2025年3月16日「神の国はあなたたちのところに来ている」
2025年3月16日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書35章1-10節、ヨハネの手紙一3章1-10節、マタイによる福音書12章22-32節
東日本大震災と原発事故から14年
先週の3月11日(火)、東日本大震災から14年を迎えました。東日本大震災と原発事故を覚えて、国内外で祈りがささげられたことと思います。震災から14年が経ちましたが、いまも多くの方々が困難の中におられます。原発事故による深刻な影響はいまも進行形で続いています。震災と原発事故を覚え、引き続き、祈りを合わせてゆきたいと思います。
私たち花巻教会が属する奥羽教区では、3月9日(日)の午後2時半から、秋田高陽教会を会場にして、東日本大震災14年を覚えての礼拝をおささげしました(YouTubeでも配信されました)。メッセージを秋田高陽教会牧師の田中真先生が担当してくださいました。2023年7月の秋田豪雨、2024年1月の能登半島地震と9月の能登半島豪雨、この度の大船渡市の山林火災も心に留め、共に祈りを合わせました。
私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を想い起こしつつ過ごす期間です。本日は受難節第2主日礼拝をおささげしています。受難節のこの時、イエスさまのお苦しみに心を開き、いま困難の中にある隣り人の苦しみに心を開いてゆきたいと思います。またそして、暗闇の向こうから差し込むイースターの光を希望として、共に歩んでゆきたいと思います。
福音書に出てくる「悪霊」とは
メッセージの冒頭で、本日の聖書箇所であるマタイによる福音書12章22-32節をお読みしました。はじめのところでは、悪霊に取りつかれた人がイエスさまのところに連れてこられ、イエスさまがその人から悪霊を追い出し、癒やされる場面が記されていました。福音書に出てくるこの「悪霊」とは、どのような存在なのでしょうか。イエスさまは病気の人を癒やすことの他に、悪霊を人々の中から追い出すことをご自身の大切な働きの一つとしておられました。
「悪霊」がどのような存在であったかは、後世の私たちにははっきりとは分かりません。様々な解釈が可能であると思います。現代の私たちの視点からすると、何らかの精神疾患に該当する事例もあったことでしょう。と同時に、福音書に記される《悪霊》の働きのすべてが精神的な病いに起因するものと言えるかというと、必ずしもそうではないでしょう。中には、現在の科学や医学的な見地からしても、説明が難しい事例もあります。
改めて、22節をお読みいたします。《そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった》。
この記述だけでは、やはり悪霊がどのような存在であるのか、はっきりとは分かりません。悪霊に取りつかれた人は「目が見えず口のきけない」状態であったことは記されていますが、それが具体的にどのような症状であるのかも定かではありません。私たちが分かるのは、イエスさまが癒やす(悪霊を追い出す)と、その人はものが言え、目が見えるようになったということです。
理解が難しい箇所ではありますが、悪霊に取りつかれていたその人が、何らかの不自由な状態に置かれていたことは読み取れます。そしてイエスさまによって悪霊を追い出していただいたことにより、その人が自由と主体性を取り戻すことができたことも読み取れます。ものが言えるようになったこと、(心の)目が見えるようになったことは、そのしるしであると受け止めることもできるでしょう。すなわち、その人は「悪霊」と呼ばれる何らかの否定的な力に取りつかれて、心と体が支配された状態にあったのです。
本日は、福音書に出てくる悪霊を、「私たちを支配しコントロールしようとする何らかの否定的な力」として受け止めてみたいと思います。私たちの内から主体性を奪い、自由な意志や判断を奪い、言葉を奪い、そして尊厳を奪おうとする何らかの否定的な力です。福音書に登場する悪霊に取りつかれた人々は、その否定的な力の支配とコントロールを受け、苦しんでいる人々なのだと言えます。
イエス・キリストの「悪霊追放」
悪霊の働きをこのように受け止め直してみますと、それは何か超常的な現象を指すものではなく、私たちが日々の生活の中で経験しているものだということが分かります。他者を支配しコントロールしようとする欲求は、誰しもが抱くものであるからです。「他者を自分の思い通りにしたい」という支配欲は、私たちにとって最も強力な欲求の一つであるでしょう。また、他者から支配・コントロールされるという経験も、誰もがしたことがあるでしょう。自分の尊厳がないがしろにされるその経験は、私たちにとって最も辛いことの一つです。たとえば、ハラスメントの問題、あるいはカルトの問題も、この支配/被支配の問題と密接につながっています。
イエスさまがなさっていたことは、それら他者を支配しようとする力を「追い出す」ということでした(=悪霊追放)。その否定的な力を追い出し、おのおのに自由と主体性を取り戻そうとくださった。個々人に自由と主体性を取り戻し、尊厳を取り戻すための働き、それが、福音書が記すイエス・キリストの「悪霊追放」の出来事であるのだと本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。
聖霊の力によって
本日の聖書箇所では、イエスさまの「悪霊追放」を目の当たりにし、驚いた群衆が《この人はダビデの子ではないだろうか》(23節)と言ったのに対して、ファリサイ派の一部の人々が、《悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない》(24節)と言う場面が記されています。イエスは悪霊の親玉(ベルゼブル)に取りつかれており、だから人々から下っ端の悪霊を追い出すことができるのだというのですね。もちろん、それは事実とは異なるものでした。ファリサイ派の一部の人々は、イエスさまを貶めようとしてそう言ったのでしょう。
イエスさまは彼らの考えを見抜いておっしゃいました。《どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。/サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。/わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。/しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ》(25-28節)。
どんな国でも内輪で争えば成り立たないように、悪霊同士が内輪で争えば、成り立たってゆかない。すなわち、悪霊が悪霊を追い出すなどあり得ない、とイエスさまはファリサイ派の人々の言葉をきっぱり否定されました。
では、イエスさまは何の力によって、悪霊を追い出しておられたのでしょうか。それは、「神の霊(聖霊)」の力です。28節《わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ》。イエスさまは悪霊ではなく、聖霊によって、悪霊を追い出しておられたのです。
先ほど、個々人に自由と主体性を取り戻し、尊厳を取り戻すための働きが「悪霊追放」の出来事であると述べました。その働きをもたらす力、それが、聖霊の力であると受け止めることができます。
このことから、悪霊と聖霊は、まさに対照的な力であることが分かります。悪霊が「私たちを支配しコントロールしようとする否定的な力」であるとすると、聖霊は「その否定的な力を追い出し、私たちに自由と主体性を取り戻してくださる神の力」です。
《神の国はあなたたちのところに来ている》
28節の後半に、《神の国はあなたたちのところに来ている》という言葉がありました。イエスさまが聖霊によって悪霊を追い出しているのであれば、神の国は私たちのところに来ている。
神の国は、原語のギリシア語では「神のご支配」「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神の力、神の権威、またそして、神の願いが満ち満ちている場所が、神の国です。悪霊を追い出すことによって、この神の国がいま到来しているのだとイエスさまはおっしゃいました。
人が人を支配しコントロールしようとする否定的な力が追い出され、一人ひとりの尊厳が取り戻される時、一人ひとりがかけがえのない存在として重んじられるその時、そこに神の国は到来するとイエスさまはおっしゃってくださいました。そしてそのことを可能としてくださるのが、神の力、聖霊の力です。
イエスさまは聖霊に対する冒涜を見過しにはなさらない
イエスさまはおっしゃいました。《だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。/人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない》(31、32節)。
人が犯すどんな罪や冒涜もゆるされるが、聖霊に対する冒涜はゆるされない。これは、どういう意味でしょうか。これも、様々な読み取りが可能な、解釈が難しい言葉の一つです。「一人ひとりに自由と主体性を取り戻し、尊厳を取り戻してくださる聖霊のお働きを冒涜することはゆるされない」と本日はご一緒に受け止めたいと思います。言い換えますと、他者の尊厳をふみにじる行為は、聖霊のお働きを冒涜し、それに逆らうものであるのです。
「赦される」と訳されている言葉は、原語では「そのままにしておく」という意味も持っています。「赦されない」とは、言い換えますと、「容認しない」「見過しにはしない」ということです。イエスさまは、私たちの尊厳がないがしろにされている現実があるのならば、決してそれを見過ごしにはなさらない。その現実に対峙し、私たちに尊厳を取り戻すべく働いてくださる方です。
イエスさまはいまも私たちと共におられ、聖霊に対する冒涜が決してそのままにされないよう、共に働いてくださっています。神の国をこの地にもたらすため、働き続けてくださっています。このイエスさまのお働きに、私たちもまた参与してゆけますようにと願います。