2022年4月10日「ゲツセマネの祈り」

2022410日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:イザヤ書5047節、フィリピの信徒への手紙2511節、マルコによる福音書143242

ゲツセマネの祈り

 

 

受難週

 

私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節は、イエス・キリストのご受難とその十字架への道行きに思いをはせる時です。特に今週は受難節の最後の週の「受難週」に当たります。14日の木曜日には洗足木曜日礼拝を行い、15日の受難日の金曜日には受難日祈祷会を行う予定です。ご都合の宜しい方はご参加ください。

 

 

 

ゲツセマネの祈り

 

いまお読みしました聖書箇所は、「ゲツセマネの祈り」と呼ばれる場面です。イエスさまは十字架への道を歩まれる直前、弟子のペトロたちを伴ってゲツセマネという場所で祈りをささげられました。祈りをささげられた直後、イエスさまは逮捕され、裁判にかけられることとなります。

 

受難の道を歩まれる直前にささげられたこのゲツセマネの祈りは、福音書の中でもとりわけ私たちの心に強烈な印象を残す箇所です。イエス・キリストの人間的な苦悩が、率直に記されている箇所でもあるからです。恐れに囚われ、困惑するイエス。深い悲しみと苦しみの中で、身もだえするイエス。私たちとまったく同じ、一人の人間としてのイエスさまのお姿が、ここには生々しく刻まれています。

 

 

 

神との断絶

 

改めて、冒頭の3234節をお読みいたします。マルコによる福音書143242節《一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。/そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、/彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」》。

 

ゲツセマネを訪れたイエスさまは、弟子たちを待たせて、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて、祈りをささげられました。印象的であるのは、その際、イエスさまが《ひどく恐れてもだえ始め》られた33節)と記されている点です。《ひどく恐れて》と訳されている言葉は、原語では「ひどく驚いて」「驚愕して」との意味をもつ語です。その意味合いを活かして訳し直しますと、「イエスさまはひどく驚いて、もだえ始められた」となります。この時、イエスさまの内面に何らかの衝撃が走ったことが伺われます。

イエスさまはペトロたちにおっしゃいます。《わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい34節)。《死ぬばかりに悲しい》というのも、驚くべき言葉です。ここで、イエスさまの身にいったい何が生じていたのでしょうか。

 

 マルコによる福音書はその理由をはっきりとは記していません。私なりに思うことは、イエスさまはこの時、「神とのつながりが絶たれた」感覚に陥られたのではないか、ということです。より率直な表現をしますと、神から「見捨てられた」という感覚です。愛してやまないアッバ(父)から、自分は「見捨てられた」! その想いが魂を貫き、イエスさまはひどく驚愕されたのではないかと私は受けとめています。

 

 神の独り子であるイエスさまが、突然、神との断絶を味わわれた。愛する父から見捨てられ、この地上に独り投げ出されているような感覚になられた。イエスさまが何を問いかけても、もはや愛する父は何もお答えにならない。光は失せ、深い暗闇が自分を包み込んでいる。その悲しみ、絶望感の中で、イエスさまは身もだえをなさったのだと私は受け止めています。

 

 

 

愛する弟子たちとの断絶

 

 父との断絶を味わう中で、イエスさまにとっての頼みの綱は、そばにいるペトロとヤコブとヨハネだけであったでしょう。イエスさまは傍らにいる弟子たちに懇願します。《わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい》。

 

ここで、イエスさまにとっての唯一の光は、そばにいる愛する弟子たちの存在であったのではないでしょうか。しかし、弟子たちはイエスさまのその悲しみを理解せず、まどろみの中に落ち込んでゆきます。眠りの中に落ち込んでゆきます。イエスさまから繰り返し「目を覚ましていてほしい」と懇願されたにも拘わらず、三回とも眠りの中に落ち込んでいってしまいました。そして実際、この直後に弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げ去ってゆきます。自分を拒絶するかのように眠り込む弟子たちの姿を見ながら、イエスさまは間もなく愛する弟子たちからも「見捨てられる」ことを悟られたでしょう。この瞬間、イエスさまの最後の望みの光は失われました。

 

 

 

「神が共におられない」欠乏感の中で

 

 愛する神から断絶され、愛する人々からも断絶された恐ろしい暗闇の中で、イエスさまは祈りをささげられます。36節《アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように》。

 

ここでの《杯》とは、これから起こる受難を意味し、そして十字架の死を意味しています。イエスさまにとって、その死が、神と隣人から見捨てられた中での死であることが、何より激しい苦痛であったのではないでしょうか。事実、イエスさまは十字架の上で、絶叫して息を引き取られます。《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか1534節)

 

 このゲツセマネにおいて、イエスさまはこの苦しみが自分から過ぎ去るようにと懸命に祈られました。しかし、「自分が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とも祈られました。

イエスさまはこの祈りを、「神が共におられる」という信頼感の中で祈られたのではありませんでした。そうではなく、「神が共におられない」欠乏感の中で、激しい渇きの中で、この祈りを祈られたのだと私は受け止めています。沈黙し続けている神に向かって、自分の問いかけに何も答えない神に向かって、もしかしたらもはや自分の前には「存在しない」のかもしれない神に向かって、祈りをささげ続けられたのです。《しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように》――。

 

祈りをささげ終わった後、イエスさまは立ち上がり、ただ独りで、十字架に向かって歩んでゆかれることとなります。《あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。/立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た4142節)。愛する神が不在の中で、愛する友が不在の中で、十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩んでゆかれることとなります。

 

 

 

私自身の経験

 

イエスさまのこの言語を絶するゲツセマネの経験と比べるべくもありませんが、この主の苦しみをほんのわずかに、自分なりに実感することができた経験があります。牧師になろうと決めて、神学校に入学してからのことです。神学生になってしばらくして、私は「神さまとのつながりが絶たれた」という感覚に陥ったことがありました。

 

神学校に入るまでは、私の内面は「神さまがいつも共におられる」との感覚で満たされていました。どんなときも神さまが共にいて下さるのだという心の平安がありました。しかし、神学校に入ってしばらくすると、その感覚がだんだんと消えていってしまったのです。光が失われ、天が暗くなってゆく感覚と言いましょうか。神さまと自分がかたく結ばれているという感覚があった分なおさら、その断絶の感覚は私に苦痛を与えるものでした。

 

神さまとの断然の感覚は、さらに、隣人とのつながりの断絶の感覚にもつながってゆきました。大切な人々に囲まれながらも、自分はこの大地の上にただ独りで投げ出されている、そのような感覚に陥るようになりました。

 

私たちには時に、このようなことが起こるようです。信仰を持ちながら、同時に、深刻な神の不在感に苦しむ経験をすることが、私たちの人生には起こるようです。このような「暗闇の経験」(詩編8819節)というものは、この人生の旅路において、誰もが経験することであると思います。

 

 

 

十字架のキリストと結ばれる

 

 そのような苦しい感覚でいる中、自分自身が「十字架のキリストと結び合わされている」と感じた瞬間がありました。神とのつながりが絶たれ、人々とのつながりが絶たれたその暗闇の中で、自分がキリストと一緒に十字架にかかっているように感じたのです。十字架に磔にされた自分の背後で、イエスさまが共に十字架におかかりなっているように感じました。

 

イエスさまは私の背後で、私と共に苦しみ、共にうめいてくださっていました。そのことを理解したとき、私は深い慰めを感じました。いまだそこには差し込む光もなく、自分を包んでいるのは暗闇でありましたが、この暗闇の中に、確かな恩寵があるように感じました。それは光というより、自分の存在の核に触れる「熱」として感じられるものでした。

 

 

 

マザー・テレサの知られざる内的苦悩

 

そのような経験をした次の日の朝、神学校で同じ寮生であった友人がふと、ある修道女のお話をしてくれました。その修道女の方は、貧しい人々や病気の人々のために、自分の生涯をささげた方です。その方はいつも人々にやさしく微笑みかけ、多くの人々に愛を与え続けた方でした。彼女を慕い、彼女の信仰に心打たれた人々が世界中から集まってきていました。

その方の死後、彼女が霊的な指導者の神父に宛てた手紙が公にされたことを友人は教えてくれました。その手紙の中には、周りの人々が知ることがなかった彼女の内面が率直に記されていたそうです。そこには、彼女が自分の内に秘めていた苦悩が綴られていました。「自分は神がいるということが、いま信じられません」、「私はもう、神に愛されていません」、「イエスさまがいなくなってしまいました」、「見捨てられ、自分は独りぼっちです」、「すべてを投げ出したい」、「私の心には信仰がありません。愛も信頼もありません。あまりにもひどい苦痛があるだけです」、「私はもう祈りません」……。深い暗闇を経験する中で、それでも彼女は何と50年間、貧しい人々や病気の人々のために働き続けたのです。この方が、皆さんもよくご存じのマザー・テレサです。

 

揺るぎない信仰者というマザー・テレサのイメージとあまりに異なったこれらの手紙は、関係者のみならず、世界中にショックを与えました。手紙は『Come Be My Light』という一冊の本にまとめられ出版されることとなりますが、出版に先立って、その内容が2007年のタイム誌でも取り上げられ、世界的に話題にもなりました。2014年には『Come Be My Light』の日本語訳が出版されましたので(『来て、わたしの光になりなさい!』女子パウロ会)、お読みになった方もいらっしゃることと思います。医学的な視点から言うと、マザー・テレサは長年にわたり、何らかの深刻な心の病いを抱えていたのだと判断することもできるかもしれません。しかしそのような理解だけでは説明しきれない、非常に霊的な側面がそこには認められます。

 

 

 

暗闇への召命 ~十字架のキリストと結びつくため

 

マザー・テレサの内面を暗闇が襲ったのは、召命を受けて、修道院を離れてインドのカルカッタで貧しい人びとのために働こうとした矢先のことでした。これからいよいよカルカッタで働こうとしていた矢先に、深い暗闇がマザーを襲ったのです。

それまでは、マザーの内には常に「主が共におられる」との喜びに満ちた感覚があったそうです。まるで恋人のような、婚約者のような親密な結びつきをイエスさまに感じていたそうですが、そのつながりが突然、絶たれてしまった。神の臨在を感じることができる者であったからこそ、神の不在がよりはっきりと分かったことでしょう。その渇きが耐え難く感じられたことでしょう。

 

当初、マザーはなぜ自分にそのようなことが起こったのか理解できず、混乱の中にあったそうです。マザーは苦しみの中で、この出来事が一体何を意味しているのか、懸命に考え続けてゆきました。そうしてマザーが見出したことは、自分は十字架のキリストと結びつくため、暗闇のただ中に召されているのだということでした。自分は確かにイエス・キリストから召命を受けた。そしてそれは暗闇への召命であったことを少しずつ理解していったのです。

 

暗闇のただ中で、十字架のキリストと結びつく。その「渇き」と結びつく。そのことによって、いま現実に暗闇のただ中にいる人の苦しみと結びつく道が開かれてゆく。マザーはそのように受け止めたのでした。自分自身が暗闇になることによって、十字架のキリストの苦しみと結びつき、そしていままさにカルカッタの道端で死んでいこうとする人々の苦しみと結びついているのだ、と。

 

マザーの心の苦しみは生涯消えることがなかったようです。しかし、たとえ痛みや悲しみは消えなくても、その受け止め方に大きな変化が生じて行ったのであり、それがマザーにとっての救いとなっていったのではないかと思います。

 

 

 

暗闇の中を生きる私たちすべてと結びつくため

 

 私は友人からマザー・テレサの手紙のことを聞いて、さまざまなことが腑に落ちた気持ちになりました。マザーがなぜ暗闇を経験せねばならなかったのか。この度の経験を通して、自分なりに理解ができた気持ちになりました。そして改めて、私はイエスさまのあのゲツセマネの祈りを、イエスさまの十字架の道行きを想い起こしました。

 

 イエスさまは、絶望の中で孤独に死んでゆく人々結びつくために、十字架にかかってくださいました。ご自身が神の不在に苦しみ、人々から裏切られ、見捨てられ、絶望の中で死んでゆくことによって。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と十字架の上で絶叫することによって。そのことを通して、暗闇の中を生きざるを得ない私たちすべてのものと結びつく道を拓いてくださいました。苦しみを苦しみで終わらすのではなく、共なる苦しみ(共苦)へと至らせる道を切り拓いてくださいました。

 

 

 

暗闇の恩寵

 

私たちは人生の中で、それぞれの「ゲツセマネ」に直面する瞬間があることと思います。生きている限り、私たちは深い暗闇に向き合わざるをえない瞬間があるでしょう。

たとえいまは復活の光を見出すことができなくても、しかし、暗闇のただ中に十字架の恩寵があります。いまだ苦しみは苦しみとしてあり続けているのだとしても。痛みや悲しみは消えることがなくても。いまだ私たちを包むのは暗闇であるのだとしても。「暗闇の恩寵」というものがこの世界にはあるのであり、それが私たちにとっては、十字架のキリストです。

 

 

暗いゲツセマネ。ここには誰もいません。神さえもおられません。暗闇の中、ただ、十字架にかけられたキリストだけが、共におられます。何ものも、どんなものも、イエスさまが結んでくださっているこの愛のつながりから私たちを引き離すことはできない(ローマの信徒への手紙83839節)のだと信じています。