2022年4月3日「人の子は仕えられるためではなく仕えるために」」
2022年4月3日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:哀歌3章18-33節、ローマの信徒への手紙5章1-11節、マルコによる福音書10章32-45節
新しい年度になり……
4月になり、新しい年度の歩みが始まりました。花巻教会のメンバーの中にも、この4月から、新しい地での生活を始める方々がいらっしゃいます。新たな生活の上に神さまの祝福が豊かにありますように、健康が支えられますようにお祈りしています。
私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。イエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。いまお読みした聖書の中にも、イエスさまご自身の受難の予告の言葉がありました。いよいよ十字架への道を歩むためエルサレムに向かう途中で発された言葉です。
マルコによる福音書10章33-34節《今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。/異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する》。
結びの部分では、受難の予告と共に、復活の約束の言葉も加えておられます。
受難節のこの時、イエスさまのお苦しみに心を向けつつ、復活の命の光を希望としつつ、ご一緒に一歩一歩歩んでゆきたいと思います。また、いま苦しみの中にある方々を覚え、自分にできることを行ってゆきたいと思います。
サーバント・リーダー
「サーバント・リーダー」という言葉があります。近年、企業や大学でも取り入れられている考え方であるので、お聞きになったことがある方もいらっしゃるかと思います。アメリカのロバート・K・グリーンリーフ(1904~1990年)という方によって、1969年に初めて提唱された言葉で、以来多くの人々によって支持され、また発展させられてきた概念です。
このサーバント・リーダーの特徴は、「サーバント(奉仕する人)」と「リーダー(導く人)」という一見相容れないように思える言葉が組み合わされている点ですね。「サーバント」は第一義として「召使い、使用人」の意味も持っています。言い換えると、「奉仕型リーダー」。ぐいぐいみんなを引っ張ってゆくタイプのリーダーではなく、むしろ率先して奉仕をしつつ、同時にみんなを導いてゆくタイプのリーダーです。リーダーシップの危機が叫ばれ、まことのリーダーシップとは何かが問われている昨今、この奉仕型リーダーシップの考え方は、よりその重要性を増してきているとも言われます。
サーバント(奉仕者)とリーダー(指導者)。では、どちらの役割が先にあるのかと申しますと、それは「奉仕」です。サーバント・リーダーシップを提唱したグリーンリーフさんいわく、《サーバント・リーダーとはそもそもサーバントである》。サーバント・リーダーとなる人は、そもそも、人や社会に奉仕したいという自然な感情がある人だというのですね。以下、グリーンリーフさんの著作から文章を一部引用してみたいと思います。
《サーバント・リーダーとはそもそもサーバントである。レーオ(鈴木注:ヘルマン・ヘッセの小説『東方巡礼』の登場人物)のように。まず奉仕したい、奉仕することが第一だという自然な感情から始まる。それから、意識的な選択が働き、導きたいと思うようになるのだ。そうした人物は、そもそもリーダーである人、並々ならぬ権力への執着があり、物欲を満足させる必要がある人とはまったく異なっている。そもそもリーダーである人にとって、奉仕は後回しにされる――リーダーシップが確立されてからになる。つまり、そもそもリーダーである人と、そもそもサーバントである人とは両極端なのだ。ただし人の性格はさまざまだから、その度合いは異なるし、両方の性質が混ざった部分もある》(『サーバントリーダーシップ』Kindle版、金井壽宏監訳、金井真弓訳、英知出版、2014年、54頁)。
グリーンリーフさんの考え方の画期的だったところは奉仕とリーダーシップという一見対照的な役割を一つに結び合わせたところですが、もちろん、みんなを引っ張るタイプのリーダーシップがすべて間違っているわけではありません。それぞれが自分の性格に向いている在り方を模索してゆくのが良いでしょう。また、引用した文章の結びにあるように、濃淡はあったとしても私たちの内にはそのどちらの性質も共存しているのだとも言えます。
聖書の教えとのつながり
サーバント・リーダーシップを体現している存在として、多くの人が頭に思い浮かべるのが、イエス・キリストではないでしょうか。実際、この言葉を提唱したロバート・K・グリーンリーフさんはクリスチャン(クエーカー教徒)でした。サーバント・リーダーシップの考え方と聖書の言葉とが深いつながりがあることは多くの人によって指摘されています。グリーンリーフさん自身はヘルマン・ヘッセの小説(『東方巡礼』)から「サーバント・リーダー」の直接のインスピレーションを得た(同、44-46頁)とのことですが、この考え方と聖書の教えとが深く共鳴し合っていることは確かなことでありましょう。
特に関連があると言われているのが、本日の聖書箇所の中に出てきた次のイエス・キリストの言葉です。イエスさまが王座に着かれる日にはその右と左に座りたい願う弟子たちに対して、イエスさまはおっしゃいました。
《あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。/しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、/いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい》(マルコによる福音書10章42-44節)。
「仕える」は「奉仕する」と言い換えることができる言葉です。あなたがたの中で偉くなりたい人(リーダーとなりたい人)は、皆に仕える人(サーバント)になりなさい。一番上になりたい人は、すべての人の僕になりなさい――。まさに、サーバント・リーダーシップの精神を言い表しているような言葉ですね。グリーンリーフさんの著書『サーバントリーダー』の中では直接このマルコ福音書の言葉は引用されていませんが、深いつながりがあることを思わされる言葉です。
奉仕を意味するギリシャ語「ディアコニア」が元来持つイメージは、「食卓で給仕をすること」だそうです。そこから「仕えること」「奉仕すること」を意味する言葉ともなりました。食卓で給仕をするイメージでたとえれば、指導者となる人は食卓で上席に座ることを求めるのではなく、むしろ率先してみなのために給仕をして奉仕をしなさい、となるでしょう。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために
リーダーになりたい人は、まず第一にサーバント(奉仕をする人)になりなさい。そう弟子たちにお教えになったイエスさまは、続けて、こうおっしゃいました。《人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである》(45節)。
《人の子》とはイエスさまご自身のことです。他ならぬ、イエスさまご自身が、《仕えられるためではなく仕えるため》に私たちのもとへ来て下さったことが述べられています。
福音書は、すべての人の上に立つ存在であるはずの神の子イエス・キリストが、すべての人に「仕える」存在になってくださったことを語っています。イエスさまは悩み苦しむ人々を自らお訪ねになり、その痛みに寄り添い、奉仕し、癒しと解放へと導いてくださいました。言葉だけではなくその振る舞いを通して、他者に仕える姿勢を体現してくださいました。
そして、45節の言葉にある通り、イエスさまはそのご生涯の最後に、私たちのためにご自分の命をささげて下さいました。十字架の上で裂かれたお体を命のパンとして、流された血を命の水として、私たちに与えてくださいました。十字架の上で、命を懸けて、イエスさまは私たちのために奉仕(給仕)をしてくださったのです。
「滅私奉公」ではなく「活私開公」
本日はサーバント・リーダーという言葉を手掛かりとして、聖書が語る「奉仕」について、ご一緒に考えてまいりました。聖書においては、まず第一に「仕えること」「奉仕すること」が大切なものとされていること。そしてイエスさまが、命を懸けて、私たちのために奉仕(給仕)をしてくださったことを共に聴きました。
このことに付随して、ご一緒に心に留めたいことがあります。それは、私たちは奉仕を大切にしつつ、それを他者に強要することになってしまってはならないことです。本人の意思を尊重することなくそれを強いてしまうことのないよう、私たちはよくよく気をつけていなければなりません。「奉仕をしたい」と思って奉仕することと、奉仕を強制されて奉仕をすることは、まったく別の事柄です。誰に強要されるのでもなく、自分の内からの自然な促しに従って奉仕をする在り方こそ、私たちにとって大切なものでありましょう。
またもう一つ心に留めたいことは、その奉仕が、かけがえのない命や人生を犠牲にするようなものであってはならないことです。自分や他人の人生が犠牲にされるかたちでの奉仕は、本来あってはならないことだと思います。
戦時中には、「滅私奉公」という言葉が使われていましたね。私を滅ぼして(殺して)、公=天皇と国のために仕えることを良しとする言葉です。当時といまとでは状況は異なりますが、滅私奉公を強いること、あるいは強いられることは、いまの時代もいつでも起こり得るものだと思います。たとえば、現在の私たちの社会においても、組織のために自他を犠牲にして奉仕することが強要されることがあるでしょう。またこの度のウクライナでの戦争においては、国の存立のために、ウクライナの人々の命と人生を犠牲にすることが要請される事態が生じています。
滅私奉公の強要は、教会においても起こり得ることでしょう。いやむしろ、奉仕の大切さを説くことが多い教会であるからこそ、滅私奉公の強要が容易に起こってしまうものだと思います。
東京基督教大学教授の稲垣久和先生が、「滅私奉公」に対して、《活私開公》という言葉をご紹介していらっしゃいました(稲垣先生オリジナルの言葉だと思います)。これからは、「滅私」――私を滅ぼす方向ではなく、「活私」――私を積極的に活かすあり方が重要であるのだ、と。またその際、「奉公」――公(お上)に対する奉公ではなく、「開公」――公共に貢献する開かれた姿勢が大切なものとなります。
稲垣先生の《活私開公》で重要であると思うのは、この「私」が、「かけがえのない私」である点です。以下、文章を一部引用いたします。《ここで「私」の意味は「自己」であり同時に「個人」であるような人格ということです。かけがえのない私、他にかえがたい希少価値としての私、人権や権利の主体である私、ということです》(『改憲問題とキリスト教』、教文館、2014年、77頁)。
滅私奉公を他者に強いるとき、決定的に抜け落ちているのは、「神さまの目に、一人ひとりの存在がかけがえなく貴い」との視点です。私たち一人ひとりは神さまから見て、かけがえがない=かわりがきかない大切な存在であり、だからこそ機械のように他者を支配する・他者から支配されることがあってはならないのです。
十字架上の、「ただ一度きり」のご奉仕
先ほど、イエスさまが十字架の上で、その命を懸けて、私たちのために奉仕をしてくださったことを述べました。この十字架上でのご奉仕は、「ただ一度きり」のものです。私たちがこれ以上、犠牲をささげ続ける必要がないように、イエスさまは十字架の上で全人類のため、自ら、その身を命のパンとしその血を命の水として差し出してくださいました。神さまの目にかけがえのない一人ひとりが誰一人失われることのないように、最初で最後の奉仕をしてくださいました。
この神の御子の犠牲は、「ただ一度きり」の犠牲です。私たちはもはや、自分の命と尊厳を犠牲にする必要はありません。自分や他者の人生を犠牲にし続ける必要はありません。私たちがなすべきことは、イエスさまの大いなるご奉仕を前に、その愛と恵みをただ受け取ることだけです。そしてその愛と恵みに生かされ、導かれながら、喜びをもって生きてゆくことです。
まことのサーバント・リーダーなるイエス・キリストはいまも私たちと共にいてくださいます。まことの奉仕者として私たちに愛と恵みを与え、まことの指導者として私たちの歩みを導き続けてくださっています。イエスさまの愛と恵みの中で、私たちが自分を活かし、隣人に奉仕し神さまに奉仕してゆく道を歩んでゆくことができますように。神さまにご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。