2025年4月27日「命の道」

2025427日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編16511節、使徒言行録132631節、マタイによる福音書281115

命の道

 

 

復活節

 

先週420日(日)、私たちはイースター礼拝をおささげしました。先週より、教会の暦で復活節の中を歩み始めています。本日は復活節第2主日礼拝をご一緒におささげしています。様々な困難が私たちの目の前にはありますが、よみがえられたイエス・キリストがいつも共におられることを信じ、この新しい年度もご一緒に歩んでゆきたいと願います。

 

 

 

フランシスコ教皇逝去(ご帰天)

 

イースターの翌日、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が逝去(ご帰天)されました。前日の20日のイースターにはサンピエトロ大聖堂に姿を現し、広場に集まった人々に「良い復活祭を」と呼びかけられました。88年のご生涯でした。これまでの教皇としての尊いお働きに感謝すると共に、教皇を天にお送りしていま悲しみの中にある全世界の皆さまの上に神さまの慰めを、特にカトリックの信徒の皆さまの上に神さまの慰めを祈ります。昨日26日の17時より、サンピエトロ大聖堂前の広場でご葬儀が執り行われました。

 

教皇フランシスコの本名は、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ。2013年に、南米出身者として初めてローマ教皇に選ばれました。フランシスコというお名前は、「貧しい人々の友」「大自然の友」となって生きたアッシジの聖フランシスコから取られています。

 

私たち日本に住む者の記憶にとりわけ深く刻まれているのは、2019年の教皇の来日ではないでしょうか。20191123日から26日にかけて、日本を訪問されました。教皇の来日は前教皇ヨハネ・パウロ2世の来日1981年)から38年ぶりの出来事でした。いま振り返りますと、コロナ・パンデミック201912月~)が起こる直前であったので、来日が可能となったと言えます。

教皇フランシスコは東京では東日本大震災の被災者の方々と面会をされました。また、広島と長崎を訪れ、核兵器廃絶の訴えを含む平和メッセージを発信されました。歴代の教皇の意志を受け継ぎ、教皇フランシスコも核兵器反対を訴え続けてこられました。

 

教皇が生前、深い想いを寄せられていたのが、原爆が投下された直後に長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」の写真です。皆さんもご存知のように、この写真は、アメリカ人の従軍カメラマンだったジョー・オダネルさんが原爆投下直後の長崎で撮影したものです。教皇は写真をカードにして、「戦争がもたらすもの」というメッセージを添えて配布をされました。

 

ウクライナ戦争とガザ戦争に対しても、教皇は一刻も早い停戦を訴えてこられました。教皇は逝去の2日前までほぼ毎日、ガザ地区の神父と連絡を取り、ビデオ通話を通して励まし、ガザの人々のために祈り続けておられたとのことです(読売新聞オンライン「ローマ教皇、死の2日前までほぼ毎日ガザへビデオ通話…住民一人ひとりの名を呼び励まし続ける」、https://www.yomiuri.co.jp/world/20250426-OYT1T50025/

 

 

 

《出向いて行く教会》

 

教皇フランシスコは教会の改革・刷新、私たち教会も変わってゆかねばならないことも訴えてこられました。その中で、教皇が大切なこととして語られたのが「出向いて行く教会」ということです。私たち一人ひとりは、自分にとって快適な場所から出て行って、社会的に弱い立場に追いやられているすべての人々に福音の光を届けるべく、「行きなさい」と神さまから呼びかけられているのだ、と(教皇フランシスコ『使徒的勧告 福音の喜び』、日本カトリック新福音化委員会訳・監修、カトリック中央協議会、2014年、28頁)

 

教皇の言葉を引用いたします。《出向いて行きましょう。すべての人にイエスのいのちを差し出すために出向いて行きましょう。(略)わたしは、出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。中心であろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません。わたしたちが憂慮し、良心のとがめを感じるべきは、多くの兄弟姉妹が、イエス・キリストとの友情がもたらす力、光、慰めを得られず、また自分を迎えてくれる信仰共同体もなく、人生の意味や目的を見いだせずに生きているという事実に対してです。過ちを恐れるのではなく、偽りの安心を与える構造、冷酷な裁判官であることを強いる規則、そして安心できる習慣に閉じこもったままでいること、それらを恐れ、その恐れに促されて行動したいと思います。外には大勢の飢えた人がいます。そして、イエスは倦むことなく、たえず教えておられるのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(マルコ637)》(同、5152頁)

 

「出向いてゆく教会」、私たちも改めてこの言葉を思い起こしたいと思います。

 

 

 

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい

 

 マタイによる福音書の最後には、復活されたイエス・キリストの次の言葉が記されています。イエスの宣教命令と呼ばれる言葉です。《わたしは天と地の一切の権能を授かっている。/だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、/あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる281820節)

 

 ここで、《だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい》と語られていますね。よみがえられたイエスさまは弟子たちに、「行きなさい」と呼びかけられました。教皇フランシスコも「出向いて行く教会」について語るとき、その根拠として第一に引用されたのが、このイエスさまの宣教命令でした(同、27頁)。《あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、/あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい》。

 

 いまを生きる私たちは、このイエスさまの宣教命令を、キリスト教を伝道するという意味においてだけではなく、より広い意味で受け止めることもできるでしょう。イエス・キリストの愛と命を分かち合い、すべての人と「共に生きてゆく」ために、私たちは「行きなさい」と呼びかけられているのだ、と。外に「出向いてゆく」ことは、他者と「共に生きる」こととつながっているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》

 

 よみがえられたイエスさまは「行きなさい」と呼びかけられた後、次の言葉を続けられます。《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》。マタイ福音書の最後をしめくくる、イエスさまの言葉であり、マタイ福音書全体が伝えるメッセージです。

 

 私たちが出向いてゆくとき、イエスさまも共に出向いてくださる。私たちがどこにいても、イエスさまが共にいてくださる。私たちと共に生きてくださる。神さまの約束の言葉「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」はいまも、これからも、イエスさまを通して実現されています。

 

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》。この言葉は、原文のニュアンスを生かして訳し直すと、「世の終わりまでのすべての日々、私があなたがたと共にいる」となります。世の終わりまでのすべての日々、イエスさまは共にいてくださる。よみがえられたキリストご自身が私たちと共に生きてくださる。だから、私たちは独りなのではありません。

 

 

 

イエス・キリストの復活を否定しようとする人々

 

 先週のイースター礼拝では、女性たちが復活したイエスさまと出会う場面をご一緒に読みました(マタイによる福音書28110節)。本日の聖書箇所281115節)はその続きです。

 

 イエスさまと再会を果たした女性たちは、「ガリラヤで会おう」というイエスさまからの伝言を携え、弟子たちのもとへ走ります。彼女たちが弟子たちのもとに行きつかないうちに、墓の番をしていた兵士たちはこの度の出来事を祭司長たちに報告します。兵士たちは天使が現れた際、恐ろしさのあまり気を失ってしまっていました。ですので、兵士たちは「イエスさまが復活した」という天使の知らせも聞いていないし、復活したイエスさまご自身にも出会ってはいません。目が覚めて彼らが確認したのは、「墓の中が空になっている」という事実でした。墓の番を務める兵士にとってこれは、責められるべき大きな過失となり得ることであったでしょう。

 

 兵士たちの報告の受けた祭司長たちは長老たちと相談をし、兵士たちに多額のお金を与えて、言いました。《『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。/もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」/兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている1315節)

 

 祭司長たちは、兵士たちの過失を見逃す代わりに、「弟子たちが夜中にやって来て、遺体を盗んで行った」という虚偽の情報を広めるよう勧めたのです。口封じとして多額のお金も渡して。兵士たちはお金を受け取って、教えられたとおり、偽りの情報を流布しました。いまの言葉で言うと、いわゆるフェイクニュースですね。「墓の中が空になっていたのは、イエスの弟子たちが夜中に遺体を盗んで行ったから」という嘘のニュースは瞬く間に人々の間に拡がり、マタイ福音書が記された当時(イエス・キリストの死から5060年後)もユダヤの人々の間に浸透していた話であったようです。

 

 以上のように、本日の聖書箇所では、イエス・キリストの復活を否定する人々の姿が記されています。前回の、イエス・キリストの復活を信じ、復活のキリストとの出会いを果たした女性たちの姿とは対照的です。マタイ福音書は復活の喜びを携えて走ってゆく女性たちと、復活を否定し偽りの情報を広めようとする人々とを対比して描いています。この記述からも、イエス・キリストが復活してすべての問題が解決したわけではなく、問題は問題として残り続けていることが分かります。

 

イエス・キリストの復活の出来事を受けて、これから教会が誕生してゆくわけですが、一方で、復活を否定しようとする権力者たちの不穏な動きも続いてゆきます。実際、その後、弟子たちは様々な誹謗中傷、迫害、投獄などの苦難を経験してゆくこととなります。イエス・キリストのご復活によってすべてが解決したわけではなく、社会に内在する問題は問題として残り続けてゆくのです。

 

 

 

キリストの愛と命を分かち合い、「共に生きてゆく」ために

 

 本日の場面を踏まえた上で、マタイ福音書が最後に記すのが、先ほどお話したイエスさまの宣教命令の言葉です。《わたしは天と地の一切の権能を授かっている。/だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、/あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》。

 

 たとえ問題は問題として残り続けているのだとしても、目の前には様々な困難があるのだとしても、弟子たちは「行きなさい」というイエスさまの呼びかけに従ってゆきました。そうして新しく、キリストの教会が誕生してゆきました。そのように、弟子たちが勇気を持って世界へと出向いてゆくことができたのは、よみがえられたイエスさまがいつも共にいてくださることを信じていたからではないでしょうか。

 

 イエス・キリストの愛と命を分かち合い、「共に生きてゆく」ために、私たちも出向いてゆきたいと思います。たとえ課題や問題が山積みでも、いまだ先のことが見えなくても、インマヌエルなる主はいま、私たちと共にいてくださいます。

 

 教皇フランシスコが語るように、外に出て行ったことで、私たちは時に思わぬハプニングに遭ったり、傷を負ったりすることもあるかもしれません。出て行くことで、綺麗だった服や靴もいつしか汚れて、ボロボロになってゆくでしょう。共に生きようとすることで、時に、摩擦や衝突が起こることもあるでしょう。共に生きる中で、また新たな問題が生じてしまうこともあるでしょう。それらも全部含めて、「共に生きる」ということなのではないでしょうか。課題や問題がありつつも、共に助け合い、支え合いながら生きること。いま痛む傷があるのなら、それはあなたが懸命に共に生きようとした証しであるのかもしれません。

そして、共に生きようとするとき、よみがえられたイエス・キリストも私たちと共にいてくださいます。イエスさまは私たちの喜びも悲しみもすべてご存知です。イエスさまは私たちと共に喜び、私たちと共に泣いてくださる(ローマの信徒への手紙1215節)方です。ですので、決して私たちは独りなのではありません。

 

 

「行きなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」――イエスさまの言葉を信じ、イエスさまが示される愛と命の道をご一緒に歩んでゆきたいと願います。