2022年7月10日「その方はわたしの後から来られる」
2022年7月10日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編33編4-11節、マルコによる福音書6章14-29節、使徒言行録13章13-25節
一昨日、安倍晋三元首相が街頭演説中に銃撃されるという大変痛ましい事件が起きました。皆さんも大きなショックを受けていらっしゃることと思います。犯行の背景にあるものについてはこれからより詳細が明らかになってゆくかもしれませんが、いかなる理由があったとしても、他者に暴力をふるいその命を奪うことは決してゆるされません。安倍元首相のご家族や関係者の方々の上に神さまの慰めを祈ります。また、このような痛ましい事件がこれ以上続くことのないよう願います。
皆さんも一昨日以降、テレビやSNSなどで、この度の事件に触れる機会が多くあったと思いますが、ご自分の心を労わることも意識していただければと思います。一昨日以降、事件時の映像や写真がテレビで繰り返し報じられ、またインターネットでも拡散され、国内外の多くの人がそれらを見聞きしたことでしょう。このような痛ましい映像や写真(惨事報道)は、場合によっては、観た人の心身に影響を与えるものです。特に、もともと心身の調子がすぐれない場合、抑うつ状態など、深刻な影響が生じる場合もあります。
私も事件発生が報じられた直後にテレビをつけて観ていましたが、事件直後のテレビ番組の報道はそのような配慮が欠けるものであったように思います。報道が過熱する状況の中、視聴する私たちの方が、場合によってはそれらの情報と適切な距離を取る必要があるでしょう。事件の詳細を理解しようとすることは大切ですが、同時に、ご自分の心と体と日々の生活を守ることも心掛けていただきたいと思います。そしてそのように自分自身を大切にすることが、他者を大切にすることともつながってゆくのだと受け止めています。
歴史の再解釈 ~イエス・キリストを通して
改めて、本日の聖書箇所をご一緒に振り返ってみましょう。本日の聖書箇所である使徒言行録13章13-25節では、パウロがイスラエルの歴史を振り返る場面が記されていました。
宣教の旅の途中、パウロとバルナバはアンティオキアのユダヤ教の会堂に立ち寄ります。礼拝後、人々から「何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と乞われて(15節)、パウロは旧約聖書に記されたイスラエルの民の歴史を改めて語ります。
16-17節《そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。/この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。…」》。
パウロは、イスラエルの人々にとって信仰の原体験である「出エジプト」の物語から話を始めます。それに続く、荒れ野での40年の旅(18節)。そして、先住民族との戦争と約束の地カナンへの入植(19節)。また、その後のサムエルに代表される士師の時代(20節)、そしてサウル王とダビデ王から始まる王の物語(21-22節)。ここまでは、会堂にいたユダヤ教徒の人々にとってもなじみの深いものであったでしょう。これらの物語は旧約聖書(ヘブライ語聖書)に記されているものであり、人々がよくよく知っているものでした。
ただし、その後にパウロが続けた言葉が、まったく新しいものでした。《神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです》(23節)。神は、ダビデ王の子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださった。すなわち、これまで話してきた旧約聖書の歴史は、イエス・キリストに至るための歴史であったというのですね。パウロがここで提示しているのは、イエス・キリストを通してイスラエルの歴史を再解釈する、新しい歴史の捉え方です。このような新しい歴史認識をそこにいた人々は初めて聞いたことでしょう。
歴史認識の難しさ
歴史認識というのは、難しい問題を含むものです。立場によって、過去の歴史をどのように解釈するかには相違が生じます。私たちの国でも、たとえば戦時中の日本の歴史をどう捉えるかについて、さまざまな意見がありますね。この使徒言行録のパウロの言葉も、あくまで2000年前に生きていたキリスト教徒の視点から見た、イスラエルの歴史であるということができるでしょう。ユダヤ教徒の方々の視点からすると、またまったく異なる受け止め方になるであろうことはもちろんのことです。現代に生きる私たちにとっては、ここで語られているすべてを文字通り受け止めるということは難しい部分もあります。特に、19節で語られる先住民族との戦争の記述などがそれに該当します。そのことを踏まえつつ、本日の聖書箇所の最後に登場する洗礼者ヨハネの存在に心を向けたいと思います。
「その方はわたしの後から来られる」 ~洗礼者ヨハネの言葉
救い主イエス・キリストの到来に先立ち、神は一人の先駆者をお送りになったことをパウロは語ります。それが、洗礼者ヨハネです。24節《ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えました》。ヨハネはイスラエルの人々に悔い改めを迫り、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼」を授けていました。
スクリーンに映していますのは、グリューネバルトが描いた洗礼者ヨハネの絵です(イーゼンハイム祭壇画の一部)。独特な外見をしていますね。ヨハネはらくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べものとして生活をしていました(マルコによる福音書1章6節)。
その洗礼者ヨハネの最期の言葉をパウロは紹介しています。25節《その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』》。
ヨハネは、自分は救い主ではなく、自分の後から来られる方こそが、まことの救い主であることを述べています。その方は私の後から来られる。自分はその方の足の履物をお脱がせする値打ちもない、と。
ヨハネは自身を絶対視することなく、むしろそのまなざしをこれから来られる方の方に向けていました。そしてそのために、これまでの自分たちの歩みと現在の在り方に厳しい批判を加えました。自己を絶対化することなく、絶えず自分たちの在り方を相対化しようとするこのヨハネの姿勢は、歴史認識を考えるにあたっても、大切な示唆を与えてくれるものではないでしょうか。
「道」を整え、準備する存在として
新約聖書においては、洗礼者ヨハネはイエス・キリストの先駆者として位置づけられています。これから到来されるまことの救い主の「道」を整え、準備する存在として受け止められているのです。
たとえば、ヨハネが誕生したとき、聖霊に満たされた父ザカリアはこのように預言しました。《幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、/主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである》(ルカによる福音書1章76-77節)。
またこのことは、イエスさまご自身も語っておられることです。《『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ》(同、7章27節)。
これから来られる救い主の道を整え、準備する役割を担ったヨハネ。では、そのイエス・キリストの道とは、どのような道であったのでしょうか。
神さまの真理と正義の道
キリストの道とは、どのような道であるか。様々な側面から、様々な言葉で表現することが可能であるかと思います。本日は、この道を、「神さまの真理と正義の道」としてご一緒に受け止めたいと思います。
では、真理とは何か。イエスさまが私たちに伝えて下さっている真理とは、「神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く貴い存在である」(イザヤ書43章4節)ということです。私たち一人ひとりは、神さまから見て尊厳ある存在である。その真理(まこと)を、イエスさまは私たちに伝えてくださっています。
「尊厳」とは、言い換えますと、「かけがえのなさ」ということです。神さまは私たち一人ひとりをかけがえのない存在として作ってくださった。だからこそ大切な存在なのです。
「かけがえのなさ」の反対語は、「替わりがきく」でありしょう。私たちの間から真理が見失われてしまったとき、反対に、人は替わりがきく存在とされてしまいます。尊厳が軽んじられ、替わりがきく存在にされてしまうのです。
そして、神さまの正義とは、そのように「尊厳がないがしろにされることを、神さまは決しておゆるしにならない」ということです。もしも人々の生命と尊厳とが軽んじられている現実があるのなら。人々が傷つき、痛みを覚えている現実があるのなら。神さまはその現実を、決して見過ごしにはなさらない。これが、イエスさまが私たちに伝えてくださっている、神さまの正義です。イエスさまはそのご生涯をかけて、その命を懸けて、この世界に真理と正義の道を示して下さいました。いまも示し続けて下さっています。
私たちはこの神さまの真理と正義に立ち帰り、この道をイエスさまと共に歩むよう招かれている――本日はそうご一緒に受け止めたいと思います。洗礼者ヨハネがキリストの道を整え、準備したように、いま私たちは改めてこの道を整え、そして実際にこの道を歩んでゆくよう招かれています。
一人ひとりが大切にされるための道
現在、私たちの近くに遠くに、生命と尊厳がないがしろにされている現状があります。人が軽んじられ、替わりがきく存在にされてしまっている現実があります。そのような状況の中、私たちはいま、神さまの真理と正義の道に共に立ち帰ることが求められています。現状を少しずつでもより良い方向へ変えてゆくこと、一人ひとりが大切にされる社会の実現を祈り求めてゆくことが私たちには求められています。
一人ひとりが大切にされる社会の実現、と申しました。キリストの道とは、「一人ひとりが大切にされるための道」と形容することもできるでしょう。神さまの目に大切な一人ひとりがまことに大切にされるための道――この道が、キリストの道です。様々な立場の違いを超えて、この道は一人ひとりの心の奥深くに宿された祈りと結び合わされているのだと信じています。
イエス・キリストは私たちを国籍や出自では判断なさらない方です。宗教や思想信条でも判断なさらず、年齢、職業や学歴、社会的な身分でも判断なさらない。心と体の状態でも判断なさらず、性別やセクシュアリティでも判断なさらない。神の目に価高い一人の人間としてそのままに受け止め、かけがえのない存在として重んじて下さっている方です。このイエスさまのまなざしに、自分自身のまなざしを合わせてゆくよう、私たちは招かれています。
一人ひとりが大切にされる在り方を祈り求め、このキリストの道を一歩一歩、共に歩んで行けますようにと願います。