2022年12月11日「喜びの歌をもって」
2022年12月11日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ルカによる福音書1章5-25節、テサロニケの信徒への手紙一5章16-24節、ゼファニヤ書3章14-18節
アドベント第3主日 ~喜びの主日
本日はアドベント第3主日礼拝をご一緒におささげしています。アドベントはイエス・キリストの誕生(クリスマス)を待ち望み、そのための準備をする期間です。アドベントは12月24日まで続きます。
先ほどご一緒に讃美歌242番『主を待ち望むアドヴェント』を歌いました。この讃美歌でも歌われていたように、教会ではアドベントの時期に毎週一本ずつクランツの上のロウソクに火をともしてゆく風習があります。3番はこのような歌詞でした。3番《主を待ち望むアドヴェント、第三のろうそく ともそう。主の恵み 照り輝き、暗闇を照らす。/主の民よ、喜べ。主は近い》。
アドベント第3主日は伝統的に「喜びの主日」と言われます。ここでの喜びとはもちろん、イエス・キリストがこの世界にお生まれになったクリスマスの喜びのことを指しています。《主の民よ、喜べ。主は近い》――25日に私たちはクリスマスを迎えます。クリスマスの喜びはもうすぐそこです。
《いつも喜んでいなさい》 ~キリストと結ばれて
喜びの主日であることと関連して、本日の聖書箇所は喜びに関する言葉が選ばれています。たとえば、先ほど読んでいただいたテサロニケの信徒への手紙一に次の言葉がありました。《いつも喜んでいなさい。/絶えず祈りなさい。/どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです》(テサロニケの信徒への手紙一5章16-18節)。
私たちがいつも喜んでいることを神さまは望んでおられるのだと手紙の著者パウロは語っています。もちろん、いつも喜んでいることは私たちには難しいことです。私たちの目の前には、喜ぶことのできない様々な現実があります。「喜びなさい」と言われても、どうしたら喜ぶことができるのか、戸惑ってしまう方もいらっしゃることでしょう。私たちは生きてゆく中で、心が喜びで満たされるよりも、悲しみで満たされることの方が多いものかもしれません。けれども、たとえいまは私たちの心は悲しみで満たされているのだとしても、それでもなお、尽きることのない喜びがあることを聖書は語っています。それは、イエス・キリストと結ばれていることから来る喜びです。この喜びは、私たち自身ではなく、イエス・キリストご自身より湧き出でています。いつもキリストと結ばれているからこそ、わたしたちはいつも喜んでいることができるのだと受け止めることができるでしょう。
《喜びの歌をもって》
本日の聖書箇所として、旧約聖書(ヘブライ語聖書)からはゼファニヤ書が選ばれています。改めてご一緒に読んでみたいと思います。
ゼファニヤ書3章14-17節《娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。…主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる》。
お読みしました文章の中にも、「喜び」という語が何度も出てきましたね。《喜びの歌をもって》との表現もありました。
ここで語られている喜びは、悲しいことは忘れていまは楽しくやろう、という意味での喜びではありません。いま目の前にある困難な現実、悲しみや痛みを見つめる中で、これから先に与えられる喜びが語られています。いまは悲しみに満ちていたとしても、喜びの日は必ず来る。神さまとイスラエルの民が共に喜びの歌をもって楽しむ日が来る、その約束が力強く語られています。
クリスマスの喜び ~悲しみや痛みを見つめる中で
本日は「喜びの主日」であると申しました。この喜びは、イエス・キリストがこの世界にお生まれになったクリスマスの喜びです。ゼファニヤ書が預言した喜びの日、それが、私たちキリスト者にとってはクリスマスであると受け止めることができるでしょう。
このクリスマスの喜びもまた、悲しみや痛みを見つめる中で与えられるものです。悲しいことや痛みを忘れることで与えられるものではなく、悲しみや痛みを見つめる中で与えられるものであるのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
先ほど読みしましたゼファニヤ書の預言の大部分は、神の裁き(審判)のビジョン、荒廃と滅亡のビジョンで埋め尽くされています。《その日は憤りの日/苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日/闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である》(1章15節)、《わたしは諸国の民を滅ぼした。/彼らの城壁の塔は破壊された。/わたしは彼らの街路を荒れるにまかせた。/もはや、通り過ぎる者もない。/彼らの町々は捨てられ/人影もなく、住む者もない》(3章6節)……。
これらの表現からも分かることは、ゼファニヤ書がその最後に語る喜びと楽しみのビジョンは、いまは暗闇の中にいる人々に向かって語られているのだということです。喜びたくても喜ぶことができない、楽しみたくても楽しめない、まるで暗闇の中を歩いているように、深い霧の中をさまよっているように感じている人々に向かって語られている言葉であることが分かります。 これらのゼファニヤ書の言葉の背景には、北イスラエル王国の滅亡、南ユダ王国の堕落の現実があります。
クリスマスの喜びの前提としてあるのは、私たちの悲しみに満ちた現実、痛みに満ちた現実です。すでに喜んでいる人々に対してというより、いまは悲しんでいる人に対して語りかけられているのがクリスマスのメッセージであるのだとご一緒に受け止めたいと思います。
2022年を振り返って
2022年ももうすぐ終わろうとしています。この1年はどのような1年だったでしょうか。私たちの近くに遠くに、嬉しいことも、悲しいこともありました。この2022年は、私たちの社会を揺るがす、大きな出来事や事件が相次いだ年でもありました。
2月24日、ロシアがウクライナに侵攻、ウクライナでの戦争が始まりました。ロシアとウクライナの戦争は停戦に至ることなく、現在も続いています。
7月8日には安倍晋三元首相が選挙演説中に銃撃を受けて亡くなる事件が起こり、国内外に衝撃が走りました。9月27日には安倍元首相の国葬が日本武道館にて執り行われ、その是非を巡って議論が生じました。
また、この事件を契機として、旧統一協会(現・世界平和統一家庭連合)の問題、カルト宗教の問題が改めて社会問題として注目をされることとなりました。旧統一協会と政治家の癒着の問題、被害者救済新法案(昨日成立)の実効性の問題、カルト宗教2世の問題など、様々な問題が私たちの前に重大な課題として残されています。
国外に目を向けますと、パキスタンでは6月以降、大規模な洪水が発生、国土の3分の1が水没するという非常事態が生じています。パキスタン政府は、この度の洪水被害は気候変動が原因であると発表。私たち人間の活動――特に先進国による経済活動――を要因とする気候変動が甚大なる自然災害を引き起こしている現実が改めて浮き彫りになっています。
また、10月29日には韓国のソウルの梨泰院(イテウォン)で転倒により158名もの方が亡くなるという大変痛ましい事故が起こりました。翌日の30日には、インド・グジャラート州のモルビの吊橋が崩落する事故が発生し、141人もの方が亡くなりました。
12月はサッカー・ワールドカップなどの明るい話題もありましたが、この1年は全体的に悲しいニュース、心痛むニュースが多かったのではないでしょうか。また、皆さんもそれぞれ、この1年、悲しい出来事、辛いことが様々にあったことと思います。
新型コロナウイルスの感染拡大もいまだ続いています。コロナ下にあって、様々な生活の不自由を強いられる生活も3年目となりました。私も8月にコロナ陽性となり、10日間の自宅療養をいたしました。皆さんのお祈りとお支えに感謝いたします。その後は特に後遺症や体の不調はありませんが、現在多くの方がコロナウイルス後遺症によって不調を覚え、生活に困難を覚えています。また、コロナワクチン後遺症によって苦しんでいる方が大勢おられます。ワクチンの影響とは気が付かず、体の不調を覚えている方も多くいらっしゃるであろうことを懸念しています。
ウクライナ侵攻や円安・ドル高の影響などによる物価の高騰も、私たちの日々の暮らしを圧迫しています。どうぞ一人ひとりの命と生活が守られますよう、苦しんでいる方々の上に神さまからの癒しがありますよう、引き続き、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。
悲しみのただ中から、喜びはすでに芽吹いている
この1年の国内外の出来事をご一緒に振り返りました。この2022年は、痛みに満ちた1年であったと言えるのではないでしょうか。私たちの目の前には様々な痛みがあり、悲しみがあり、困難があります。
そのような、この悲しみや痛みに満ちた現実に対して、神さまは喜びの使信を語りかけて下さっていることをご一緒に心に留めたいと思います。いま悲しんでいる私たちに向かって、喜びの時が必ず来ることを約束してくださっていることを心に留めたいと思います。
《いつも喜んでいなさい。/絶えず祈りなさい。/どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです》(テサロニケの信徒への手紙一5章16-18節)。
神さまは私たちが悲しむのではなく、喜んでいることをこそ望んでおられます。私たちがいつも喜んでいるため、神さまは御子イエス・キリストを私たちのもとにお送りくださいました。キリストに結ばれて、私たちがどんなときも、尽きることのない喜びに結ばれるようになるために。いつもキリストと結ばれているからこそ、私たちはいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する、その力が与えられます。
本日はアドベント第3主日礼拝、喜びの主日の礼拝をご一緒におささげしています。たとえいまは私たちの心の内にあるのは悲しみであるのだとしても、喜びの時は必ず訪れることを信じています。
またそして、すでにその喜びは私たちの内に芽吹いていることをも、ご一緒に心に留めたいと思います。悲しみのただ中から、喜びはすでに芽吹いています。それは、いますでに、イエス・キリストと結ばれていることから来る喜びです。
小さな芽のようであったとしても、失われることのないその喜びはいま、私たちの内に芽吹いています。私たちは信仰の目を通して、その確かな芽吹きを視ることができます。また、その喜びはいま、私たちを互いに一つに結びあわせています。
この静かな喜びを共に胸にともしつつ、ご一緒にクリスマスを待ち望みたいと願います。