2022年1月23日「新しい教え」

2022123日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:申命記301115節、ペトロの手紙一1312節、マルコによる福音書12128

新しい教え

 

 

大分県と宮崎県で震度5強の地震、オミクロン株の感染拡大

 

昨日の未明、日向灘を震源とする地震が発生し、大分県と宮崎県の一部の地域で震度5強、熊本県と高知の一部地域で震度5弱の揺れが観測されました。今後1週間は、さらなる余震に注意が必要とのことです。南海トラフ地震とのつながりも心配されますが、どうぞ一人ひとりの安全が守られますよう祈ります。また私たちも改めて防災の備えをしてゆきたいと思います。

 

全国的にオミクロン株の感染が拡大しています。感染者数は全国で連日、過去最多を記録しています。花巻市でも感染者が増加しており、皆さんの中にも不安を覚えている方もいらっしゃると思います。いま療養中の方々の上に、感染が判明して不安の中にいる方々の上に、主の守りがありますよう祈ります。

 

オミクロン株をどのように受け止めるかは個々人で相違があり、その対応の仕方にも、様々な意見があることでしょう。この度の変異株は感染力が強いと同時に、多くの場合は感染しても無症状か軽症であることが報告されています。実際には、検査で確認されている人数よりはるかに多くの人がすでに感染しており、ただし無症状であるので、感染自体が明らかになっていないのでしょう。感染のピークを迎えた後は、急速にその波が下がってゆくことが予想されます。

感染の波が高まっているいまの状況では、誰しも感染し得るのが当然のことであり、感染が明らかになったとしても、過度に不安になることなく、心落ち着けて対処できればと思います。もちろん、重症化リスクのある方は十分に気をつけ、適切な治療を受ける必要があります。

感染したことを非難したり、互いに責め合ったりすることがあってはならないのはもちろんのことです。感染したことについて、自らを責める必要もありません。感染は自然現象です。ウイルスは人から人へと移動して、ただおのれを増殖させて存続しようとしているだけで、私たち生き物はその通り道になっているのです。感染した人はたまたま、その通り道に選ばれただけであり、そのことについてまったく非はありません。

 

「コロナが収束する」とは、具体的にどのような状況を指すのか。それは、「ウイルスがゼロになる」ことではなく、「他の風邪と同じような季節性ウイルスとなる(最終的に風邪の一つとなる)」ことを指すとの見解があります。その見解に基づくと、この度のオミクロン株の出現はコロナが収束へと向かっていることの表れであり、むしろ私たちは前向きにこの事態を受け止めるべきであると言えるでしょう。もちろん、楽観はし過ぎず、引き続き、基本的な感染予防に努めてゆくことが大切でありましょう。

ただ、昨年までのように、コロナ対策を社会全体の最優先事項とする状況は、もはや終わらせるべき時期に来ていると言えます。この2年間、あまりに多くのこと――本来、最大限尊重されなければならない事柄――がコロナ対策の名目のもとに犠牲にされてきてしまいました。現在、「まん延防止措置」がまた新たに16都県適用されていますが、いったいどれほどの効果があるのか、実際は多くの人が疑問を感じているのではないでしょうか。私たちがこの2年間を通して学んだのは、ウイルスはウイルス自身の都合によって、増減の波を繰り返しているということです。いま求められているのは人々の生活の営みを制限し続けることではなく、重症化した場合に適切な治療を受けられる体制を作ってゆくことでありましょう。

 

 

 

ワクチン接種について

 

これから、一般の方を対象とするワクチンの3回目の接種が本格化してゆきます。この度の新型ワクチンは感染・発症を抑える効果は期待できないことが分かったものの、重症化を抑える効果はあるとして引き続き国が推奨する一方で、副反応が生じるリスクが指摘されています。

 

以前もお話ししましたが、私個人としては、この度のワクチンの接種には慎重な立場を取っています。特に、子どもや10代・20代の若い方々は接種する必要はない、いやむしろ、接種してはいけないと考えています。重症化を防ぐためのワクチンであるのなら、感染しても重症化しづらい若年層に対して、積極的に接種を推奨する理由はありません。また何より、この度のワクチンは健康への影響の懸念があまりに大きいものです。健康で基礎疾患もない子どもや若い世代の人々に対しては、むしろワクチンを接種することによって生じ得る様々な影響や副反応の方が心配です。

 

身体への影響の懸念は若い世代に方々に限ったことではありません。この度の新型ワクチンが私たちの体にどのような影響を与え得るのか、いまだ誰にもはっきりとしたことは分かっていません。感染対策の基本は、私たちの体に本来備わっている――神さまが与えてくださっている――免疫力をしっかりと保つことであること改めて痛感しているところです。

もちろん、接種について最終的な判断をするのは私たち一人ひとりです。ただ、皆さんもテレビや周囲からの情報をそのままに受け入れるのではなく、ご自分で様々な情報を得た上で、接種の有無の最終的な判断をしていただきたいと思っています。

 

ウイルスやワクチンに関して意見の相違はあったとしても、一人ひとりの健康と生活が守られるようにという願いは、私たちに共通のものです。一人ひとりの健康と生活が守られますよう、私たちがより良い選択肢を選び取ってゆくことができますよう、聖霊の導きをご一緒に祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

福音書に登場する《悪霊》

 

 メッセージの冒頭で、マルコによる福音書12128節をお読みしました。イエス・キリストが、ある男性に憑りついた《汚れた霊》(悪霊)を追い出す場面です。映画の『エクソシスト』を思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれません。

 

福音書には《悪霊》や《汚れた霊》と呼ばれる存在が登場します。これらの存在がどのようなものであったのか、はっきりとは分かっていません。現代の視点からすると、何らかの精神の病いに相当するものもあったと考えられます。当時の人々はそれを悪霊の仕業であると考えていたのです。そのため古代世界においては悪霊を追い出すための儀式、いわゆる「悪霊祓い(エクソシズム)」が一般に行われていました。ちなみに、現在もカトリック教会は場合に応じて悪霊祓いを行っているそうです。ただし、それは司祭が司教から特別な認可を受け、医学的なサポートも受けた上で行うものとされているとのことです。

もちろん、悪霊に憑りつかれているとされた事例のすべてが、精神の病いに起因するものではなかったでしょう。福音書に記される悪霊の働きのすべてが精神的な病いに起因するものだと言えるかと言うと、必ずしもそうではありません。中には、現在の科学や医学的な見地からしても、説明が難しい事例があります。

 

様々な解釈ができる悪霊ですが、この悪しき霊の働きにおいて、共通している点があります。それは、「私たちから主体性を奪おうとする力」である点です。私たちの内から自由な意志を奪い、主体的な判断や思考を奪おうとする力。私たちの内にある良きものも奪い、楽しみや喜びなど、自然に湧き上がってくる感情をも奪い取ろうとする力。悪霊にとりつかれて苦しんでいる人々は、この否定的な力に支配されている人々だということができるでしょう。

悪霊とは、私たちから主体性を奪おうとする何らかの否定的な力である、本日はそのようにご一緒に受け止め直してみたいと思います。

 

 

 

悪霊追放 ~私たちに主体性を取り戻すために

 

主体性が奪われ、心と体が「自分ではない何か」に支配されてしまっている状態は、私たちにとってとても苦しいものです。主体性が失われている状態は、自分らしさが失われている状態でもあります。自分の想いや考えが尊重されない状態。有無を言わさず、自分ではない誰かの想いを強制されている状態。これらは私たちにとって苦しいことですが、私たちは社会で生きてゆく中で、このような苦しい経験をすることが多々あるのではないでしょうか。特にこの2年間、コロナ禍の中で、私たちはこの苦しさを経験し続けているのではないでしょうか。

イエス・キリストはこの現実と向かい合い、私たちを何らかの否定的な力の支配から解放しようとしてくださっています。それが、福音書に記されている「悪霊追放」の出来事であると本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。

 

改めて、本日の悪霊追放の場面をお読みいたします。2326節《そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。/「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」/イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、/汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った》。

 

この場面では、《汚れた霊》は主イエスが何者であるのか気づいていたことが記されています。悪霊が《ナザレのイエス、かまわないでくれ》と叫ぶと、主イエスは《黙れ。この人から出て行け》とはっきりと宣言されます。すると、悪霊は憑りついていた人から出ていきました。悪しき力の支配に対し、主イエスははっきりと「否」をおっしゃってくださったのです。

イエス・キリストの内からあふれ出るこの力は、悪霊とはまったく対照的なものです。悪霊が私たちから主体性を奪う何らかの否定的な力であるとすると、主イエスの内にあるのは、私たちに主体性を取り戻すように働かれる、肯定的な力です。

 

 

 

権威ある新しい教え

 

 悪霊が男性から出て行く様子を見ていた人々は、驚いて互いに論じ合います。2728節《人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」/イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった》。

 主イエスが「この人から出て行け」とお命じになると、その通りに悪霊が出て行ったことから、《権威ある新しい教え》がここにあると人々は驚嘆しました。周りにいた人々は主イエスの教えに、「権威」と「新しさ」を感じ取ったのです。

 

 この「権威」は、神の国の権威に由来しているものです。神の国は「神の王国」とも言い換えることができる言葉ですが、私なりに表現すると、「一人ひとりがかけがえのない存在として大切にされている場」のことを言います。神さまの目にかけがえのない一人ひとりの生命と尊厳がまことに尊重にされている場、それが神の国なのだと受け止めています。

先週の礼拝で、次の主イエスの言葉をお読みしました。115節《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》――。時が満ち、神の国がいままさに私たちの足元に到来しようとしていることを宣言する言葉です。主イエスの力は、この神の国の権威から生じているものです。主イエスが悪霊を追い出す様子を目撃した人々は、この神の国の権威を感じ取り、驚嘆したのではないでしょうか。

 

 またそして、この主イエスの権威ある教えは、「新しい」ものとして人々に受け取られました。「一人ひとりがまことに大切にされ、尊厳をもって生きてゆくことができるように」との神の国の教えは、当時の人々にとって、まったく新しい教えであったでしょう。当時の人々は、個人よりも宗教や民族が優先される社会の中を生きていたからです。崇高な理念や目的のために、一部の人々が犠牲とされることも良しとする価値観の中を生きていたからです。

主イエスのこの教えは現代の私たちにとっても、やはりいまも新しいものであるのではないでしょうか。当たり前のようでいて、いまも新しい言葉であり続けているのではないでしょうか。いまだそれが実現されていない現状が私たちの目の前にあるからです。多くの人がいまも主体性を奪われ、尊厳が軽んじられ、苦しんでいる現実があるからです。ある目的のために、一部の人が犠牲にされ、苦しめられている現実があるからです。

 

 

 

神の国への招き

 

本日の物語の最後は、《イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった28節)という一文で閉じられます。主イエスの評判は人から人へ、瞬く間に伝えられていきました。

集まっていた人々は、何が起こったのかいまだよく分からぬ驚きの中で、何か自分の心に光が差し込もうとしているように感じていたのかもしれません。主イエスがお示しなった「新しい教え」を目の当たりにして、座り込んでいた自分の魂が再び立ち上がらされるような感動を覚えていたのかもしれません。

 

 

私たちの魂を再び立ち上がらせる力、それが神の国の力です。私たちを否定的な力の支配から解放してくださる力、それが神の国の力です。私たちはいま、この神の国に招かれ、この神の国の実現のために共に働くよう招かれています。