2022年4月24日「あなたがたに平和があるように」
2022年4月24日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編145編1-13節、コリントの信徒への手紙二4章7-18節、ヨハネによる福音書20章19-31節
22年度の年間主題聖句、祈りの課題
新しい年度がはじまり、数週間が経ちました。進学や就職で新しい生活を始めた皆さんも、少しずつ慣れてきた頃であるかと思います。私たちが住む花巻は、先週が桜が満開でした。新しい地で生活をしている皆さんの上に、神さまの祝福とお支えをお祈りしています。
先週の4月17日、私たちはイースター礼拝をおささげしました。現在、教会の暦で「復活節」の中を歩んでいます。イエス・キリストのご復活を心に留め、復活の命の光を希望として歩む時期です。本日は復活節第2主日礼拝をおささげしています。
本日は礼拝後に教会総会を開催する予定です。ご都合の宜しい方はご無理のない範囲でご参加ください。
2022年度の年間主題聖句として、昨年度に引き続き、コロサイの信徒への手紙3章14節を選びました。《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。
2022年度の祈りは以下の通りです。ご一緒に祈りに覚えていただければ幸いです。
・長らく礼拝に来ることができていない方々を覚えて
・地域に根ざし、地域の課題を共に担う教会となることができますように
・東日本大震災、原発事故を覚えて
・長期化する新型コロナウイルス感染拡大が収束へと向かいますように
・新型コロナウイルス後遺症、新型ワクチン後遺症によって苦しんでいる方々を覚えて
・ウクライナでの戦争が一刻も早く停戦に至りますように
・神の国の福音を土台とし、一人ひとりの生命と尊厳が大切にされる社会を目指して、自分にできることを行ってゆくことができますように。
様々な困難が私たちの目の前にありますが、共に祈りあい、支え合いながら、今年度も皆さんとご一緒に歩んでゆけることを願っています。
「あなたがたに平和があるように」
冒頭でヨハネによる福音書20章19-31節をお読みしました。復活したイエス・キリストが弟子たちの前に現れる場面です。改めて、本日の物語を振り返ってみたいと思います。
それは、イエスさまの十字架の死から三日目、イースター当日の夕方のことでした。残された弟子たちは家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。この弟子たちというのは、イエスさまが逮捕されるとき、師を見捨てて逃げてしまった弟子たちです。
弟子たちは、「ナザレのイエスの仲間だ」ということで自分達も捕らえられるのを恐れて、家の中に閉じこもっていたようです。またそして、彼らが閉じこもっていたのは、愛する師を見捨てて逃げてしまったことの激しい罪悪感も関係していたことでしょう。自分たちは取り返しのつかないことをしてしまったという罪の意識を感じていたのではないかと想像します。恐れと失望と激しい罪悪感の中で、弟子たちは家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。「もうすべては終わってしまった」、そういう意識の中で、皆押し黙り、座り込んでいたのではないでしょうか。
そこへ、よみがえらえたキリストが現れます。イエスさまは彼らの真ん中に立たれ、《あなたがたに平和があるように》とおっしゃいました(19節)。
よみがえられたイエスさまの第一声。この第一声が、自分を深く傷つけた弟子たちに対する恨みの言葉ではなく、激しい怒りの言葉でもなく、彼らの平安を願う言葉であったところに心打たれます。
手と脇腹の傷
「あなたがたに平和があるように」とおっしゃった後、イエスさまは手と脇腹とをお見せになった、と福音書は記します(20節)。これは、手と脇腹に刻まれた十字架の傷跡を弟子たちにお見せになったことを示しています。
手の傷は釘を打ち込まれた際の痕、脇腹の傷は槍で突かれた際の痕です。これらの傷跡は絵画でも伝統的に描かれているものですね。弟子たちに手と脇腹を見せたというこの不思議なジェスチャーは、何を意味しているものなのでしょうか。
手と脇腹に刻まれた傷跡は、イエスさまの十字架のお苦しみを象徴しているものです。またそして、イエスさまを裏切った弟子たちの罪、イエスさまを十字架の死に追いやった人間の罪を象徴するものでもあります。ご自分の苦しみと人間の罪を象徴する傷跡を、ここであえてイエスさまはお見せになっているのです。
私たちは心に傷を負ったとき、それを隠してしまうものではないでしょうか。もしその傷が表面化されれば、内に秘めている激しい痛みや怒りが湧き上がってきてしまうからです。自分でもどんな怒りの言葉、恨みの言葉を発してしまうか分からないからです。ですので、普段、私たちは負った傷をなるべく隠すようにしています。
しかし本日の場面において、イエスさまはご自分の傷を隠すことはなさいません。「隠していない」ということは、「ゆるしている」ことにつながっています。自分に深い傷を負わせた弟子たちに、その傷跡をはっきりと見せることを通して、イエスさまは「ゆるし」のメッセージを伝えられたのだ、と本日はご一緒に受け止めたいと思います。イエスさまは傷跡をあえて見せることによって、弟子たちを「ゆるしている」ことを伝えられたのです。だからこそ、弟子たちはそのイエスさまのお姿を見て喜んだのでしょう(20節)。
私たちにとって難しい主題 ~「ゆるし」
本日の場面の主題の一つとして、「ゆるし」があります。「罪のゆるし」は聖書全体の重要な主題の一つですが、同時に、私たちにとってとても難しい主題です。
そもそも、「ゆるし」という言葉自体が、どのように受け止めたら良いのか難しい言葉です。私たち自身は、なかなかゆるすことができません。人の過ちがなかなか「ゆるせない」し、自分自身の過ちもゆるせない。聖書の「ゆるしなさい」という言葉を聞く度、それができていない自分を責める気持ちも湧いてきます。
また、私たちの社会には、ゆるしてはならないと思える事柄もあります。差別や暴力、さまざまな不正。聖書は「ゆるしなさい」と言うけれど、では、それら不正義をゆるしてしまっていいのだろうか、との疑問が湧いてくることもあるでしょう。
主のお身体から傷跡は消えない
まず一つ言えることは、聖書が語る「ゆるし」とは、不正をなかったことにしたり、見過ごしたりすることではない、ということです。
福音書には、人間の尊厳がないがしろにされている現実に対して激しく憤られたイエスさまのお姿が記録されています。尊厳がないがしろにされている現実を、神さまは決して見過ごされない、なかったことにはなさらないことは、聖書が一貫して伝えている真理です。聖書が語る「ゆるし」とは、不正をなかったことにしたり、うやむやにして見過ごすことではありません。このことは、弟子たちがイエスさまを見捨てて逃げてしまったことが福音書にはっきりと記録されていることからも分かるでしょう。それらの過ちはなかったことにはされないのです。
また何より、イエスさまのお体の傷跡が、そのことを物語っています。人々の罪責により、イエスさまは十字架の死に追いやられました。イエスさまを虐待し死に追いやった人々の罪は、なかったことにはされません。私たちが忘れてはならないのは、「イエスさまのお身体から傷跡は消えない」ということです。たとえ私たちが自分の過ちを「知らない」と否定しても、イエスさまのお体には負わされた傷跡が厳然と残されているのであり、それは何より、神がご存じでしょう。この社会において起こった不正、また教会において起こった不正を、私たちはなかったことにすることはできないのです。
「ゆるし」 ~「あなたは生きていてよい」という神の声
私たちの犯してしまった過ちの事実は、消すことはできない。なかったことにはできない。と同時に、その過ちゆえに、「すべてが終わってしまう」のでもありません。私たちには必ず再出発する道が備えられている、ということも、聖書が力強く語っている真理です。
聖書が語る「ゆるし」とは――私なりに言葉にすると、「あなたは生きていてよい」という神さまの声を聴くことです。さまざまな過ちを犯してしまう私たちが、不完全な私たちが、それでもなお、「生きていてよい」のだ、と。存在の肯定、それが聖書が語る「ゆるし」です。
罪悪感は私たちの内から生きる力を失わせてゆく
自分が他者に対してしてしまったひどいこと、そのさまざまな過ちの記憶を思い起こす度、私たちは辛い気持ちになってゆきます。頭から血の気が引いたようになり、体から力が失われてゆきます。時には、「自分には生きる資格がないのではないか」「自分はもう生きていてはだめなのではないか」とまで思い詰めてしまうこともあります。
また、他者にされたひどいことをどうしてもゆるせない自分もいることでしょう。そのゆるせない自分をゆるせない、ということもあるでしょう。他者からされたひどい言動を思い起こす度、私たちの傷口はうずき、激しい怒りが湧き上がってきます。また怒りと共に、そのような自分に対して、罪悪感が込みあがってきます。
このような怒りや罪悪感は、私たちの内から生きる力を失わせてゆきます。自尊心を失わせ、やがて自分で自分を価値のない存在のように思わせてゆきます。「もうすべてが終わってしまった」かのような感覚にさせてゆくのです。
そのように、否定的な感情の渦の中でうずくまり、立ち上がれなくなっている私たちに対して、神さまは「あなたは生きていてよい」と語りかけてくださっています。この声が、聖書が語る「ゆるし」の声であると本日はご一緒に受け止めたいと思います。
神さまの愛とゆるし
「あなたは生きていてよい」――十字架の死よりよみがえられたイエスさまが、そう語りかけてくださっている。手と脇腹の傷跡を見せながら、そう語りかけてくださっている。人のことがゆるせない、自分自身がゆるせない、そのような私に対して。
なぜなら、神さまの目から見て、あなたという存在が、かけがえなく貴い存在であるからです。決して失われはならない存在であるからです。
イエスさまは、人をなかなかゆるすことができないこの私たちを、ゆるしてくださっています。ゆるせなくても、いい。ゆるせないあなたでもいい。そのままのあなたで、わたしのもとへ来なさいと招いて下さっています。手と脇腹の十字架の傷跡を示しながら、私たち一人ひとりに、「それでも、あなたは生きていて、よい」と語りかけて下さっています。
この愛とゆるしの声が、私たちに生きる力を与えます。私たちに再び立ち上がってゆく力を与えてくださいます。聖書が語る「ゆるし」とは、私たち自身の力によるゆるしなのではありません。人をゆるせない、自分もゆるせない、むしろそれが私たちの普段の率直な姿です。聖書が語るのは、そのような私たちに対する神さまの「ゆるし」です。そのような私たちをあるがままに包む、神さまの愛とゆるしであるのです。
《聖霊を受けなさい》 ~命の息を吹き入れられて
イエスさまは弟子たちに「平和があるように」と言われた後、彼らに息を吹きかけて、《聖霊を受けなさい》とおっしゃいました(22節)。
「聖霊を受ける」とは、この神さまの愛とゆるしの言葉を受けとることであると本日は受け止めたいと思います。この愛とゆるしの言葉は私たちの内で命の息となり、私たちを生かしてくださいます。私たちを新しく生きる者としてくださいます。創世記において、アダムが神さまから命の息を吹き入れられ、新しく生きる者となったように(創世記2章7節)。
家の中に閉じこもっていた弟子たちもまた、イエスさまからこの聖霊の息吹を受けて、再び立ち上がり、キリストの平和を告げ知らせる者となってゆきました。
「あなたは生きていて、よい」――神さまの命の言葉は次第に私たちの内からあふれ出し、互いを支え合うものとなってゆくでしょう。自分の周囲に、この社会に、少しずつ平和を創り出してゆく力となってゆくでしょう。この主のゆるしの声を私たちの真ん中に置くとき、私たちは自らの過ちにも、社会のさまざまな罪責にも、勇気をもって向かい合ってゆくことができるのだと信じています。
どうぞここに集ったお一人おひとりの心に、キリストの平和がゆき渡りますように祈ります。