2025年2月23日「あなたの願いどおりになるように」

2025223日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編103113節、コリントの信徒への手紙二12110節、マタイによる福音書152131

あなたの願いどおりになるように

 

 

聖書は運命論に基づいて書かれていない

 

 古代から人々の心を捉えてきた考え方に、「運命論」があります。「この世界に起こる出来事は初めからそうなるように定められている、それを私たち人間の意志や力で変えることはできない」という考え方です。

以前、礼拝のメッセージの中で、「聖書は運命論に基づいて書かれていない」ということをお話ししました20241117日のメッセージ)。この世界に起こる出来事は初めから神さまによってそうなるように定められているのではなく、私たち人間の態度によって、刻々と変わってゆくものである。どんなに困難な現実が目の前にあろうとも、私たちはそれをより良い方向に変えてゆく可能性を秘めている。聖書はそのような前向きなメッセージを語っていることをお話ししました。

 

もちろん、聖書は「神さまのご計画」ということを大切にしています。私たちが自身の心の執着から離れ、神さまのご計画にこそ心を向けることの大切さを聖書は繰り返し語っています。神さまのご計画を大切にするゆえ、聖書は運命論に基づいて書かれているという印象を持っている方もいらっしゃるかもしれません。

一方で、聖書は、私たち人間の主体的な意思決定を重んじている書でもあります。神さまは私たち人間が自由にものごとを考え、自由に意思決定ができるようにしてくださった。「自由意志」という言葉がありますが、神さまは、私たち人間に自由な意志を与えてくださっていることを聖書は語っています。もしすべてのことがはじめから決定づけられているのなら、そもそも私たちに自由が与えられていることの意義は失われてしまうでしょう。

 

 

 

ヨナ書 ~未来はいまだ「白紙」

 

運命論に基づいて書かれていない代表的な書物として、旧約聖書(ヘブライ語聖書)のヨナ書が挙げられるでしょう。簡単にヨナ書の該当場面を紹介したいと思います。

 

アッシリアの首都ニネベの町に住む人々は、神の目に悪い行いをし続けていました。神さまはニネベの人々の不義なる行いを嘆き悲しみ、主人公のヨナを通して町の人々に警告を発します。「あと四十日すれば、あなたたちの都は滅びるであろう」(ヨナ書34節)。その警告を聞いたニネベの人々は自分たちの悪行を悔い改め、結果、ニネベは滅亡を免れます3510節)。このヨナ書の場面から、ニネベの未来は初めから定められているのではなく、そこに住む人々の主体的な意思に委ねられていたことを読み取ることができます。もしニネベの人々が「あと四十日すればニネベの都は滅びる」との宣告を「運命」として受け入れてしまったら、「仕方がない」ものとして諦めてしまったら、悔い改めは起こらず、本当にニネベは滅亡へと向かっていったかもしれません。

 

ヨナ書のこの一場面は、私たちが自分の心の向きを変え、生き方を変えてゆくことにより、未来もまた変わってゆくことを示しています。私たちの未来は、いわば、いまだ「白紙」であるのです。そのまっさらなページに何を書き込んでゆくかは、私たち一人ひとりの自由な意志に委ねられています。私たちの未来をかたちづくってゆくのは、私たち自身です。

 

 

 

私たちへの愛ゆえに

 

 なぜ神さまはそのように、私たちの主体性を尊重してくださっているのでしょうか。それは他でもない、私たちを愛してくださっているからです。神さまは私たちへの愛ゆえに、私たちを人格を持った存在として重んじ、その主体性、自由な意思を尊重してくださっているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。神さまは私たち一人ひとりを、かけがえのない、尊厳をもった存在として重んじてくださっている方です。またそして、だからこそ、私たちの内、誰一人として失われてはならないことを伝えてくださっています。

 

 

 

カナン人の女性とイエス・キリスト

 

メッセージの冒頭で、マタイによる福音書152131節をお読みしました。この本日の聖書箇所にも、悲観的な運命論に陥ることなく、主体的な意思によって、新しい未来を切り開いた一人の人物が登場します。一人のカナンの女性です。カナン人であるということは、「異邦人(ユダヤ人以外の人)」であることを意味しています。名前は記されていません。

 

物語の舞台となっているのはティルスとシドンいう古代都市で、現在のレバノンの南西部に位置している地域です。地中海に面したティルスは、古くからフェニキア人の重要な港町として繁栄していました。イエスさまはこの時、パレスチナを離れ、異邦人が多く住む街を訪れていました。

 

カナンの女性は、イエスさまがいらっしゃっていることを聞きつけ、《悪霊》に苦しめられている娘を助けてほしいと願い出ます。《主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています22節)。ここでの《悪霊》が何を示すのか、現在の私たちにははっきりとは分かりません。何かの病気であったようです28節)。女性は娘の病気を癒してほしいという切なる想いをもって、イエスさまのもとに駆けつけました。

けれども、イエスさまは何もお答えになりませんでした。そこで、弟子たちが近寄って来て、イエスさまに願いました。《この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので23節)

イエスさまのお答えは、こうでした。《わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない24節)。イエスさまはここで、自分は《イスラエルの家の失われた羊たち》(同胞のユダヤ人)の救いのために遣わされているとの認識を語られました。異邦人であるあなたはまだその対象ではない、と語られたのですね。その答えを聞いた弟子たちは女性をイエスさまから引き離そうとしたかもしれません。

 

しかし女性は再びイエスさまの前に来て、ひれ伏し、《主よ、どうかお助け下さい25節)と願いました。するとイエスさまは《子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない26節)とおっしゃって、女性の訴えを退けられました。

《子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない》は解釈が難しい言葉ですが、教会は伝統的に、ここでの《子供たち》は同胞のユダヤ人たちを意味し、《小犬》は異邦人を意味すると解釈してきました。《パン》は神さまの救いを意味しています。その解釈を踏まえてイエスさまの発言を言い直しますと、「神さまの救いはまずユダヤ人たちに与えられることになっている。異邦人のあなたの順番はまだ来ていない」となります。

イエスさまがなぜこのように突き放すような言い方をなさったのか、はっきりとは分かりません。その意図は分かりませんが、ここで福音書が記しているのは、それでもこの女性はあきらめることをしなかったということです。

 

 

 

新しい未来が切り開かれる

 

 このように二度も断られたら、しかも、「神さまの救いはまずユダヤ人たちに与えられることになっている。異邦人であるあなたの順番はまだ来ていない」と、それが「神さまのご計画」として宣言されたら。多くの人は、「ならば仕方がない」とあきらめてしまうのではないでしょうか。しかし、カナンの女性はそれでもあきらめることをしませんでした。

 

彼女はイエスさまの言葉を受けて、さらに言葉を返します。《主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです27節)。女性は先ほどのイエスさまの言葉を、見事に肯定的な意味へと方向転換させました。「同胞のユダヤ人たちにまず救いの手を差し伸べねばならないのは、もっともなことです。しかし、異邦人である私も、その神さまの満ちあふれる恵みに与ることができるのだと信じています」。

この女性の言葉を受けて、イエスさまはお答えになります。《婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように28節)。そのとき、女性の娘の病気は癒されました。

娘を想う気持ちとイエスさまへの深い信頼が、イエスさまを動かし、新しい未来を切り開いたのです。「神の計画」とされていたことが、このとき、新しく書き変えられました。

 

 

 

《求めなさい。そうすれば、与えられる》

 

本日のカナンの女性の姿から、「神さまのご計画」とされていることにただ従順であるだけが、信仰者の姿ではないということを知らされます。「神の計画」とされていることも、私たち人間の意志によって修正され得ることであるかもしれないからです。私たちが心から何かを願い、行動する時、すでに決定づけられていたような状況が動き出し、より良い未来が切り開かれてゆくということもまた起こり得るのです。

 

二度も断られたのにそれでもあきらめない女性の姿は、見方によっては「しつこい」と感じられるものであるかもしれません。「あきらめが悪い」、あるいは「自分の願いに執着している」と批判され得るものであるかもしれません。しかしそもそも、私たち自身には、自分の求めが自身の願望に過ぎないのか、それとも神さまのご計画に沿うものであるのか、知る得ることはできません。私たちにできることは、自分の心の奥に宿された願いが心からの願い(心願)であると確信するならば、それを神さまに求め続けることではないでしょうか。イエスさまへの全幅の信頼を持って、門を叩き続けることではないでしょうか。

 

イエスさまの山上の説教の言葉を思い起こします。《求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。/だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる(マタイによる福音書778節)

 

 

 

《あなたの願いどおりになるように》

 

 イエスさまはカナンの女性に対して、《あなたの願いどおりになるように》とおっしゃってくださいました。人がどう思っているかではなく、他ならぬ、あなたが願っているとおりになるように。あなたが心から願っていることが実現するよう、私も願うとおっしゃってくださったのです。あなたが心から願っていることを手助けするため、イエスさまはいまも共にいて、支えてくださっています。

 そしてそれは、イエスさまが私たちを愛してくださっているからです。イエスさまは私たちを愛するゆえ、かけがえのない存在として重んじてくださっているゆえ、私たちの自由を、私たちの心からの願いをも尊重してくださいます。

 

 

 

心からの願いにイエスさまは必ず応えてくださる

 

もしかしたら、この先に起こることは、私たちがいま具体的に願っていることとは異なることもあるかもしれません。私たちの思う通りにはならないことも、現実には多々あることでしょう。いやむしろ、私たちの思う通りのことはほとんど起こらないというのが実際のところです。しかし、どのようなかたちであっても、神さまは必ず私たちの求めに応えてくださる(コリントの信徒への手紙二1289節)ことをご一緒に心に留めたいと思います。

 

私たちが具体的に願うことはそれぞれ異なりますが、自由に、尊厳をもって、喜びをもって生きてゆきたいということは私たちの共通の願いではないでしょうか。この願いは、私たちの心からの願いであるでしょう。この心からの願いに、イエスさまは必ず応えてくださいます。

もしも私たちがいま硬直化した状況の中で苦しんでいるのだとしたら、尊厳が傷つけられている現実があるのなら、その状況を打破し、より良い未来を形づくってゆくことができるよう、イエスさまは共に願ってくださいます。私たちを力づけ、共に働いてくださいます。私たち一人ひとりが、自由に、尊厳をもって、喜びをもって生きてゆくことが、イエスさまご自身の願いでもあるのだと信じています。

 

 

ここに集ったお一人おひとりの明日が、より良いものとなってゆきますようにお祈りしています。