2025年3月9日「荒れ野の誘惑」

202539日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:申命記301520節、ヤコブの手紙11218節、マタイによる福音書4111

荒れ野の誘惑

 

 

大船渡市山林火災

 

この度の大船渡市の山林火災について、皆さんの大変心を痛めていらっしゃることと思います。約2900ヘクタールが焼失するという、大変な被害となりました。現在は延焼は確認されておらず、六つの地域において避難指示が解除されていますが、鎮火には至っていません。いまもなお多くの方が避難生活を続けています。大船渡教会に一時避難をしていた「さんりく・こすもす」の皆様は施設とご自宅に戻られているということです。

 どうぞ一刻も早く鎮火に至りますように、避難生活をしている方々の安全と健康が守られますように、引き続き、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。また私たちもこの度の災害を受け、自分にできることを祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

東日本大震災14年を覚えての礼拝

 

来週の311日、私たちは東日本大震災と原発事故から14年を迎えます。震災と原発によって亡くなられた方々を思い起こし、また、いまも困難の中にいる方々のためにご一緒に祈りを合わせたいと思います。大船渡の山林火災によって避難をしている方々の中には、東日本大震災で被災した方も多くいらっしゃいます。また1960年のチリ地震を合わせると、三度の避難を経験した方もいらっしゃるとのことです。

本日の午後2時半からは、秋田地区の秋田高陽教会を会場にして東日本大震災14年を覚えての礼拝がささげられます。私も礼拝後、秋田高陽教会に向かい、礼拝に参加します。YouTubeでも配信いたしますので、会場に集えない皆さまはぜひご自宅からご参加ください。

 

 

 

受難節第1主日礼拝

 

先週の35日(水)より、教会の暦で「受難節」に入っています。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす期間です。受難節はイースター前日の419日(土)まで続きます。本日はご一緒に受難節第1主日礼拝をおささげしています。

 

 受難節は「四旬節」とも呼ばれます。四旬とは40日を意味する言葉です。受難節は正確には46日間ですが、日曜日を除くとちょうど40日間となります。「40」は、聖書の中で度々出て来る数字です。モーセとイスラエルの民がエジプトを出て荒れ野を旅したのは40年間でした(旧約聖書の『出エジプト記』より)。「荒れ野の40年」という表現もあります。

 

また、いまお読みしました本日の聖書箇所においても40日間という言葉が出て来ました。イエス・キリストは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、荒れ野にて40日間断食をし、悪魔から誘惑を受けられたことを福音書は記しています。悪魔がイエスさまに「石をパンに変えてみたらどうだ」と誘惑すると、イエスさまが「人はパンだけで生きるものではない(人はパンのみで生くるにあらず)」と聖書の言葉をもってその誘惑を斥けられる場面はよく知られているものですね。

このイエス・キリストの荒れ野での40日間が、受難節の由来の一つとなっています。私たちもまた荒れ野でのイエス・キリストのお姿に倣おうという意味が込めているのです。荒れ野でのイエスさまのお姿に倣うとは、イエスさまと同じように断食と祈りをもって過ごす、だけではなく、他者への愛に生きたイエスさまのお姿に倣うという意味を含んでいます。受難節のこの時、イエスさまのご受難を思い起こし、いま困難の中にいる方々のために、自分にできることを祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

荒れ野の誘惑

 

本日の聖書箇所であるマタイによる福音書4111節は、イエス・キリストが荒れ野で悪魔から誘惑を受けられる場面を描いています。新共同訳聖書では「誘惑を受ける」という小見出しが付けられています。この「誘惑」は「試練」とも訳することが出来る言葉です(原文のギリシャ語ではペイラスモス)2018年に出版された聖書協会共同訳では「試練」という訳語が使われています。聖書協会共同訳《さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。/そして四十日四十夜、断食した後、空腹を覚えられた》。誘惑と試練のどちらの言葉を用いるかで印象も少し異なりますね。

 

毎週礼拝の中でご一緒にお祈りしている主の祈り。主の祈りの中に《我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ》という祈りがあります。ここでの「こころみ」も同じ言葉が使われています(ギリシャ語のぺイラスモス)。「こころみ」とは、誘惑とも試練とも言い換えることができる言葉なのですね。

皆さんはどちらの表現がぴったりくるでしょうか。「私たちを試練に遭わせず、悪より救い出してください」、または、「私たちを誘惑に遭わせず、悪より救い出してください」。もちろん、この祈りは両方の意味を含んでいるのだと受け止めることができます。

 

試練というものは、「外から降りかかってくる」というイメージがありますね。対して、誘惑は「外からやって来る」ものであると共に、私たちの「内からやって来るもの」というイメージを伴っています。誘惑されるということは、私たちの内にもそれに惹かれ得る何らかの要素があることになります。誘惑という語を用いる場合、私たちは何かドキッとするものを感じるかもしれません。これらの意味合いを踏まえ、新しい翻訳では荒れ野の「誘惑」ではなく「試練」と訳しているのかもしれません。

 

大切なことは、試練と訳すにしろ、誘惑と訳すにしろ、イエス・キリストがそれを経験してくださったことです。私たちとまったく同じように、イエスさまはそのご生涯において試練・誘惑を受けられたことを福音書は証ししています。新約聖書のヘブライ人への手紙には次のような言葉があります。《事実、(イエス)御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです218節)、《この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです415節、新共同訳)

 

本日のメッセージでは、以後、試練と誘惑の両方の意味を含む言葉として「こころみ」という語を用いたいと思います。

 

 

 

《人はパンだけで生きるものではない》

 

40日間の断食を終え、空腹を覚えられたイエスさまに対して、悪魔は言いました。《神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ3節)。悪魔はイエスさまが「神の子」であることを認めていることが分かります。だからこそ、近づいて、こころみようとしているのです。

それに対し、イエスさまは聖書の言葉(申命記83節)を引用し、《『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある》と言って、悪魔のこころみを斥けられました。もちろん、私たちにとって日々の糧はとても大切です。イエスさまが教えてくださった主の祈りの中にも《我らの日用の糧を、今日も与えたまえ》という祈りがあります。一方で、私たちはパンだけで生きるものではない。私たちの日々の生活は、パンだけではなく、神さまの言葉によって生かされ支えられていることをイエスさまは宣言してくださいました。

 

 

 

私たち人間の立場から

 

本日の場面は非常に深い内容で、私たちは様々な意味をここから汲み取ることができます。様々な解釈が可能であることでしょう。本日は、イエスさまが私たち人間と同じ立場から答えてくださっているところに、大切な意味を見出してみたいと思います。悪魔は「神の子なら……」と問いかけたのに対して、イエスさまは「人はパンだけで生きるものではない」と、私たち人間の立場から答えてくださっています。

 

この場面で前提とされていることは、イエスさまが「神の子である」ということです。それは悪魔もはっきりと認めています。神の子であるイエスさまにとって、ここでは、どのようなことが「こころみ(試練・誘惑)」となり得るものであったのでしょうか。それは、「人の子(一人の人間)」として生きることから逆行し、超越的な「神の子」に戻ってしまうことが、ここでのイエスさまにとってのこころみであったのではないか、と本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。

 

本日の場面の直前には、イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面が記されています。イエスさまは神の御子であるにも関わらず、私たちとまったく同じように、ご自分を低くして、洗礼を受けてくださいました。そして本日の場面では、やはり私たちとまったく同じように、試練・誘惑を経験してくださっています。先ほど引用しましたヘブライ人への手紙にも書かれていた通りです。《事実、(イエス)御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです218節)

 

そのように、イエスさまは私たちと同じ一人の人間として生きることに徹してくださいました。イエスさまがこれから歩もうとされているのは、いわば、まったき人間になってゆく道です。そしてそのことを通して、私たちに救いをもたらす道、愛と命をもたらす道です。悪魔のこころみは、そのイエスさまの道を阻止しようとするものであったと受け止めることができます。イエスさまが歩もうとしている道を逆行し、超越的な「神の子」に戻ってしまうと、その後の宣教の旅も、そして、その先にある受難と十字架も起こり得ないことになってしまうでしょう。

 

 

 

「人の子(一人の人間)」として

 

悪魔は次に、イエスさまを聖なる都(エルサレム)に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、《神の子なら、飛び降りたらどうだ》と問いかけました。《『神があなたのために天使に命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある6節)。悪魔は今度は巧みに聖書の言葉(詩編911112節)を引用しています。その悪魔の誘いも、イエスさまは同じく聖書の言葉(申命記616節)をもって、はっきりと斥けられました。《『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある7節)。イエスさまはここで、やはり「神の子」としてではなく、「人の子(一人の人間)」として答えてくださっています。

 

最後に悪魔は、この世界のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、《もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう9節)と言いました。この最後の問いではもはや悪魔は聖書の言葉を引用することはしません。対して、イエスさまは最後まで聖書の言葉(申命記613節)を引用して、《退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』と書いてある10節)と答えてくださっています。最初から最後まで、私たち人間の立場から――神の言葉に生かされ支えられている私たちと同じ立場から、答えてくださっていることが分かります。イエスさまの言葉を受けて、悪魔は離れ去りました11節)

 

この荒れ野のこころみの後、イエスさまは公の活動を開始されることとなります。この荒れ野での経験は、イエスさまのご生涯においても、重要な出来事となったのではないでしょうか。この荒れ野でのこころみを通して、イエスさまはご自分が大切にしてゆきたいこと、ご自分がこれから歩もうとされている道を、再確認することができたのかもしれません。

 

 

 

神であった方が、「私たちと同じ人間となられた」

 

修行を積んで、あらゆる弱さを克服して「超人」となった存在が、イエス・キリストなのではありません。もともと神であった方が、「私たちと同じ人間となられた」――それが聖書の考え方です。神の子が、私たちと同じように弱さをもつ存在となってくださった。私たちと同じように、喜び、悲しみ、傷付き、涙する存在となってくださった。公の活動を始められる前には、荒れ野にて悪魔からこころみを受けてくださった。そのようにして、イエスさまは私たちといつまでも「共にいる」存在、「共に生きる」存在となってくださったのです。

 

 

最後に、ヘブライ人への手紙のみ言葉を引用いたします。《キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。/キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。/そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、/神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです5710節)