2022年1月30日「イエスは深く憐れんで」
2022年1月30日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編51編12-21節、コリントの信徒への手紙一6章12-20節、マルコによる福音書1章40-45節
レプラ/ツァラアトの表記について
いまお読みしました聖書箇所の中に、《重い皮膚病》という言葉が出て来ました。《さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った》(マルコによる福音書1章40節、新共同訳)。《重い皮膚病》と訳されているのは原語のギリシャ語では「レプラ」という語です。
はじめに、このレプラという語について説明をしておきたいと思います。ギリシャ語のレプラはヘブライ語のツァラアトの訳語です。キリスト教はこれまでの歴史においてこの「レプラ/ツァラアト」をハンセン病を指すものと見なしてきました。私たちが現在礼拝で用いている新共同訳聖書も当初は《らい病》と訳していたのをご記憶の方もいらっしゃることと思います。
現在は、この語をハンセン病に限定して解釈するのは誤りであったことが分かっています。旧約聖書の時代にハンセン病が存在したかどうかは歴史的に不確かであることや、旧約聖書のツァラアトの症状の描写は必ずしもハンセン病と一致しないこと(レビ記13章1-44節)、また、この語が衣服や壁に生じた「かび」のようなものに対しても使われていること(同13章47-59節、14章33-53節)などがその理由です。
「レプラ/ツァラアト」は必ずしもハンセン病を指しているとは限らないこと、また《らい病》という表現が現在では差別的な表記であることを踏まえ、新共同訳聖書は1997年4月から表記を《らい病》から《重い皮膚病》に変更し、現在に至っています。
ただし、この表記に対してもこれまで、賛成と反対の両方の意見がありました。《重い皮膚病》という訳語に変えたことで、ハンセン病に限定して理解されることはなくなりましたが、一方で、《重い皮膚病》という訳語はやはりハンセン病を連想させるという意見、また、《重い皮膚病》というより広がりのある訳語によって、様々な皮膚の病気を抱える人を新たに傷つけてしまう可能性を危惧する声もありました。
これらのことを踏まえ、2018年に発行された聖書協会共同訳聖書では、この語を《規定の病》と訳出しています。「レプラ/ツァラアト」は現代に生きる私たちにはもはやどのようなものであるかはっきりとは分からない病いです。ですので具体性を排して、シンプルに「律法に記されている(規定されている)病い」、すなわち《規定の病》と表現しているのです。私も本日の説教では新しい訳にならって、《規定の病》の表現を用いてゆきたいと思います。
《規定の病》を発症した人の苦しみ
旧約聖書のレビ記を見ますと、「《規定の病》に冒された者である」と宣言された人は、祭儀的に「汚れた」者として、共同体から隔離されねばならないことが記されています。《規定の病を発症した人は衣服を切り裂き、髪を垂らさなければならない。また口ひげを覆って、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。/その患部があるかぎり、その人は汚れている。宿営の外で、独り離れて住まなければならない》(レビ記13章45-46節、聖書協会共同訳)。《規定の病》を発症した人は、「ケガレ」を帯びた、「罪」を負った存在として、共同体から隔離されました。共同体のメンバーに「ケガレ」をうつすことがないように、です。
先ほど、キリスト教では伝統的に《規定の病》はハンセン病であるとみなされてきたことを述べました。このような聖書の記述がハンセン病と結び付けられることによって、ハンセン病患者を共同体の外へと排除する構造が補強されていった歴史があります。キリスト教にはハンセン病の隔離政策に加担した罪責があることを、私たちは受け止めなければならないでしょう。
レビ記には、一定の隔離期間を経て《規定の病》から回復した人は、祭司から清めの儀式と贖いの儀式を受けねばならないことも記されています(14章)。これらの儀式を通してはじめて、その人は再び共同体に戻ることがゆるされたのです。
これらの規定の背景には、旧約聖書固有の浄・不浄の考え方があります。古代イスラエルの人々は「聖なること」を非常に重視していました。その厳格さは時に、その「浄さ」の基準に該当しない存在を排除してしまう危険性をはらんでいるものでもありました。共同体内の「聖」を保つため、一部の人々を共同体の外に隔離することもなされていたのです。その隔離の対象となったのが、たとえば、《規定の病》を発症した人々でした。病いが発症したゆえに、「ケガレた」存在として共同体の外に隔離され、人々とのつながりが断ち切られた苦しみは、いかばかりのものであったでしょうか。身体的な辛さだけではなく、社会的なつながりが絶たれてしまったこと、差別を受け得る対象となってしまったことが、当事者の人々にとって大きな苦しみになっていたのではないかと思います。それは、人間としての尊厳が損なわれることの苦しみです。
本日のマルコによる福音書に登場する《規定の病》を患っている人も、そのような苦しみを強いられていた一人でした。共同体の外に隔離されていたその人は、主イエスの噂を聞きつけて、規定を破ってまでして、決死の想いで主のもとへ駆けつけたのではないでしょうか。
新たな「ケガレ」の意識 ~コロナ・パンデミックの中で
本日のマルコによる福音書に登場する《規定の病》を患っていた人は、今から2000年前に生きていた人物です。はるか昔に生きていた人であり、今を生きる私たちとは置かれている状況は異なるものです。と同時、先ほどのレビ記の規定の説明を聞いて、今現在の私たちの状況とつながるものを感じた方もいらっしゃるのではないでしょうか。この2年間のコロナ・パンデミックの状況と、レビ記の記述には、重なるものがあるように感じます。
古代イスラエルの人々が独自の浄・不浄の感覚を持っていたように、私たちはこの長期間にわたるコロナ禍を通して、新しい浄・不浄の感覚を身に着けてしまっているのではないでしょうか。たとえば、人々の手が触れた場所が、何だか「ケガレて」いるように感じる。すなわちそれはウイルスがたくさん付着していることを示唆しています。そのような場所は、アルコール消毒をして「浄め」(?)なければなりません。外から帰宅すると、自分の体が「ケガレて」いるように感じる。家に帰ると服を脱いでまずシャワーを浴びないと落ち着かない、という方もいらっしゃることでしょう。このような、新たな「ケガレ」の感覚はこの2年間を通して、個人差はあれど、私たちの内に沁みついてしまっているものです。
もちろん、ウイルスは観念ではなく、目には見えないけれども確かに実在しているものであり、手洗いやアルコール消毒は感染対策として大切な意味があるものです。ただ、感染対策と「ケガレ」の意識が入り混じってしまう場合の懸念も感じます。「ケガレ」の意識は、時に他者への排他性や攻撃性とつながってしまうことがあると思うからです。
新たな「罪」意識
またそして、私が最も懸念していることは、このコロナ禍を通して新たな「罪」意識が私たちの内に植え付けられてしまったのではないか、ということです。コロナ禍における「ケガレ」が「ウイルスによる汚染」を意味するとしますと、ここでの「罪」は「ウイルスに実際に感染すること」、あるいは「他者に感染させること」を意味します。
レビ記において、《規定の病》を発症した人は、「罪人」として共同体から隔離されました。そして回復後は祭司から清めの儀式を受けて初めて、共同体に戻ることがゆるされました。このことは、コロナに感染した人が置かれている状況と重なるものがあるのではないでしょうか。コロナ陽性になった方は自宅あるいは病院に隔離されます。一定の隔離期間を経て、検査も陰性になって初めて、共同体に戻ることがゆるされます。ウイルスがオミクロン株に置き換わって多少状況は変化したかもしれませんが、昨年までは、感染した人への社会的な風当りは本当に強いものでした。私たちの社会においてまるで感染したことが「罪(悪)」であるようにみなす風潮があったことは、認めざるを得ない事実であると思います。「人さまに迷惑をかけてはいけない」が最も重要な掟(?)となってしまっている日本の社会においては、その風潮がとりわけ強かったのかもしれません。
私たちはこの2年間、「感染するかもしれない」「感染させてしまうかもしれない」とのある種の罪意識に苦しめられ続けてきました。昨年の秋頃は状況は落ち着いていましたが、この1月から第6波が到来し、過去最高の感染者数が連日更新されている現在、まさに多くの人がこの罪意識に苦しめられ、甚大なる精神的な負担を強いられています。この罪意識がいかに私たちの日々の生活を重苦しいものにしていることでしょうか。また、この罪意識が、他者への排他的な感情や攻撃性へつながっている構造もあることでしょう。
精神科医の斎藤環先生が大変興味深い指摘をしていらっしゃいました。この度のコロナ禍における、誰もが「潜在的な感染者」としての自己を意識し振舞わなければならない行動の変容は、キリスト教の「原罪」意識の示唆に似ている、と。
2020年3月、ロンドン大学のある教授が「あなた自身がすでに感染している前提でふるまいなさい」と発言し、それがこの時代の適切なマナーとなりました。斎藤環先生も、この発言は行動変容を促すアドバイスとしてまったく正しいと肯定しながらも、この教えはまるで「原罪」意識の示唆に似てはいないか? と自問しておられます。
《その一方で、こうも考えた。この教えはまるで「原罪」意識の示唆に似てはいないか? 原罪とはキリスト教においては、アダムが神に背いた結果、全人類がそれを継承することになった罪のことである。自身が罪を犯した(感染した)という事実の有無にかかわらず、自身には罪がある前提で考え、ふるまうことが社会的に要求される疾患は、これが最初のものではないだろうか? あるいは20世紀初頭のスペイン風邪も、人々に同様の意識を喚起したのだろうか?》(斎藤環「コロナ・ピューリタニズムの懸念」、初出:note 2020年4月20日、『コロナ・アンビバレンスの憂鬱 健やかにひきこもるために』所収、晶文社、2021年10月、14‐15頁)。
「あなたは悪くない」 ~私たちの存在を抱きしめながら
感染したこと、感染させてしまったかもしれないことは、決して「罪」ではありません。ウイルスの感染は「罪」ではなく、自然現象です。私たちは感染対策と罪の意識は区別をする必要があります。感染対策は心掛けつつ、罪の意識からは自由になる必要があります。
それは、ケガレ意識についても同様です。感染対策をすることと、ケガレ意識を持つことは分けて考えねばなりません。私たちは必要な感染対策はしつつ、過度なケガレ意識を持ってしまうことには注意を払う必要があるでしょう。
と言いつつも、この長期にわたるコロナ・パンデミックの中で、このケガレ意識と罪意識(原罪意識)は私たちが考える以上に、私たちの心身に影響を及ぼしてしまっているのかもしれません。私たちが想像する以上に、これらの感覚に私たちは囚われてしまっているのかもしれません。斎藤環先生の表現を借りるなら、これらの感覚は私たちの身体に《インストール》されてしまっているのかもしれません。《社会的な距離の感覚と相まって、他者の「不潔性」の感覚が、われわれの身体にインストールされた。パンデミックそのものは忘却されても、そうした身体感覚が部分的にせよ残るとしたらどうだろう》(同、25頁)。コロナ・パンデミックを経験した私たちの社会が今後どのようになってゆくかは未知数です。
これから状況が少しずつでも良くなってゆくことを切に願うものですが、感染が再び拡大している今、誰もが感染し得る状況の今、私たちは改めて感染は「罪(悪)」ではないことを心に留め、互いに声をかけあってゆくことが求められています。当事者の方々がそれを言うのは難しい部分もあるでしょう。周囲の人々が、「あなたは悪くない」というメッセージを発してゆくことが肝要です。
そしてもう一つ、共に私たちの心を向けたいのが、イエス・キリストのお姿です。共同体からの隔離の規定を破って、決死の想いでやってきた《規定の病》を患う人に対して、主イエスはその違反をとがめることもなく、深く憐れんで手を差し伸べられました。《イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、/たちまち規定の病は去り、その人は清くなった》(41-42節、聖書協会共同訳)。主イエスが《清くなれ》とおっしゃると、その言葉のとおり、《規定の病》は消え去りました。
病いが癒されたことは一つの奇跡ですが、この場面を読む私たちが何より心打たれるのは、癒しを行われる際、体に触れてくださった主のお姿ではないでしょうか。当時、《規定の病》を発症している人の体に触れることは考えられないことでした。「ケガレ」がうつるとされていたからです。しかし、主イエスは深く憐れんで、その人の体に触れ、これまでの苦しみや悲しみをすべて受け止めてくださいました。ある翻訳は、《手をのばしてその人を抱きしめ》たと訳しています(本田哲郎氏訳)。
主イエスは男性の体を抱きしめ、「あなたは悪くない。あなたは、神の目に尊厳ある存在」であることを伝えてくださいました。そして今、私たちにもそのことを伝えてくださっているのだとご一緒に受け止めたいと思います。
あなたは悪くない。あなたは神さまの目に尊厳ある存在。あなたは、神の目に価高く、貴い存在――。私たちに触れながら、私たちの存在を抱きしめながら、主イエスは今、そう語りかけてくださっています。