたことが記されています(創世記131節)。私はこのキリストの語りかけを通して、天地創造の初めからこの世界を貫いている、神の「良い」という祝福の声を聴いたような気がしました。それは、神さまが私たち一人ひとりをその創造の始まりから「愛してくださっている」(エフェソの信徒への手紙14節)という実感でした。以来、私は聖書が語る「愛」の言葉も、少しずつ、自分なりに受け入れることができるようになってゆきました。

 

確かに、私たちは罪を犯す存在です。過ちを犯す存在です。しかし、そのように過ちを繰り返す存在であっても、それでもなお、神さまの目から見て、私たちは根本的に「良い」存在であるのです。私たちの罪よりももっと深いところで、神さまの「良い」という祝福の声は響いています。

 

もちろん、私自身、いまだ罪悪感から自由になっているわけではありません。気が付けば、否定的な想いや原罪意識のようなものに捉われてしまっていることも多々あります。自分の心が否定的な想いに囚われてしまっていることに気づいたら、いまお話しした、大切な経験を思い起こすようにしています。天地創造の始まりからこの世界に響き続ける、神さまの「良い」という声に立ち帰るようにしています。

 

 

 

「あなたはわたしの目に、価高く貴い存在」

 

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」――。イエスさまはこの言葉を私たちの心に届けるべく、そのご生涯をささげてくださいました。死からよみがえられたイエスさまは、いまも私たちの傍らにいて、語り続けてくださっています。「あなたは『悪い』存在ではない。あなたは『良い』存在。わたしの目に、価高く貴い存在(イザヤ書434節)」なのだと絶えず語りかけてくださっています。

 私たちは確かに過ちを犯すものですが、それでも、生きていて良い。私は、生きていって、良い。神さまの目から見て、私たち一人ひとりが愛する子どもたちであり、かけがえのない、大切な存在であるからです。

 

 

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。イエスさまを通して伝えられたこの神さまの愛の言葉を、私たちがこの心と体と魂とをもって十分に受け入れることができますようように、聖霊なる神さまの導きをお祈りいたしましょう。