2022年11月27日「正義の若枝」

20221127日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書212536節、ヤコブの手紙5111節、エレミヤ書331416

正義の若枝

 

 

アドベント(待降節)

 

本日から、教会の暦ではアドベント(待降節)に入ります。アドベントとは、「到来」という意味の言葉です。イエス・キリストの到来――すなわち、イエス・キリストが誕生したクリスマスを待ち望み、そのための準備をする期間です。アドベントは本日から、1224日まで続きます。

 

 クリスマスに向けて、ご自宅にアドベント・カレンダーを飾った方もいらっしゃることでしょう。私も幼い頃、家に飾られたアドベント・カレンダーを一日一日めくってゆくのが楽しみでした。ある年は待ちきれなくて、クリスマスの数日前にこっそりと隙間から25日の絵をのぞいてしまったこともあります。飼い葉桶に眠る赤ん坊のイエスさまの絵が描いてあったと記憶しています。アドベントは、イエス・キリストの誕生を待ち望む時期ですから、子どもたちにそれを伝えるのにアドベント・カレンダーはよいものですね。

 

教会では、アドベントの時期になるとクリスマスリースを飾ったり、建物や木に電飾を取り付ける慣習があります。私たちの教会も昨日有志の皆さんがリースづくりや飾り付けをしてくださいました。

 

講壇の上に飾っているこちらリースはアドベントクランツといいます。御覧のように、本日は1本のろうそくに火がともされています。第2週には2本のろうそくに、第3週には3本のろうそくに、第4週には4本すべてのろうそくに火がともります。この慣習も、クリスマスが週ごとに近づいていることを私たちに感じさせてくれるものですね。

このろうそくの光は、イエス・キリストが私たちにともしてくださる光を表しています。新約聖書では、イエス・キリストは「まことの光」と呼ばれます。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(ヨハネによる福音書1章9節)。私たちはアドベントの期間、まことの光の到来を待ち望む想いを新たにします。

 

 

 

イエス・キリストの到来 ~誕生と再臨

 

 アドベントとは「到来」という意味であるということを申しました。それはイエス・キリストの「誕生」を意味するとともに、終わりの日に再びイエス・キリストが私たちのもとに来られる「到来」の意味も含まれています。教会の言葉で「再臨」という言葉がありますが、イエス・キリストの再臨を待ち望む想いを新たにするのも、このアドベントの時期です。

 

 礼拝の中で読んでいただいたルカによる福音書212536節は、そのイエス・キリストの再臨について語られている箇所でした。改めて2528節を読んでみたいと思います。

 

それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。/人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。/そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。/このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ》。

 

 海がどよめき荒れ狂う、天体が揺り動かされる、などの何だか怖いような描写が記されていますが、ユダヤ教では伝統的に、終わりの日についてこのような表現がなされることがあります。太陽と月と星に徴が現れ、海がどよめき荒れ狂い、天体が揺り動かされる。そのとき、《人の子》が到来する。《そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る27節)。ここでの《人の子》が、すなわち再臨のキリストです。

まことの光であるイエス・キリストが、終わりの日に、再び私たちのもとに来て、解放と救いをもたらしてくださる。その日が必ず来ることを、教会は希望として信じ続けてきました。

 

 

 

「目を覚ましていなさい」

 

 アドベントはイエス・キリストの誕生を待ち望む時期であり、また、イエス・キリストの再臨を待ち望む時期である。では、私たちは具体的に、この時をどのような姿勢で過ごしたらよいのでしょうか。

 

 アドベントの第1週によく読まれる言葉として、「目を覚ましていなさい」という言葉があります。ルカによる福音書21章の中でも、《いつも目を覚まして祈りなさい》と書かれていましたね2136節)

ここでの「目を覚ましていなさい」との呼びかけは、居眠りせずにずっと起きていなさい、という意味ではありません。ここで言われているのは、心の目を覚ましていることです。心がまどろみ眠り込んでしまわないように、とこの言葉は呼びかけています。クリスマスが近づいている今、心の目を覚まして、イエスさまの到来に備えなえればならない、との意味を込めて、伝統的にこの言葉がアドベント第1週に読まれます。

 

 

 

神さまの栄光と人間の尊厳

 

 イエス・キリストの到来、そのまことの光の到来について目を覚ましていること。本日はそれを、イエス・キリストを通してもたらされる「神さまの栄光の光」と、「人間の尊厳の光」に目を覚ましていることとしてご一緒に受け止めてみたいと思います。アドベントのこの時期、このまことの光について、私たちはまどろむことなく、目を覚ましていることが求められます。

 

聖書には繰り返し「栄光」という言葉が出てきます。ルカ福音書21章の先ほどの箇所にも出てきました。《そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る27節)

原文のギリシャ語では「ドクサ」と言い、「栄光」とも「尊厳」とも訳すことのできる言葉です。神さまに対しては「栄光」と訳し、人間に対しては「尊厳」と訳すことがふさわしいでしょう。

イエス・キリストの到来を通して私たちに示されるもの、それは神さまの大いなる栄光の光であり、また、その神さまから私たちに与えられる尊厳の光です。クリスマスとは、神さまの大いなる栄光の光が示された日であると同時に、御子を通して、私たちの間に尊厳の光がともされた日です。私たちはその光がすでにともされていることを信じ、またキリストが再び来られる時にその光が完全に私たちを包み込むことを信じています。

 

私たちは日々の生活の中で、この光についての感受性を失ってしまうことが多いものです。ついつい自分自身のことばかり考えて、神さまの栄光のために何かを為す、という想いを忘れてしまいます。そのとき、私たちはまどろみの中にいると言えるでしょう。

と同時に、神さまの栄光のために、と行動していればそれで十分のか、というとそうはなりません。隣り人のために何かを為すことも私たちには大切なことです。隣り人が困っていたり助けを必要としているのにそれを見過ごしているのであれば、私たちは尊厳についての感覚を失っていることになります。そのときやはり私たちはある種のまどろみの中にいると言えるのではないでしょうか。神さまの栄光と人間の尊厳、この両者は本来的に切り離すことができないものです。

 

人間の尊厳とは、言い換えれば、「一人ひとりのかけがえのなさ」ということです。神さまは私たち一人ひとりをかけがえのない存在として愛してくださっています。神さまから私たちそれぞれに与えられている尊厳の光。この光への感受性を失うことなく、いつも目を覚ましていることが私たちに求められています。私たちが互いをかけがえのない存在として大切にし合う時、神さまの栄光の光もまた私たちの間に輝き出でます。

 

 

 

正義の若枝

 

冒頭で、エレミヤ書33章をお読みしました。改めて、1416節をご一緒に読んでみたいと思います。

 

見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。/その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。/その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう

 

ここでは、預言者エレミヤを通して、近い将来、イスラエルの人々のもとに、救いをもたらす《正義の若枝》が与えられるという神の約束が語られています。その名は《主は我らの救い》と呼ばれる――。キリスト教会は伝統的に、この《正義の若枝》がイエス・キリストのことを指し示しているのだと受け止めてきました。

 

 印象的なのは、その救い主が《若枝》(ひこばえ)として表現されていることです。ひこばえは、切り株や木の根元から生え出た若い芽のことですね。おそらくこの聖書個所では、切り倒された木の根元から生え出た若枝がイメージされています。

 ということは、木の本体はすでに切り倒されてしまっているということです。残っているのは切り株だけ。しかし、その切り株から、なおも芽を出し枝を伸ばそうとしている存在が、この《正義の若枝》です。エレミヤは、この《若枝》が、人々に救いをもたらすことを証ししています。

 

 この切り株と若枝のイメージの背後には、イスラエルの民が実際に経験した苦難があります。大樹が切り倒されてしまうような、悲惨な出来事をイスラエルの民は経験しました。その出来事とは、国家の滅亡です。エルサレム神殿は破壊され、人々は離散し、すべてが終わったような現実だけが人々の目の前にあった。切り株はおそらくその悲惨な現実を象徴しています。しかし、その困難な現実のただ中から、なおも芽を出そうとしている存在がある。それが、《正義の若枝》です。

 《正義の若枝》は、人々の痛みや苦しみ、悲しみのすべてを受けとめ、その痛みを共にし、そしてその痛みを癒してゆくため、切り株から芽を出そうとしています。神さまに栄光を帰すため、私たちに尊厳の光をもたらすため、その枝を伸ばさんとしている方であるのです。

 

神さまの《正義》とは、「尊厳がないがしろにされることを、神さまは決しておゆるしにならない」ということです。人々の尊厳が軽んじられ、傷つけられている現実を、神さまは決して見過ごしにはなさらない。私たちが悩み苦しむ現実を、神さまは決して見過しにはなさらない。なぜなら、私たち一人ひとりが、神さまの目から見て、かけがえのない存在だからです。

その正義を果たすべく、キリストは私たちのもとへ来てくださいます。神さまに栄光を、私たちの間に尊厳を確保するため、私たちすべての者に救いとその喜びをもたらすため、キリストは私たちのもとに来てくださいます。私たちもいま、共に目を覚まし、《正義の若枝》なるキリストをお迎えする準備をしたいと思います。