2022年10月23日「キリストに結ばれて」
2022年10月23日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編12編1-8節、マルコによる福音書1章9-11節、ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節
降誕前節
本日から、教会の暦で「降誕前節」に入ります。降誕とは、イエス・キリストのご降誕(クリスマス)のことです。聖書の御言葉をご一緒に学びつつ、イエス・キリストのご降誕に向けて準備をしてゆく期間です。気が付けばもうクリスマスに向けて準備をする時期、早いものですね。
今年はちょうど12月25日のクリスマスが日曜日です。私たち花巻教会も12月24日(土)にクリスマス・イブ礼拝、25日(日)にクリスマス礼拝を予定しています。ご家族、ご友人もお誘いあわせの上、ぜひご出席ください。
イエス、洗礼(バプテスマ)を受ける
先ほど、司式の方にマルコによる福音書1章9-11節を読んでいただきました。イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼(バプテスマ)を授けられる場面です。イエス・キリストは30歳になった頃、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。
《そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。/水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。/すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた》。
洗礼者ヨハネは当時、ヨルダン川で洗礼を授ける活動をしていた人物です。川で行っていたことからも分かるように、ヨハネが行っていた洗礼は、水の中にザブンと全身を沈めるやり方でした。
洗礼(バプテスマ)は皆さんもよくご存じのように、キリスト教に入信する際に行われる儀式です。この2000年間、洗礼式は教会において最も重要な儀式として、代々受け継がれてきました。
ただし、洗礼者ヨハネが行っていた洗礼にはまだ「クリスチャンになる」意味合いはありませんでした。そもそも、この時点ではまだキリスト教自体が誕生していません。ヨハネが行っていた洗礼には、罪を「悔い改める」意味が込められていました。水の中で一度古い自分が死に、水から上がったとき、新しい自分が生まれる。一種の「死と再生」の儀礼であったと言えるでしょう。洗礼者ヨハネが行っていたこの悔改めの儀式は当時、多くの人々の心をひきつけていました。イエスさまもそのように洗礼者ヨハネのもとに集う一人として、その日、ヨハネから洗礼を受けられました。
浸礼と滴礼
「洗礼を授ける」との意味を持つギリシア語バプティゾーは、元来は「水に浸す」という意味を持っている語です。よって、原語のニュアンスを尊重して「洗礼」とは訳さず、「浸礼」と訳している翻訳もあります(岩波訳聖書など)。バプテスト教会などの一部の教会では現在も、この全身を水に沈めるやりかたを継承して洗礼を行っています。花巻教会もバプテスト教会の流れを汲んでいる教会ですので、いまも全身を水に浸す仕方で洗礼を行っています。
私が立っている講壇の後方の床の下に、洗礼槽(バプテストリー)と呼ばれるスペースがあります。普段はふたで閉じられていますが、本日はこの後洗礼式を執り行う予定ですのでふたは開けられ、中は水(お湯)で満たされています。
洗礼槽の水に全身を浸すやりかたを「浸礼(全浸礼)」、頭に水を三度振りかけるやりかたを「滴礼」と言います。私自身は大学生4年生になる年に、滴礼で洗礼を受けました。ですので、受ける方としては浸礼を経験したことはありません。浸礼ならではの感動もきっとあるのではないか、とも思います。ぜひ全浸礼で洗礼を受けてみたかったな、との気持ちもあります。もちろん、どちらか一方のやり方が正しい、というわけではありません。花巻教会でも洗礼を志願される方のご事情によっては滴礼で洗礼を行うこともあります。水はあくまで目に見える「しるし」であり、大切なのは、目には見えない神さまの愛と恵みです。
《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》
先ほど、洗礼者ヨハネが行っていた洗礼には、罪を「悔い改める」意味が込められていたことを述べました。なぜイエス・キリストがヨハネから悔い改めの洗礼を受ける必要があったのか、と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。救い主であるイエスさまが悔い改めの洗礼を受けられる必要などないのではないか、と私たちは思います。
改めて、イエスさまが洗礼を授けられ、水の中から上がられた瞬間の場面を読んでみたいと思います。10-11節《水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。/すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた》。
イエスさまが洗礼を受けて水の中から上がられた際、それまでにはなかった新しい出来事が起こったことを福音書は記します。天が裂け、聖霊が鳩のようにご自身のもとに降って来たのです。そして、天から《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》(11節)との声が聞こえて来ました。神ご自身によって、イエスさまが「神の子」であることが宣言された瞬間です。
ご一緒に注目したいのは、《愛する子》という表現です。「神の子」であるだけではなく、「神の愛する子」であることが語られています。
この場面においては、神の言葉はイエスさまお一人に対して語られたものです。その場にいた大勢の人々に対して語られた言葉ではなく、あくまでイエスさまお一人に対して宣言されたものです。この後、イエスさまが全身全霊でなさろうとしてくださったことは、この神さまの声を、私たち一人ひとりに対して語りかけられている声とすることでした。
《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》――この神さまの声が、一人ひとりに語られているものとするため、イエスさまは洗礼を受け、その公の活動を始められられたのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
キリストの愛に結ばれて
メッセージの冒頭で、ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節をお読みしました。この箇所は、キリスト教が誕生して間もない頃、洗礼式で実際に読まれていた信仰告白の言葉の一つであると言われています。改めて読んでみたいと思います。
《あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。/洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。/そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。/あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です》。
洗礼を受けてクリスチャンになることを志願する人は、これらの言葉を告白して、洗礼を受けたと考えられます。
冒頭の26節には、《あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです》とありました。イエス・キリストに結ばれた私たちは皆、神の子であることが宣言されています。キリストに結ばれた私たち一人ひとりは、神の愛する子であるのです。《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》――この神さまの声はいま、私たち一人ひとりの内に響いています。
続く28-29節では、キリストに結ばれている人は、もはや民族や国籍からも、社会的な身分からも、性別や家庭の役割からも自由であることも宣言されています。こちらも、大変私たちの胸を打つ宣言ですね。
イエスさまは私たちを民族や国籍では判断せず、職業でも判断せず、社会的な身分でも判断なさらない。性別でも判断なさらないことが語られています。イエスさまは私たちの存在をあるがままに受け止め、愛してくださっている方です。イエスさまは私たち一人ひとりを、神に愛されている子どもとして、重んじて下さっています。かけがえのない=替わりがきかない存在として尊重してくださっています。キリストに結ばれた私たちはもはや、あらゆる偏見や束縛から解放され、自由です。クリスチャンであるということは、このキリストの愛といつも固く結ばれていることであると私は受け止めています。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この言葉を私たちの心に届けるため、イエスさまはその生涯をささげてくださいました。そしていまも、私たちの傍らにいて、「あなたは神さまの目から見て、かけがえなく大切な人」だと語りかけてくださっています。
本日はこれから、N・Gさんの洗礼式を執り行います。神さまがこれまでのGさんの歩みを支えて下さり、そうして今朝、洗礼式へと導いて下さったことを感謝いたします。
どうぞGさんのこれからの歩みの上に神さまの祝福がありますように、また、私たちがいつもキリストの愛に結ばれていることを心に刻み、互いに大切にし合って生きてゆくことができますように、ご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。