2022年7月24日「真理の柱、土台」
2022年7月24日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編119編129-136節、マルコによる福音書8章22-26節、テモテへの手紙一3章14-16節
新型コロナ感染拡大の第7波
新型コロナウイルス感染拡大の第7波に入り、全国的に感染者数が過去最多を更新し続けています。皆さんの中にも、不安の中を過ごしている方もいらっしゃると思います。ただ、現在のオミクロン株は、たとえ検査で陽性となっても、その多くは従来の風邪と等しい症状であることが報告されています。基本的な感染対策を心掛けつつ、心を落ち着けて、生活をしてゆければと思います。もちろん、風邪と等しい症状であるからと言って軽視をすることはできません。どんな感染症も、注意深く対応しなければならないことはもちろんのことです。新型コロナウイルスが出現する以前から、風邪ウイルスによって重症化をする例はたくさんあったことでしょう。特に、著しく免疫力が低下している場合や、基礎疾患をもった方やご高齢の方においてはそうであったことと思います。
いま療養中の方々の上に神さまからの癒しがありますように、一人ひとりの健康が支えられますように、また、長期化し続けるコロナ対策によって精神的あるいは経済的に困窮している方々に必要な支援がなされますよう、引き続きご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
「神が人となった」という信仰
いまご一緒にテモテへの手紙一3章14-16節をお読みしました。その中に、次の言葉がありました。16節《キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた》。
冒頭の《キリストは肉において現れ》の中の《肉》言葉は、「肉体をもった人」という意味で使われています。「キリストは肉において現れた」、すなわち、「キリストが肉体をもった人となった」ということが言われているのですね。
キリスト教固有の信仰として、「神が人となった」というものがあります。神が肉体をもった人間となった、それがイエス・キリストという存在である。少し難しい言葉で「受肉」と呼ばれる出来事です。この信仰理解が、他宗教とキリスト教とを分ける大きな特質となっています。
懸命に修行を積んで、あらゆる弱さを克服して、イエスはキリストになったのではないのですね。もともと神であった存在が、およそ2000年前のある日、私たちと同じ人間となられた。同じ肉体をもち、同じ弱さをもった一人の人間――ナザレのイエスになってくださった。そのようにキリスト教は受けとめてきました。
「真理の柱、土台」
思えば、何とも不思議な捉え方ですね。「人間が神になった」のではなく、「神が人間になった」。神さまが私たちと同じ肉体をもち、私たちと同じ一人の人間となってくださった。何とも不思議な考え方ですが、この考え方こそが、キリスト教信仰の「土台」を形成し続けてきたものです。
テモテへの手紙一3章15節の後半には次の言葉がありました。《神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です》。ここでは、教会が「真理の柱、土台」であると言われています。ただしその柱と土台は私たちが提供したものではなく、神さまご自身が提供してくださったものです。すなわち、私たちのもとへ来てくださったイエス・キリストその方が、私たち教会の柱であり、土台であるのです。
柱の部分が神の子としてのキリストの側面を指し示しているとすると、土台の部分は一人の人間としてのイエスの側面を示しています。この柱と土台とがあわさって、イエス・キリストの全体を指し示しています。「イエス・キリストは神の子である」、と同時に、「まことの一人の人間である」。この二つを切り離しえない「真理の柱、土台」として、私たちキリスト教会は大切に信じ続けてきました。
とは言いましても、初めてこの考え方に触れた方は、やはり不思議に思われることでしょう。このキリスト教固有の考え方をなかなか納得し難く感じることは当然のことです。信じる・信じないの問題とはまた別に、「神が人間になった」という考え方は、いまを生きる私たちに大切なメッセージを発信してくれているのだと私は受け止めています。ここには、汲みつくすことのできない豊かなメッセージが込められていますが、本日はこのキリスト教固有の考え方の中から二つのメッセージを汲み取ってみたいと思います。
「神さまは自ら人間になるほどに、私たちを大切に想ってくださっている」
一つ目のメッセージ、それは、「神は自ら人間になるほどに、私たち一人ひとりを大切に想ってくださっている」ということです。
神さまは私たちを大切に想うあまり、自ら、私たちと同じ人間となってくださった。それほどまでに、神の目に私たち一人ひとりは大切な存在であるとのメッセージを私たちはここから汲み取ることができます。新約聖書のヨハネによる福音書には次のよく知られた言葉もあります。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された》(3章16節)。
イエス・キリストの存在が私たちに伝えて下さっていること、それは、神さまの目から見て、私たち一人ひとりがかけがえなく貴い存在であることです。「かけがえがない」とは、「かわりがきかない」ということ。私たちはそれぞれ世界にただ一人の、かわりがきかない存在なのであり、だからこそ大切なのです。
神さまは私たちを愛するゆえ、自ら、人間となってくださった。それほどまでに私たちを愛してくださっている。そのメッセージを、本日はご一緒に汲み取りたいと思います。
見失われつつある「人間の大切さ」
このメッセージがとりわけ大切なものとして感じるのは、私たちの社会が人間を大切にせず、軽んじる社会になりつつあるように感じるからです。「人間の大切さ」ということが見失われつつあるのが、現在の私たちの社会なのではないでしょうか。私たちの近くに遠くに、人間の大切さが見失われ、その生命と尊厳とが軽んじられてしまっている現状があります。
この度の安倍元総理の銃撃事件を受け、私たちの社会において、旧統一協会(世界平和統一家庭連合)およびカルト宗教に対する関心が高まっています。先週の礼拝では、「カルト」の判断の基準は、その団体や組織において「人権侵害が行われているかどうか」にあることを述べました。旧統一協会(家庭連合)はキリスト教をルーツの一つとしていますが、神さまの目からみた「人間の大切さ」という根本のメッセージを見失い続けています。人間の大切さを見失った宗教は、時に社会において非常な危険なものとなり得ます。その恐ろしさと危険性を私たちの社会はいま改めて感じ取っているのではないでしょうか。
またそれは、宗教団体に限った話ではないでしょう。どのような組織・団体であれ、人間の大切さが見失われてしまうとき、その組織・団体はカルト化してゆく危険性があるのだと言えます。
そのような中にあって、私たちはいま改めて、人間の大切さを思い起こす必要があるのではないでしょうか。「わたしの目にあなたは価高く貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章4節)――。聖書が語る神さまの目から見た人間の大切さ、この私自身の存在の大切さをいまこそご一緒に思い起こし、この心に刻みたいと思います。
私たちの「弱さの肯定」
「神が人間になった」という考え方から、本日ご一緒に汲み取りたいもう一つのメッセージ、それは、私たちの「弱さの肯定」です。
神さまが人間になってくださった。そのことは、神さまが私たちと同じ肉体をもち、私たちと同じ弱さをもってくださったことをも意味しています。私たちと同じように喜び、傷つき、涙し、笑う一人の人間となってくださった。ここから、私たちは弱さの肯定、そして、弱さを含んだ私たち人間存在の全肯定のメッセージを汲み取ることができます。
懸命に修行を積んで、弱さを克服して「超人」となった存在がイエス・キリストなのではありません。もともと神であった存在が、2000年前のある日、私たちと同じ人間となられた。同じ弱さをもった、一人の人間になってくださった。弱さを克服するとは正反対、むしろ、私たちと同じように、様々な弱さをもつ存在となってくださったのです。そうして、私たちと共に生きる存在となってくださいました。
津久井やまゆり園事件から6年
このメッセージもまた、いまを生きる私たちにとって切実なものであると感じています。私たちの社会において、生産性や効率を重視する傾向、能力や成果を過度に重視し、弱さを否定的に捉える傾向がさらに加速しているように感じるからです。
明後日7月26日、津久井やまゆり園事件から6年を迎えます。やまゆり園事件はその事件の残虐性と共に、事件を起こした若者の「障害者はいないほうがいい」という趣旨の発言が私たちの社会に大きな衝撃を与えました。
やまゆり園事件をきっかけの一つとして、私たちの社会で「優生思想」という言葉が改めて注目されるようになりました。優生思想とは、一方的なものさしによって、人を「優れた者」と「劣った者」に分け、「劣った者」とされた人々の命と尊厳を否定する考えです。ある本では、優生思想の基本は《強い人だけが残り、劣る人や弱い人はいなくてもいい》とする考え方であると説明していました(藤井克徳『わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優性思想』、合同出版、2018年、3頁)。植松被告はこの優生思想的な信念に基づき犯行に及んだと言われています。
優生思想は決して容認することはできない思想であり、聖書のメッセージとは正反対のものです。一方で、優生思想に至る小さな種のようなものは、私たちの身近なところに、あるいは私たち自身の内にもあるのかもしれません。たとえば、私たちの社会における能力や成果を過度に重視する傾向、弱さを否定的に捉える傾向は、優生思想とどこか地続きでつながっているのではないかと思わされます。
弱さを互いに受け止めながら共に生きる道
聖書は弱さを否定的なものとしては捉えず、むしろ神さまの力が宿るためになくてはならないものと捉えています。新約聖書のパウロの手紙に次の言葉があります。《すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう》(コリントの信徒への手紙二12章9節)。
弱さがあるので、私たちは自分自身を慈しみ、他者を慈しむことができます。弱さがあるので、私たちは互いをいたわりあい、支えあってゆくことができます。独りではなく、共に生きてゆくことができます。そのとき、私たちはキリストを通してまことの力が与えられるのだとパウロは語ります。
聖書が弱さを大切なものして受け止めていることは、すでに述べましたように、「神が人間になった」事柄そのものに表れています。神さまは自ら人間となることを通して、私たちの弱さを肯定してくださっている。そして弱さを互いに受け止めながら共に生きる道を示し続けてくださっているのです。
本日は「神が人間になった」という信仰理解から、二つのメッセージを汲み取りました。神さまは自ら人間になるほどに、私たちを大切に想ってくださっていること。また、そのことを通して、私たちの存在と弱さを肯定してくださっていること。
神さまが私たちを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にしてゆくことができますように。私たちが互いの弱さを受け止めあい、共に生きる道を歩んでゆくことができますようにと願います。