2022年2月27日「突風を静める」
2022年2月27日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編125編1-5節、ヘブライ人への手紙2章1-4節、マルコによる福音書4章35-41節
ロシア軍によるウクライナ侵攻
24日より、ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻が続いています。皆さんも大変心配しておられることと思います。昨日26日には、ロシア軍は首都キエフに到着。市内の路上でウクライナ軍との市街戦が生じていると報じられています。また、ロシア軍がウクライナ北部のチェルノブイリ原発を占拠したとの気がかりなニュースも入ってきています。
ウクライナ側のミンスク合意の不履行などの事情があったとしても、この度のプーチン大統領および一部の為政者たちの振る舞いは決してゆるされないものです。いかなる侵略行為も、私たちは容認することはできません。戦争においては、兵隊の方々のみならず、必ず多くの一般の市民が犠牲となります。そのかけがえのない生命と尊厳が奪われます。
一方、ウクライナのゼレンスキー大統領は国民に対して、武器を取って抵抗し「国を守る」よう呼び掛けているとのことですが、こちらもとんでもないことです。市民を巻き込む地上戦だけは、何としても回避されなければなりません。どうかこれ以上、両軍の兵士および市民の方々の命が奪われることがないようにと願います。ウクライナの方々の命と安全が守られますように、また一刻も早くこの戦闘が中止され、停戦の合意へと至りますように。緊迫した状況が続いているいま、改めて平和への祈りをご一緒に合わせてゆきたいと思います。
突風を静める
先ほどご一緒にマルコによる福音書4章35-41節をお読みしました。イエス・キリストが嵐を静め、荒ぶる湖を静める場面です。イエスさまが風を叱り湖に「静まれ」とおっしゃると、その通りに突風はやみ、水面は穏やかになりました。いわゆる「奇跡物語」の一つです。
置かれている状況は異なりますが、私たちもまた現在、嵐のような現実に直面していると言えます。ロシア軍によるウクライナ侵攻、オミクロン株の感染拡大、長期化するコロナ対策と社会への甚大なる影響、新型ワクチンの副反応・後遺症の懸念――特に5~11歳の子どもたちの接種に対する強い懸念……。様々な課題・問題に直面するいま、私たちはこの物語からどのようなメッセージを汲み取ることができるでしょうか。もちろん、本日の物語をはじめとするいわゆる「奇跡物語」は、現代の私たちからするとあり得ないように思われるものです。ただ、「あり得るか」「あり得ないか」にこだわるのではなく、この物語がいまを生きる私たちにどのようなメッセージを語りかけているかをご一緒に聴き取ってゆきたいと思います。
改めて、本日の物語を振り返ってみましょう。その日、イエスさまは弟子たちに向かって、《向こう岸に渡ろう》とおっしゃいました(35節)。ガリラヤ湖のほとりで、人々に様々なたとえ話を語られた後の、夕方のことでした。ガリラヤ湖は竪琴(ハープ)のようなかたちをした、南北約21キロメートル、東西約13キロメートルの大きさの湖です。南北およそ21キロというと、この花巻教会から紫波町の日詰教会までくらいの距離です。湖のまわりには町が点在しており、人々は舟にのって町から町へ移動することができました。
ガリラヤ湖は夕方になると、陸の方から突風が吹きつけて来ることがあったそうです。弟子のペトロやヨハネたちはもともと漁師であり、夕方になってから舟を出すことの危険は当然承知していたことでしょう。しかし《向こう岸に渡ろう》との主の言葉に従い、沖へと向かって漕ぎ出します(36節)。
そうすると案の定、陸の方から激しい突風が吹きつけてきました。舟は波をかぶって、水浸しになるほどでした(37節)。その嵐は熟練の漁師であったペトロたちさえも恐怖を覚えるほどのものであったようです。しかし、イエスさまは舟の後ろの方で枕をして眠っておられました。弟子たちはたまらず、イエスさまを起こして助けを求めます。《先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか》(38節)。
起き上がったイエスさまは風を叱りつけ、湖に向かって、《黙れ。静まれ》とおっしゃいました。すると風はやみ、湖はすっかり穏やかになった、と福音書は記します(39節)。
イエスさまは驚く弟子たちに《なぜ怖がるのか。まだ信じないのか》とおっしゃいました(40節)。弟子たちは非常に恐れ、《いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか》と囁き合いました(41節)。
イエス・キリストへの信頼
最後のところでイエスさまが弟子たちに対しておっしゃった言葉、《なぜ怖がるのか。まだ信じないのか》(40節)――。ここで「信じる」と訳されている語は、「信頼」という意味も持っている言葉です。よってこの言葉を、「なぜ怖がるのか。まだ私を信頼していないのか」と訳すこともできるでしょう。
このイエスさまの言葉からも、本日の物語においては「信頼」が大切なテーマの一つとなっていることが分かります。突風が起こり、弟子たちは恐怖に陥り、イエスさまへの信頼を見失いました。福音書記者のマルコはその弟子たちの姿を率直に描きつつ、どんなに大変な状況であっても主が共にいてくださるのだから、信頼を失わないようにしようとのメッセージをこの物語に込めたのでしょう。どのような状況にあっても、たとえ嵐のような状況が自分たちを取り囲んでいたとしても、主は必ず共にいてくださる。そうしていつか、この嵐を静めてくださる。だから勇気を出して生きていこう、と。
危機を察知し主に助けを求めた弟子たちの姿
では、必死にイエスさまに助けを求めた弟子たちは間違っていたのかというと、必ずしもそうではないでしょう。弟子たちは危険を察知し、それをイエスさまに伝えました。その意味で、弟子たちは危機を事前に・素早く察知する「見張り」としての役割を果たしたことになります。信頼を見失っていたという点においては、確かに弟子たちは「不信仰」であったかもしれない。と同時に、危機を察知し主に助けを求めた点において、弟子たちは間違ってはいなかったとも言える。むしろ「危機を危機としてしっかりと認識する」この弟子たちの姿に、いまを生きる私たちは何らかのメッセージを読み取ることができるのではないかと思います。
本日の物語において、もしも弟子たちが「イエスさまが共にいてくださるから、何もしなくて大丈夫」と達観して、波の様子にもまったく気を配っていなかったとしたらどうでしょうか。イエスさまに助けを求めるタイミングがもっと遅くなってしまっていたら、どうなっていたでしょうか。彼らを取り巻く状況は、よりその深刻さを増していたかもしれません。
先ほど、本日の物語では「信頼」が大切なテーマの一つとなっていることを述べました。確かにイエスさまへの全幅の信頼を呼びかけている箇所ではありますが、しかしそれは必ずしも目の前の現実に「無頓着・無関心であれ」と呼びかけているわけではないように思います。イエスさまへの信頼を失わないと同時に、いま目の前にある危機的状況を認識することも私たちにとっては重要なことだからです。
嵐に遭遇する中で、弟子たちは《先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか》(38節)とイエスさまに懸命に助けを求めます。「おぼれる」と訳されている語は「滅ぶ」の意味もある言葉です。「自分たちは滅んでしまうのではないか」との深刻な危機意識の中で、弟子たちはイエスさまを呼び求めていたことが分かります。
危機を危機として認識することの重要性
旧約聖書のエレミヤ書には、国が危機的な状況にあるのにその危機の現実を見ようとせず、「平和、平和」と唱える偽りの預言者たちの姿が記されています。《彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う》(エレミヤ書6章14節)。目の前に危機的な状況を認めることなく、ただ「神さまの平安」だけを強調している者は「偽預言者」であるとの厳しい言葉が記されています。このエレミヤの批判の言葉は、いまを生きる私たち自身に向けられた言葉としても受け止めることができるでしょう。
神さまへの「信仰(信頼)」を大切にすると共に、私たちは目の前の現実と対峙することも必要です。本当は受け止めるべき現実があるのに、「神さまが共にいてくださるのだから大丈夫」と目を逸らしている内に、大変な事態を招いてしまうことがあるでしょう。イエスさまに全幅の信頼を置くことと、目の前の現実に危機感を覚えることは、矛盾するものではありません。
冒頭で、ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻(侵略)について述べました。明日にでもロシア軍による侵攻が開始されるのではないかと言われていた一方で、実際にはそれは起こらないのではないか、ロシアの存在感を国際社会に印象付けるにとどめてそのまま撤退するのではないかとの意見も、つい1週間までは優勢でした。それは専門家の方々においてもそうであったようです。私自身、そうであったらいいと願いながら、どこかこの問題の深刻さを受け止め切れないでいた部分があったように思います。そのような中、突然のように――突然の悪夢のように、開始された、ウクライナへの軍事侵攻。前々からその可能性が指摘されていたにも拘わらず、それが「突然」のように感じたのは、私の内にも最悪のケースについては考えたくないという想い、真の危機的状況からは目を背けたいとの想いがあったからではないかと思わされています。ウクライナ侵攻のニュースを目にしながら、私の胸の内に浮かんでいたのは先ほどのエレミヤ書の一節、《平和がないのに、『平和、平和』と言う》でした。一刻も早く両軍の戦闘が停止されることを願うと共に、危機を危機として認識することの重要性を改めて思わされています。
希望は、徹底的に絶望するところからしか見えてこない
会津放射能情報センター代表の片岡輝美さんがおっしゃった言葉で、強く心に残っている言葉があります。いまから8年前、2014年3月11日に開かれた日本基督教団 東日本大震災国際会議の講演の中でおっしゃられた言葉です。片岡輝美さんは、「希望とはまず、徹底的に絶望するところからしか見えてこないのではないか」とおっしゃっていました。
たとえば、この度の原発事故による放射能の汚染の現実。汚染の数値を知ることは、私たちにとって辛いことであり、できれば目を背けていたい現実です。しかし、輝美さんは私たちが実際にその数値を計り、現実を知ることの重要性を訴えておられました。
《事件直後から、政府は「直ちに健康に影響はない」と繰り返して安全キャンペーンをはり、国民に真実を知らせませんでした。たとえば、各地に設置されたモニタリングポストの数値は、他の機器で測る数値よりもかなり低いのが現実です。安全であるかどうかを決める権利は私たち自身にあるはずです。その判断をするためにも自分たちで放射能の正確な数値を知る必要がありました。
幸い、2011年11月に私たちは南西ドイツ福音宣教会(EMS)の支援によってスウェーデン製の放射能測定器を購入しました。これによって米、野菜、果物、水、魚、肉、土壌などこれまで2000件近く検査してきました。尿の定期検査もしています。残念ながら、微量ですが子どもたちの尿からセシウムが検出されています。数値を知る目的は真実を知ることです。それはとても恐いことですが、真実を知ることによってしか、子どもの命を守ることはできないのです》。
現実をしっかりと把握することが、子どもたちの命を守ることにつながる。輝美さんはそのように述べ、そして講演を次の言葉で締めくくっておられました。
《確かに私たちには復活の主が希望です。しかし私たちはかなり絶望的な時代に生きているのです。希望とはまず、徹底的に絶望するところからしか見えてこないのではないかと思います。絶望の時代に光となるために私たちが今何をすべきなのか問われています》(『信徒の友』2014年6月号、日本キリスト教団出版局、25-26頁より)。
それでもなお消えることのない光
弟子たちが迫りくる嵐の中で自分たちの危機をはっきりと認めたように、私たちもまた、目の前の現実に目を向ける必要があります。その現実は、深刻な現実、場合によっては危機的な現実であるのかもしれません。しかし、勇気をもって対峙すること。そうして、失望すべきことには、はっきりと失望すべきこと。その過程の中で、私たちは神さまの願いに適う道を少しずつ見出してゆくのではないでしょうか。一人ひとりの生命と尊厳が守られるための、平和への道を見出してゆくことができるのではないかと思います。
私たちが暗闇であると思ってもなお、消え去らない光があります。そこにおられるのが、イエス・キリストその方です。私たちが真っ暗だと思っても、なおそこにともる、微かな光があります。その方が、イエス・キリストその方です。
どのような状況にあっても、たとえ嵐のような状況が私たちを取り囲んでいたとしても、イエスさまは必ず共にいてくださいます。そうしていつの日か、私たちの生きるこの地に和解と平和をもたらしてくださるでしょう。ですので私たちは、この方を希望の光として、一歩一歩、歩んでゆくことができます。解決策が見つからず、なかなか答えが見えない状況の中でも、何とか持ちこたえて、生き抜いてゆくことができます。
どうぞ私たちがいま目の前にある現実から目を背けることがありませんように。神さまが私たちにその力と勇気をお与えくださいますように。そしてそれでもなお消えることのないキリストの光への信頼を私たちが見失うことがありませんように。私たちが神さまの願いに適う道を歩んでゆくことができますよう、ご一緒に神さまにお祈りをおささげいたしましょう。