2025年4月6日「仕えられるためではなく仕えるために」
2025年4月6日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編118編1-9節、ローマの信徒への手紙8章1-11節、マタイによる福音書20章20-28節
本日は2025年度の最初の礼拝です。この新しい年度の上に神さまのお導きがありますようご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。また、この4月から新しい地で、新しい環境で生活を始めている皆さまの上に、神さまの祝福が豊かにありますようお祈りしています。
私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節は、イエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす期間です。受難節のこの時、イエス・キリストのお苦しみに想いを馳せ、隣り人の苦しみに心を開いてゆきたいと思います。
3月28日に発生したミャンマーの大地震から9日が経過しました。ミャンマーとタイの首都バンコクにおいて、甚大なる被害が報告されています。どうぞいま困難の中にある方々に必要な支援が行き渡りますように願います。この度の地震を覚え、引き続き、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。
サーバント・リーダー
皆さんは「サーバント・リーダー」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。日本語にすると、「仕える指導者」です。アメリカのロバート・K・グリーンリーフ(1904~1990年)という方によって、1969年に初めて提唱され、以来多くの人々によって支持され、発展させられてきた考え方です(参照:ロバート・K・グリーンリーフ『サーバントリーダーシップ』Kindle版、金井壽宏監訳、金井真弓訳、英知出版、2014年)。
このサーバント・リーダーの特徴は、「サーバント(仕える人)」と「リーダー(導く人)」という、一見相容れないように思える言葉が組み合わされている点です。率先して人々に奉仕をしつつ、同時に人々をより良い在り方へと導いてゆくのがサーバント・リーダーシップです。権威的に相手を従わせるのではなく、人々に奉仕するその姿勢を通して、導き手としての信頼も育んでゆくタイプのリーダーシップです。
皆さんは「リーダー」と聞くと、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。皆をぐいぐいと引っ張っていってくれる、頼もしい、力強いリーダー像を思い浮かべる人もいらっしゃるかもしれません。テレビをつけると、様々な指導者・リーダーたちの顔が画面に映し出されます。中には、過剰に「強さ」をアピールする指導者や、権威や力によって人々を従わせようとする指導者もいます。リーダーシップの危機が叫ばれ、まことのリーダーシップとは何かが問われている昨今、このサーバントリーダシップ(仕える指導者像)の考え方は、私たちの社会おいて、よりその重要性を増してきているのではないでしょうか。
《仕えられるためではなく仕えるために》 ~サーバント・リーダーシップの模範としてのイエス・キリスト
サーバント・リーダーシップの模範として、多くの人が頭に思い浮かべるのが、イエス・キリストでありましょう。実際、この言葉を提唱したロバート・K・グリーンリーフさんはクリスチャン(クエーカー教徒)でした。サーバント・リーダーシップの考え方と聖書の言葉とが深いつながりがあることは多くの人によって指摘されています。グリーンリーフさん自身はヘルマン・ヘッセの小説から「サーバント・リーダー」の直接のインスピレーションを得た(同、44-46頁)とのことですが、この考え方と聖書の教えとが深く共鳴し合っていることは確かなことでありましょう。
福音書は、すべての人の上に立つ存在であるはずの神の子イエス・キリストが、すべての人に「仕える」存在になってくださったことを語っています。イエスさまは社会的に弱い立場に追いやられた人々を自らお訪ねになり、その痛みに寄り添い、癒しと解放へと導いてくださいました。言葉だけではなくその生き方を通して、サーバント・リーダーシップの模範を私たちに示してくださいました。
本日の聖書箇所であるマタイによる福音書20章20-28節の中に、次のイエス・キリストの言葉がありました。《あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。/しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、/いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい》(25-27節)。
あなたがたの中で偉くなりたい人は、皆に仕える人になりなさい。一番上になりたい人は、すべての人の僕になりなさい、とイエスさまはおっしゃいました。まさに、サーバント・リーダーシップの精神を言い表している言葉ですね。
弟子たちにそう教えられたイエスさまは、続けておっしゃいました。《人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように》(28節)。
《人の子》とはイエスさまご自身のことです。イエスさまご自身が、《仕えられるためではなく仕えるため》に私たちのもとへ来てくださったことが語られています。またそして、ご生涯の最期、十字架の上で、私たちすべての者のためにご自分の命をささげるために来てくださったことが語られています。
アジア学院とサーバント・リーダーシップ
本日は、アジア学院のボランティアの皆さまがご一緒に礼拝に参加してくださっています。アジア学院は那須塩原市にある、アジア、アフリカなどのいわゆる開発途上国と呼ばれる国々の農村指導者を招いて、指導者育成を行う専門学校です。学生(participants参加者)数は30名ほど。「共に生きるために」を学院のモットーに、学生、職員、ボランティアの皆さんが共同生活をしておられます。2011年の東日本大震災では大きな被害を受けましたが、国内外からのたくさんの支援が寄せられ、2012年から2015年にかけて主要な建物のすべてが新しいものに建て替えられました(参照:荒川朋子先生『共に生きる「知」を求めて――アジア学院の窓から』(ヨベル、2023年)。
わたしもちょうどこの2月に、アジア学院を会場に開催された、日本基督教団伝道委員会主催「農村伝道に関する協議会」に参加してきたところでした。
アジア学院の生活と学びは三つの柱から構成されており、その一つが「サーバント・リーダーシップ」です。アジア学院の皆さまはまさに、さきほどお話したサーバント・リーダーシップを大切にし、日々実践に努めようとしていらっしゃるのですね。この3月まで校長を務めていらっしゃった荒川朋子先生の言葉を引用いたします。ある年の卒業式の式辞において、荒川先生は先ほどのマタイ福音書20章25-28節を選び、次のようにお話をされました。
《これは聖書の中でも大変有名な箇所でありますが、最も実践が難しい教えのひとつであるかもしれません。語られている言葉は何も難しいことではないのに、上に立つものが僕になって仕えるという逆転の発想はなかなか人間社会では受け入れられず、浸透しません。ところがアジア学院に来る草の根のリーダーたちはこの逆転のリーダーシップの真意を一瞬にして理解するようであります。これこそが弱者を強め、困難に直面した人々が持てる能力を最大限に発揮できるような、公正で平和な社会を築くために必要なリーダーシップであると確信します。私たちはこのサーバント・リーダーシップを象徴する、イエス・キリストが弟子の足を洗う姿を描いた絵を毎日チャペルの中で目にし、この姿を自然にまた喜びを持って頭に焼き付けながら生活をしてきました(同、25、26頁。2015年 卒業式 式辞『サーバント・リーダー――人に仕える指導者として生きる皆さんへ』)。
荒川先生の式辞で語られているチャペルを、私も訪ねました(スクリーンに映しているのが、チャペルの写真です)。「オイコスチャペル」と呼ばれ、100年前の農家の古民家を改装した礼拝堂であるとのことです。このチャペルの特徴は、講壇が、建物で一番低い位置にある造りになっている点です。講壇の周囲はゆるやかな階段状になっており、メッセンジャーは一番低い位置から、いわば聴衆を見上げるようにしてお話をします。この建物の造りにも、サーバント・リーダーシップへの想い、人々に仕えたイエス・キリストを模範とする想いが込められているとのことでした。
弟子たちの足を洗われたイエス・キリスト
荒川先生はこのチャペルで毎日、飾られた弟子の足を洗うイエス・キリストの絵を目にしていたと語られています。イエス・キリストが弟子たちの足を洗われた場面も、イエスさまのサーバントリーダシップ(仕える指導者像)を象徴する箇所だと言えるでしょう。
イエスさまは主イエスが十字架におかかりになる前の晩、夕食の席にて、弟子たちの足を洗ってくださいました(ヨハネによる福音書13章1-20節)。他者の足を洗う行為は、「人に仕える」ことを象徴する行為です。足というのは当然、体の中でもっとも低い位置にある部分です。その足を洗うためには、相手よりもさらに低く身をかがめなければなりません。相手の足が、自分の目線のすぐ前に来ることになります。神の御子であるイエスさまがそのように、自らご自分の身を低くし、仕える者となってくださったことを福音書は証しています。
イエスさまは弟子たちの足をお洗いになった後、おっしゃいました。《……主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。/わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである》(ヨハネによる福音書13章14、15節)。
私があなたがたの足を洗ったように――私があなたがたに仕えたように、あなたがたも互いに仕え合わなければならない。そのようにイエスさまは教えてくださいました。
十字架と神の愛
この洗足の出来事の後、イエスさまは受難の道を歩まれます。十字架の道を歩まれます。
イエスさまが弟子たちの足を洗ったその行為は、十字架ともつながっているものでした。
弟子たちがその後、はっきりと理解したこと、それは、この足を洗う行為は、「人に仕える」ことを教える行為であると共に、イエスさまの「十字架」を指し示す出来事でもあったということでした。
イエスさまの十字架は、高い所から私たちを見下ろしているものであるというよりも、むしろ、低い場所から私たちを支えているものです。足が私たちの体全体を支えているように、イエス・キリストの十字架は私たちの存在を最も深き場所から支えてくださっています。私たちの存在を根底から支え、生かしてくださっているのがキリストの十字架であり、その十字架において現わされている神さまの愛です。
人に仕える姿勢の根底にあるもの、キリストの十字架の根底にあるもの、それは神さまの愛であることを本日はご一緒に心に留めたいと思います。私たちをあるがままに愛し、生かし、支えてくださっている神の愛です。この神さまの愛に生かされ、神さまの愛に支えられ、私たちは日々新たに「仕える者」へと変えられてゆきます。
《わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》
ヨハネによる福音書の洗足の出来事の後には、イエスさまが新しい掟を与えられる場面が続きます。《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。/互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる》(13章34、35節)。
互いの足を洗い合うことは、言い換えますと、互いに愛し合うことです。イエスさまが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うこと――互いをかけがえのない存在として受け止め合い、大切にし合うこと――のその具体的な実践が、互いの足を洗い合うこと、互いに仕え合うことなのだと受け止めることができるでしょう。
私たちがそのように互いを尊重し合うことを通して、私たちがキリストの弟子であることを皆が知るようになるとイエスさまはおっしゃいました。
どうぞ私たちが神さまの愛に根ざし、互いをかけがえのない存在として受け止め合い、大切にし合うことができますように。人を愛し人に仕えたイエスさまのお姿に倣い、私たちもまた互いに愛し合い、仕え合うことによって、この地に正義と平和を実現してゆくことができますように、ご一緒にお祈りをおささげしましょう。