2022年5月8日「新しい掟」
2022年5月8日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:レビ記19章9-18節、ヨハネの手紙一4章13-21節、ヨハネによる福音書13章31-35節
2022年度主題聖句 ~《愛はすべてを完成させるきずな》
ゴールデンウィークも最終日となりました。皆さんはこの連休はいかがお過ごしだったでしょうか。この数日は初夏を思わされるような陽気が続いていました。桜はすっかり葉桜になりましたが、近くの市役所に続く通りの斜面はツツジの鮮やかな赤やピンクで色づいています。
新年度が始まり、1か月ほどが経ちました。私たち花巻教会は今年度の主題聖句として、昨年に引き続きコロサイの信徒への手紙3章14節を選んでいます。《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。先週のメッセージでも、この聖句について少しお話ししました。今年度もご一緒に聖書が語る愛を心に留めて歩んでゆきたいと思っています。
2018年に出版された聖書協会共同訳では、この部分は《さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です》と翻訳されていました。「きずな」と訳すか、「帯」と訳すかで、また少しイメージが違ってきますね。
この14節の前の部分では、怒りや憤りや悪意、そしりに基づいた言動を「脱ぎ捨て」、憐れみの心や慈愛、謙遜、柔和、寛容さを「身に着ける」べきことがすすめられています。衣服のイメージで語られているのですね。そのイメージを踏まえると、聖書協会共同訳の「帯」という翻訳もまたふさわしいものであることが分かります。
憐れみの心や慈愛、謙遜、柔和、寛容などの徳目を身に着けるべきことは大切ですが、愛がないと、それらの徳目は本当には身に着かない。それはまるで「帯」がない着物のように、私たちの体からずり落ちてしまう。愛こそはこれらの徳目を私たちにしっかりと結び付け、そのすべてを完全に結ぶ「帯」または「きずな」であることが語られています。
聖書が語る神の愛 ~相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること
聖書が「愛」という言葉を使うとき、それはまず第一の意味として、「神の愛」を指します。私たちから生じる愛というより、神から生じている愛を指します。だからこそ、他の徳目よりも根本的なものとして、愛が位置づけられているのですね。憐れみの心や慈愛、謙遜、柔和、寛容などの大切な徳目はみな、この愛から生まれ出ているものだということもできます。
聖書は言葉を尽くして神の愛について私たちに語っています。神の愛について語る言葉は聖書の中にたくさんありますが、その中でも、神の愛について最も美しく、かつ直截的に語ってくれている思う言葉があります。旧約聖書のイザヤ書の中の一節です。
イザヤ書43章4節《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする》。
旧約聖書の主人公であるイスラエル民族に対して、神ご自身が語ったものとして記録されている言葉です。イスラエル民族に語った言葉ではありますが、これはいま、私たち一人ひとりに語りかけられている言葉として受けとめたいと思います。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」と。
聖書協会共同訳では《あなたは私の目に貴く、重んじられる。/わたしはあなたを愛するゆえに/人をあなたの代わりに/諸国の民をあなたの命の代わりに与える》と訳されています。私たちがいま礼拝で使用している新共同訳が「貴い」と訳している部分が「重んじられる」と訳されているわけですが、これも、原文のニュアンスを生かした素晴らしい訳であると思います。ここで用いられている語は、「貴ばれる」とも「重んじられる」とも訳すことのできる語であるからです。
本日は後者のニュアンスを重視して、このイザヤ書43章4節を「わたしの目にあなたは価高い存在、大切に、重んじられている存在」という意味でご一緒に受けとめてみたいと思います。「重んじられる」という表現を使うことによって、聖書が語る神の愛をより理解し、実感できるようになるのではないかと考えるからです。聖書が語る愛とは、私なりに言い換えますと、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」です。
神はその独り子をお与えになるほどに
聖書は、神が私たちの存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしてくださっていることを語っています。私たちを愛するゆえ、独り子であるイエス・キリストを私たちに与えてくださったことを語ります。それは言い換えますと、神はそれほどまでに私たちを重んじてくださっているということです。
《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(新約聖書 ヨハネによる福音書3章16節)。
先ほどのイザヤ書でも、神が、「国々をあなたの代わりとする」というスケールの大きな表現が出てきました。それも、神さまがそれほどまでに、私たちの存在を重んじてくださっていることを示しているものでありましょう。神さまは世界中の国々を代わりとして与えてもよいほどまでに、あなたを重んじておられる。神さまはその独り子をお与えになるほどに、私たち一人ひとりを愛している=かけがえのない存在として重んじてくださっている。聖書はそのことを私たちに伝えています。
重んじられる喜び、軽んじられる悲しみ
このことは、私たちの普段の感覚でも、実感できることなのではないでしょうか。私たちは人からから「重んじられている」と感じることができたとき、とても嬉しく思うものです。とても嬉しく、誇らしい気持ちも湧いてくるものです。たとえ互いに軽口を叩いていたとしても、相手が自分を人格をもった大切な存在として重んじてくれていることが分かるとき、私たちはその人を自分の友であると感じます。この喜びは、あらゆる相違を超えて、私たち人間に共通の感情であると思います。
「重んじる」と反対語は、「軽んじる」ということですよね。一方で、反対に、私たちは人から「軽んじられている」と感じるとき、とても悲しく思います。侮辱されたように感じ、自尊心が深く傷つけられます。自分を軽んじてくる相手とは、私たちは友情を結ぶことは難しいものです。「軽んじられている」という表現は、少し強い言葉で言いかえれば、「なめられている」と表現することもできるでしょう。人から軽んじられる、なめられる、馬鹿にされ見下されることの悲しみも、あらゆる相違を超えて、私たち人間に共通の感情であるでしょう。
ヘブライ語の「軽んじる」という語には「呪う」という意味もあるそうです。他者を軽んじるという行為は、それほどまでに、相手に深刻な影響を与えるものである。相手の存在の内に呪いを植え付けるものである。だから、他者を軽んじる言動は決してしてはならない、そのような古代イスラエルの人々の認識が示されているように思います。愛とは反対にあるもの、それが相手の存在を軽んじる行為であると言えるでしょう。
私たちのいまの社会はどうでしょうか。他者を軽んじることがどれほど深刻な影響を与えるものであるか、しっかりと認識されているでしょうか。残念ながら、その認識はどんどんと希薄になっていると言わざるを得ません。いまの私たちの社会は、互いに「軽んじ、軽んじられる」ことがむしろ当たり前になってしまっている現状があるように思います。他者の存在が軽んじられ、他者の生命が軽んじられ、尊厳が軽んじられている現状があります。そのような中で、私たち自身、自分や他者の存在が軽んじられることの痛みに慣れてしまい、無感覚になってしまっている部分があるかもしれません。
新しい掟 ~《互いに愛し合いなさい》
イエス・キリストはそのような私たちに、新しい掟を与えて下さっています。「互いに愛し合う」という掟です。本日の聖所箇所であるヨハネによる福音書13章34-35節を改めてお読みいたします。
《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。/互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる》。
互いに愛し合うこと――言い換えると、互いに重んじあい、大切にしあうこと。それが、私たちが遵守すべき《新しい掟》であると語られています。
イエスさまが私たちを重んじて下さったように、私たちも互いを重んじ合うこと。イエスさまが私たちを大切にしてくださったように、私たちも互いに大切にし合うこと。そのことによって、私たちがキリストの弟子であることを周囲の人々が知るようになるのだと語っておられるのです。
日々の生活において、愛に根ざした言葉を発し、行動を起こしてゆくことこそが大切であるのですね。コロサイの信徒への手紙の表現で言えば、《愛を身に着ける》こと。そのことがいかに大切かを改めて思わされます。
私たちは一人ひとり、「互いを重んじる」道を歩んでゆくよう神さまから招かれています。
「互いを軽んじる」ことの連鎖を断ち切る
もちろん、自分が相手のことを重んじようと努めても、相手にその気持ちがない場合もあるでしょう。相手が自分のことを軽んじているのに、それでもその人の友でい続けようとすることは、私たちには難しいものです。場合によっては、自分を軽んじ傷つけてくる相手とは物理的・精神的に距離を取ることも必要なこともあります。
また、他者を軽んじる言動に対して「否」を言うことも、私たちには大切なことです。誰かが軽んじられ傷つけられている現実に対しては、はっきりと「否」を言う必要があります。
「互いに重んじ合う」ことは、必ずしも「誰とでも仲良くする」ことを意味するものではありません。大切なのは、目の前にいる人が誰であっても――たとえ個人的には苦手な人で在ったり、好きになれない人であったとしても――、その人格を重んじようとする姿勢です。敬意(リスペクト)をもって接しようとする姿勢です。少なくとも、自分から相手のことを軽んじるようなことはしない。意地悪をしたり、相手を傷つけるような行為はしない。そう心に決めている姿勢が、大切であるのだと思います。
「互いを軽んじる」ことの連鎖をいかに断ち切ってゆけるか、これはいまを生きる私たちにとってとても重要な課題です。
キリストの愛に立ち帰り、「互いを重んじる」道を
けれども時には、もう自分の中に愛する力がないように感じられることもあるかもしれません。激しい怒りや深い悲しみの中で、大切なものを見失いそうになるときもあるでしょう。破壊的な衝動に身を任せたくなるときもあるでしょう。
そのようなとき、私たちが常に立ち返るべきは、神さまの愛です。キリストの愛です。神さまは私たち一人ひとりを極みまで重んじ、大切にしてくださっている方です。イエスさまは私たちを極みまで愛するゆえ、その命をもささげてくださった方です。それほどまでに、神さまはこの私をかけがえのない存在として重んじ、大切にしてくださっている。あなたのことを大切に想ってくださっている――そのことを思い起こしたいと思います。
この愛を思い起こし、その光に包まれる中で、次の新しい一歩を踏み出す力と勇気が与えられてゆくのだと信じています。愛に根ざした言葉と振る舞いとが少しずつ、実を結んでゆくのだと信じています。
私たちが「互いを重んじる道」を共に一歩一歩、歩んでゆくことができますように、ご一緒に神さまにお祈りをおささげいたしましょう。