2025年3月23日「自分の十字架を背負って」
2025年3月23日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ヨブ記1章1-12節、ペトロの手紙一4章12-19節、マタイによる福音書16章13-28節
地下鉄サリン事件から30年
先週の3月20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件から30年を迎えました。東京の地下鉄(千代田線、丸ノ内線、日比谷線)の複数の車両内に化学兵器サリンがまかれ、14人が死亡し、6000人以上が重軽傷を負うというこの事件は、私たちの社会に計り知れない衝撃を与えました。
この事件が起こったとき、私は小学5年生でした。1月17日に起こった阪神・淡路大震災と共に、この地下鉄サリン事件は私の心にも強烈に刻み込まれています。オウム真理教の事件の影響もあり、私と同世代の人は、宗教とは「怖いもの」「危ないもの」というイメージを持つようになった人が多いように思います。
小学生だった私には事件の詳細までは分かりませんでしたが、その後、成人してからオウム真理教による一連の事件を調べたり、地下鉄サリン事件の被害者および遺族の証言を集めた村上春樹さんの『アンダーグラウンド』(講談社文庫、1999年)を読んだりし、オウムによる事件の類を見ない残虐性、規模の大きさに改めて戦慄を覚えました。地下鉄サリン事件によって14人が亡くなり、6000人が負傷した――その人数の多さに私たちはまずショックを受けますが、そこに、一人ひとりのかけがえのない人生があったことを思います。かけがえのない人生が、事件を境に奪われてしまった。または、大きく変えられてしまった。亡くなった方のご家族、体に重い後遺症が残った方、心に癒されることのない傷を負った方、いまだ多くの人々が言葉で表せない苦しみを抱えつつ生きていることと思います。
村上春樹さんは『アンダーグラウンド』の序において、「まず想像していただきたい」と読者に呼びかけます。《ときは一九九五年三月二〇日、月曜日。気持ちよく晴れ上がった初春の朝だ。まだ風は冷たく、道を行く人々はみんなコートを着ている。昨日は日曜日、明日は春分の日でおやすみ――つまり連休の谷間だ。あるいはあなたは「できれば今日くらいは休みたかったな」と考えているかもしれない。でも残念ながらいろんな事情で、あなたは休みをとることはできなかった。
だからあなたはいつもの時間に目を覚まし、顔を洗い、朝食をとり、洋服を着て駅に向かう。そしていつものように混んだ電車に乗って会社に行く。それは何の変哲もない、いつもどおりの朝だった。見分けのつかない、人生の中のただの一日だった。
変装した五人の男たちが、グラインダーで尖らせた傘の先を、奇妙な液体の入ったビニールパックに突き立てるまでは……》(『アンダーグラウンド』、31、32頁)。
なぜこのような事件が起こってしまったのか、私たちの社会は、なぜこのような破壊的カルト宗教・テロ組織が生まれることをゆるしてしまったのか。松本智津夫元死刑囚をはじめ、元幹部たちの死刑はすでに2018年執行されてしまいました。いまだ様々なことが解明されないままに、事件を首謀した人たちは社会から葬られてしまいました。私たちはこのオウム事件を「終わらない問い」として考え続けることが求められていると思います。
元信者の男性の言葉
作家の村上春樹さんが『アンダーグラウンド』に引き続いて出版した『約束された場所で underground 2』(文春文庫、2001年)という本があります。オウム真理教の信者(元信者)にインタビューをし、それを文章に構成し直したものです。同書では8名の信者(元信者)の方々のインタビューが収録されています。その中に、次のような言葉がありました。地下鉄サリン事件が起こる少し前に教団の運営方針を批判し、上九一色村の独房に閉じ込められたが、身の危険を感じ脱走したという元信者のある男性の言葉です。
《…松本(注:松本智津夫元死刑囚)がやっているのは簡単にいえば、「自己」と「煩悩」の同一化です。エゴをなくすためには、自己も一緒になくしなさいと言っているわけです。人間は結局「自己」を愛するからこのように苦しむのであって、その「自己」を捨ててしまえば、そこに光輝く自分自身があるのだと。これは仏教の教えとはまったく異なっています。一種の価値のすげ替えです。自己とは見いだすべきものであって、捨て去るべきものではないのです。地下鉄サリン事件のようなテロ犯罪は、こういう安易な自己喪失プロセスから生まれてきたものだと私は思います。自己が失われれば、無差別殺人やテロに対して人は無感覚になってしまうんです。
結局オウムのやっていたのは、煩悩の根源的な解決の道をつけるというよりは、自己を捨てて、言われたとおりに従順に動く人間を作ることなのです。ですからオウムの成就者とは、要するに「オウムの色に完全に染まった」人のことであって、真理を体得できた本当の「解脱者」ではありません。現世を捨てて出家したはずの信者が、「救済」という名のもとにお布施集めに狂奔しているなどというのは、まさに倒錯です》(『約束された場所で』、135、136頁)。
ここで元信者の男性は、自己をなくすことの危険性を強調しています。仏教は煩悩をなくすことを教えているが、自己を捨てろとは言っていない。自己とは見いだすべきものであって、捨て去るべきものではない。しかし松本元死刑囚は自己と煩悩を同一化し、自己を捨てるよう教えていた。それは、オウムの色に完全に染まった、言われたとおりに従順に動く人間を作るためであった、と。オウム真理教の問題、またカルト宗教問題を考える上で、重要な指摘だと思います。オウム真理教に関しては、チベット密教が説く「グル(師)への絶対的な帰依」の教えも大きく影響しているでしょう(参照:島田裕巳『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』、2007年、亜紀書房)。しかし、キリスト教も、このような教え――他者の人権を侵害する教え――に逸脱してしまう危険性を常に持っているのではないでしょうか。
《自分を捨て》……!?
たとえば、本日の聖書箇所の中に、次のイエス・キリストの言葉がありました。《わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》(マタイによる福音書16章24節)。《自分を捨て》、と語られています。文字通りに受け止めると、ここでイエスさまは私たちに「自己を捨てる」よう教えていると解釈することもできます。これまでのキリスト教の歴史において、実際そのように解釈されてきたこともあったでしょう。この言葉をいまを生きる私たちはどのように受け止めれば良いでしょうか。
本日は、この《自分を捨て》という言葉を、「自分の想いを手放して」という意味に受け止めてみたいと思います。どのような自分の想いを手放してゆくのか、それは「他者の期待に応えようとする想い」であり、「他者に期待を押し付けようとする想い」です。それら想いを手放してゆくことが呼びかけられているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。そのためには、「自己を捨て去る」のではなく、むしろ、「自己を見出してゆく」こと、「自分の気持ちを大切にしてゆく」ことが不可欠です。
「自分がどうしたいか」を大事にすること
私たちは人から期待を押し付けられることもありますし、人に期待を押し付けてしまうこともあります。自分の気持ちを犠牲にして、相手の期待に応えようとしてしまうことも多々あるでしょう。
「他者の期待に応え続けること」が自分の生き方になってしまった時、私たちは心の奥底で大きな苦しみを感じることになるでしょう。自分の気持ちが犠牲にされ、「自分がどうしたいか」ということが失われているからです。自己を捨て去り、他者の期待に応え続けようとする生き方は、私たちにとってとても辛いものでありましょう。
「自分がどうしたいか」を大事にすることは、決して我がままなことではありません。「自分がどうしたいか」を尊重することができたとき、私たちは「人がどうしたいか」も尊重することができるようになってゆくのではないでしょうか。
先ほどのオウム真理教の元信者の方のインタビューの中に、《オウムの成就者とは、要するに「オウムの色に完全に染まった」人のこと》という言葉がありました。それは言い換えると、「自分を捨て去り、教祖である松本元死刑囚の期待(身勝手な願望や欲望)に完全に応えようとする人」と言うことも出来るでしょう。このように自己を喪失した状態が大変危険な状態であることは言うまでもありません。元信者の男性が指摘していた通りです。《地下鉄サリン事件のようなテロ犯罪は、こういう安易な自己喪失プロセスから生まれてきたものだと私は思います。自己が失われれば、無差別殺人やテロに対して人は無感覚になってしまうんです》。
《自分の十字架を背負って》
イエスさまは周囲の期待にご自分の生き方を合わせることをなさいませんでした。ご自分に向けられる期待がどれほど強いものであっても、大切な弟子からのものであっても、それらの期待に自分の生き方を合わせることはなさいませんでした。毅然として、自分の歩むべき道――十字架と復活の道――を歩んでゆかれました。福音書は、「人の期待に自分を合わせる生き方をなさらなかった」イエス・キリストのお姿を私たちに指し示しています(マタイによる福音書16章21-23節)。
改めて、イエスさまの言葉を読んでみましょう。《わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》。
ここでの《自分を捨て》とは、「自分の想いを手放して」ということでした。他者の期待に応えようとする想いを手放し、他者に期待を押し付けようとする想いを手放してゆくこと。そのためには「自分がどうしたいか」を大切にすることが必要であることをお話ししました。
イエスさまは続けて、《自分の十字架を背負って》とおっしゃっています。この言葉も様々な解釈ができる言葉です。重要だと思うのは、イエスさまが私たちのまなざしを「自分自身」に向けるよう促してくださっている点です。あの人が、ではなく、この人が、でもない。他ならぬ、「この私」のあり方、生き方が問われています。《自分の十字架》とは、私たち一人ひとりに与えられている重荷であると同時に、何らかの使命であると受け止めることができるでしょう。
自分の心を大切にすることを通して、神さまの御心と出会う
この使命は、私たちの心の深くに宿された願いから生じています。私たちは自分の心の奥に宿された願い、自身の本当の気持ちを知ることを通して、与えられた使命をも理解してゆきます。「自分がどうしたいか」「心から何を願っているのか」を見出すことを通して、私たちは自分がなすべき役割や使命についてもより深く理解してゆくのです。《自分の十字架》を担うことができるのは、自分自身だけです。誰も、何者も、この十字架を私たちから取り上げることはできず、代替することもできません。
もしかしたら、その《自分の十字架》を担おうとする日々の中で、様々な苦しみに出会うことがあるかもしれません。しかしその苦しみもまた、私自身のものです。
そして、苦しみの中にあっても、それでもなお、私たちの心の奥底にまことの願いは燃え続けていることを私たちは知っています。このまことの願いは、最も深きところではすべての、一人ひとりの願いとつながっています。イエス・キリストの願い、神さまの愛とつながっているのだと信じています。
キリスト教は「神の御心(願い)が大事」だと伝えます。それは確かにその通りです。ただし、これからの私たちは、もはや自分の心を犠牲にして神の御心を尋ね求めるのではなく、自分の心を大切にすることを通して、神さまの御心と出会ってゆくようにと招かれています。
どうぞ私たちが他の誰のものでもない《自分の十字架》を担って、自分自身の人生を一歩一歩、歩んでゆくことができますように願います。