2022年6月19日「大胆に御言葉を語る」
2022年6月19日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編69編17-22節、マルコによる福音書1章29-39節、使徒言行録4章13-31節
福音書に登場する《汚れた霊》《悪霊》
私たちは現在、教会の暦で聖霊降臨節の中を歩んでいます。聖霊なる神さまのお働きを心に留めつつ、歩む時期です。聖霊とは、「神さまの霊」のことです。本日は聖霊降臨節第3主日礼拝をおささげしています。
先週のメッセージでもお話ししましたが、聖書に出て来る「霊」は、聖霊だけを指すのではありません。聖書には、聖霊以外の「霊」の存在についても記されています。たとえば、福音書には《汚れた霊》や《悪霊》と呼ばれる存在が登場します。先ほどお読みいただいた聖書箇所にも、イエス・キリストが人々の内から《汚れた霊》を追い出す場面が出て来ましたね。
例として、マルコによる福音書1章23-26節をお読みいたします。《そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。/「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」/イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、/汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った》。
この《汚れた霊》や《悪霊》がどのような存在であるかは、はっきりとは分かりません。現代の私たちからすると、何らかの精神的な病いに相当する症状が、《悪霊》の仕業だとされていた場合もあったでしょう。一方で、中には現在の科学や医学的な見地からしても、説明が難しいような事例もあったかもしれません。
様々な解釈ができる《汚れた霊》《悪霊》ですが、これらの霊がどのような働きをする存在なのかについて、一つ言えることがあります。それは、これらの存在が私たちから主体性を奪う働きをしているということです。福音書に登場する悪霊に取りつかれた人は、何らかの要因によって主体性が奪われてしまっている人々であると受け止めることができます。
聖霊のお働き ~私たちが主体性を取り戻すように
イエスさまはそのような《悪霊》の支配の現実と向き合い、人々から《悪霊》を追い出し、人々を囚われの身から解放してくださいました。その人の内に主体性と尊厳とを回復してくださいました。
このときイエスさまの内に働いていたのが聖霊の力です。聖霊とは、私たちに主体性を取り戻し、自由を取り戻すために働いてくださる方であると捉えることができます。それが聖書が語る聖霊のお働きの一つであると本日はご一緒に受け止めたいと思います。
聖霊とは、私たちが主体性を取り戻すようにと働いてくださる神の力である。対して、聖書における《悪霊》は、私たちを支配し私たちから主体性を奪うようにと働く何らかの否定的な力である。どちらも目には見えない力ですが、その働きは対照的なものです。
主体性のはく奪 ~自由にものが言えない状態
主体性が奪われることは、私たちにとって、最も苦しいことの一つです。主体性が奪われている状態は、言い換えれば、自分らしさが失われている状態です。自分の想いや考えが尊重されない状態。有無を言わさず、誰かの想いを強制されている状態。これらは私たちにとって大変辛く、苦しいことです。
一人ひとりの主体性が重んじられているかどうか、そのことを判断する指標として、「自由にものが言えるかどうか」ということがあるように思います。その場にいるそれぞれが、自分の内にある想いや考えを率直に言うことができるか。異なる意見も自由に言うことができる場になっているか。もしもそうなっていないのだとしたら、その場において、すでに誰かの主体性が奪われ始めていると判断することができるでしょう。
山本七平『「空気」の研究』
作家の山本七平氏が記した『「空気」の研究』という本があります(文春文庫、1983年)。この本については、これまでもメッセージの中で何度か取り上げてきました。ここで言う「空気」とは、大気としての空気はなく、私たちが造り出す「場の空気」のことです。今から40年近く前に出版された本ですが、いまも重要な意義をもつ本であると思います。
山本七平さんはこの著作において、場の空気がいかに私たちに大きな影響を及ぼしているかを考察しています。「あの場の空気では言うことができなかった」という経験を私たちは幾度もしたことがあるでしょう。私たちは日々の生活の中で、自分でも気が付かぬうちに、場の空気の影響を受け続けています。ここでの「空気」とは《人びとを拘束してしまう、目に見えぬ何らかの「力」乃至は「呪縛」、いわば「人格的な能力をもって人々を支配してしまうが、その実体は風のように捉えがたいもの」》(『「空気」の研究』、57頁)です。
またそして、山本七平さんは、私たちが住む日本において、特に場の空気の支配が顕著であると述べています。確かに私たち日本に住む者がつい重視してしまうのが、その場の空気というものですね。2007年には「KY(『空気が・読めない』のイニシャル文字)」が流行語大賞に選ばれたこともありました。私たちの日本社会においては「空気が読める」ことが美徳とされ、「空気が読めない」ことが否定的に捉えられる傾向があります。
空気(プネウマ)による支配
『「空気」の研究』で興味深いのは、山本七平さんが「空気」を聖書の「霊」という言葉と結びつけて捉えているところです。霊はギリシア語では「プネウマ」という言葉で、もともと持っているニュアンスは「風」「息」です。聖書に出て来る「プネウマ」には神から出る聖なるプネウマ(聖霊)もあれば、人から出て来るプネウマ(人の霊、《汚れた霊》)もあります。山本さんは人から生じ、人を拘束するプネウマを「空気」として捉え直しているのですね。冒頭で《悪霊》について述べましたが、たとえばこの《悪霊》を私たちの人間関係や社会を支配する「空気=プネウマ」として捉え直してみることもできると思います。
空気を読むことは私たちのコミュニケーションを円滑にしますし、良いように働く面はあります。一方で、空気を読みすぎることの弊害もあります。その場にいる人が空気に支配され、主体性が奪われてしまう弊害です。自分の想いを自由に口に出来なくなる弊害です。
空気による支配がいかに強力なものであるかについては、私たちはこの2年半におよぶコロナ禍の生活において強く実感したのではないでしょうか。このところ状況は落ち着いてきてはいますが、いまもその空気の支配は続いているように思います。その空気の支配は、同調圧力と言い換えることもできるものです。
アジア・太平洋戦争、原発事故
これら空気の支配/同調圧力は、時に、私たちの社会に大きな惨禍をもたらすことにつながってしまうことがあります。山本七平さんは日本がアジア・太平洋戦争に突入したことも、その後の無謀な戦いを止めることが出来なかったのも、空気が大きく作用していた、と分析しています。内心「この戦争は負けるのではないか」と思っていても、国民はそれを口にすることができなかった。そのような空気に国全体が覆われていたからです。もしその空気に水を差すような言葉を口に出したら「非国民」と非難されることになります。
またそれは戦争の指導者たちの間でも同様であり、内心「この戦争は負ける」と思っていても、その場の空気に支配され、誰もそれを口に出すことができなかった。そうしていつしか思考停止状態に陥っていったと山本氏は分析しています。この悪しき霊に国全体が支配されてしまった結果、世界中にどれほどの惨禍がもたらされたことでしょうか。
このこととつながることとして思い起こさざるを得ないのは、私たちの国における原子力政策です。一昨日の17日、原発事故により被害を受けた住民たちが国に損害賠償を求めた裁判で、最高裁は「国の責任を認めない」判決を下しました。対策を取ったとしても事故は防ぐことはできなかったというのがその理由です(4人の裁判官のうち三浦守裁判官のみ国の責任を認める)。あまりに無責任な判決とその理由に、愕然とする思いです。2002年に公表された長期評価報告書によって事故は事前に予見できたはずであり、対策を講じる機会が何度もあったにも関わらず、国と東京電力は何ら対策を講じることはありませんでした。
思えば、原子力発電所建設が国策として推進されてから、私たちの国においては「原発は安全」「事故など起こるはずはない」との命題が絶対化(神話化)され、「原発推進」の空気が大きな力を振るってきました。原発を推進する方々の中にも、内心「万が一、大災害が起こったら……」との懸念を感じる方はいらっしゃったでしょう。しかし、空気による支配の中で、遂にそれを口にすることはできなかったのでしょうか。そうして――それぞれの地域で原発建設の反対運動に尽力された一部の方々をのぞき――私たちの社会全体は、いつしか思考停止の状態に陥ってゆきました。
その思考停止の結果、2011年3月11日、巨大地震と津波が発生、「起こるはずはない」と思われていた原発事故が現実に起こりました。しかしそのような破局的な事態が生じてもなお、国と電力会社の責任の所在はあいまいなままです。山本七平さんも指摘するように、空気による支配の特徴の一つは、その「無責任性」にあります(『「空気」の研究』、109‐113頁)。空気の支配の中で個々人の主体性は失われ、責任の所在もうやむやになり、問題が発生しても、誰も一切責任を取ろうとしないことになるのです。そのような中、私たちの社会は原発をまた再稼働する方向へと向かっています。この数十年のうちに巨大地震が発生すると報告されているにも関わらず――。原発事故という未曽有の経験を経てもなお、私たちの社会はいまだ空気=悪しきプネウマの支配の影響を受け続けていると言わざるを得ません。いやむしろ、この度の最高裁の判決に代表されるように、その無責任体制はさらに露骨さ・悪質さを増し加えているとさえ言えるかもしれません。
イエス・キリストの真理に基づいた言葉 ~私たち一人ひとりに主体性を取り戻すため
改めて、聖書にまなざしを向けてみたいと思います。福音書を読んでいて分かることは、イエス・キリストは一部の人々の目には、明らかに「KYな(空気が読めない)人」(!)として映っていたことです。イエスさまは場の空気を壊すことを恐れず、権力者たちを前にしても、言うべきことをはっきりと指摘されました。そのようなイエスさまの「KYな(空気を読まない)」発言は一部の指導者・権力者たちから怒りを買い、やがて危険人物として敵視されてゆくこととなります。
山本七平さんは、場の空気を壊す一言を、「水を差す」一言と表現しています。言い換えますと、《事実をそのまま事実として口にする》ことです(山本七平・小室直樹『日本教の社会学』、ビジネス社、2016年、149頁)。空気の支配が最も忌み嫌うのが水を差す言葉でありますが、勇気をもって発言されたその言葉が、場の空気を変えてゆく働きを果たします。
イエスさまの言葉は、当時の社会の構造とそこに充満する空気に「水を差す」働きを果たしていったのだと言えます。私たち一人ひとりに主体性を取り戻すため、一人ひとりの生命と尊厳を守るため、イエスさまはあえて「空気を読まない」言葉を発し続けてくださいました。事実を事実として、真実を真実として、神の国の福音の真理に基づいた言葉を発し続けてくださいました。
大胆に御言葉を語る
本日の聖書箇所である使徒言行録4章13-31節では、聖霊に満たされたペトロとヨハネが《大胆に》神の言葉を人々に語り伝える場面が描かれています。宗教的な権力者たちから黙っているように圧力をかけられる中で、それでもなお、活き活きと福音について語り続ける弟子たちの姿が印象的です。空気を読まずに真理を語り続けたイエスさまの姿勢を、弟子たちもまた継承していったことが分かります。
しかしその彼らも、以前はそうではありませんでした。皆さんもよくご存じのように、イエスさまが捕らえられた際、弟子たちは師を見捨てて逃げて行ってしまいました。ペトロもイエスさまを「知らない」と否認しました。恐れに支配され、彼らは言葉を発することもなく家の中に閉じこもっていたのです。
使徒言行録では、その弟子たちが変わったのは、彼ら自身の力によるのではなく、聖霊の力によるのだと語られています。物言えぬ「空気」の中にあって、聖霊に満たされた弟子たちは、《大胆に神の言葉を》語るよう導かれてゆきました(使徒言行録4章31節)。
《大胆に》という言葉は、「率直に」とも訳すことができる言葉です。この語は元来は、《あらゆることを言える自由》を表している語であるそうです(ギリシア語新約聖書釈義事典Ⅲ、教文館、1995年)。恐れと悪しきプネウマの支配から解放され、あらゆること自由に――とりわけ、自分が心から大切に思っている事柄、心から確信している事柄を、自由に話すことができる。その率直さ、大胆さを、自由を、そして喜びを、弟子たちは聖霊を通して与えられてゆきました。
私たちの近くに遠くに、社会のさまざまなところに、否定的な空気の支配はあります。そのような中にあって、私たちはこれらの否定的な霊の働きに気づき、もはやその支配の中に取り込まれ続けることのないよう、神さまの霊の助けを祈り求めることが必要でありましょう。これ以上、神さまの目に大切な一人ひとりの生命と尊厳が傷つけられることのないように――。
私たちに主体性を取り戻し、自由を取り戻し、言葉を取り戻してくださる聖霊なる神さまに、ご一緒に助けと導きを祈り求めたいと思います。