2022年7月3日「宣教の旅」
2022年7月3日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:アモス書7章10-15節、マルコによる福音書6章1-13節、使徒言行録13章1-12節
創立記念日
本日は花巻教会の創立を記念して礼拝をおささげしています。花巻教会が創立されたのは1908年7月21日。内丸教会で開かれたバプテスト東北部会において、正式に伝道所として認められました。それから信仰のともし火がともされ続けて今年で114年になります。これまでの歩みが、神さまと多くの方々によって支えられましたことを感謝するとともに、これからの歩みのために共に祈りを合わせてゆきたいと思います。
バプテスト教会
花巻教会は教派としては、プロテスタントのバプテスト派の伝統に連なる教会です。同じ岩手地区では、内丸教会、遠野教会、新生釜石教会もバプテストの伝統を持つ教会です。
バプテスト教会の「バプテスト」の語源となっているのは、ギリシャ語の「バプテスマ」という言葉です。日本語に訳すと「洗礼」です。動詞のバプティゾーは元来、水に浸すという意味をもっている言葉です。新約聖書が記された時代、洗礼(バプテスマ)を川に全身を浸す「浸礼」の形式で行われていました。洗礼者ヨハネもヨルダン川でバプテスマを行っていましたね。現在、多くの教会は洗礼(バプテスマ)を頭に三度水を振りかける「滴礼」の形式で行っていますが、バプテスト教会は「バプテスマ」の元来の意味を尊重して、いまも「浸礼」で行っています。講壇の奥の地下には洗礼槽(バプテストリー)があり、そこに水を張り、洗礼を受ける方は水の中に頭まで浸かります。
このような浸礼の伝統を持つバプテスト教会ですが、岩手で初めてバプテスト派による伝道がなされたのは、今から約140年前のことです。1880年、米国バプテスト教会の宣教師トーマス・ポートという方によって、盛岡への最初の伝道がなされました。そしてそれは、東北におけるプロテスタント教会の宣教の歴史の始まりの1ページ目を形成するものでもありました。
『初めに言ありき――宣教師ポートの東北伝道』
今年、ポート宣教師についての本が出版されましたので、ご紹介したいと思います。『初めに言ありき――宣教師ポートの東北伝道』という本です(三原圭子・長坂綏子・横山ユウ著、発行 ハイマート・もりおか、編集 雜賀編集工房、2022年)。著者のお一人の横山ユウさんは花巻教会の創立110周年の雜賀信行さんによる記念講演(『宮沢賢治とクリスチャン』)にご出席くださっており、その出会いがきっかけとなり、ご著書の編集を雜賀さんにお願いするに至ったとのことです。
私はこれまではポート宣教師のお名前と、「(バプテストの)東北の開拓者」と呼ばれていることしか知りませんでしたが、この著作を通して、ポート宣教師が東北伝道においていかに大切な働きをしてくださったか、そして私たち花巻教会もまた、ポート宣教師の福音の種まきがあったからこそ、いまがあることを学びました。
ポート宣教師は1848年にイギリスのポーツマスで誕生。1870年、22歳の時に商社員として来日、そしてその後、横浜にて1879年に米国バプテスト教会の宣教師となりました。同年、アメリカの長老派宣教師として来日していたベル・マーシュさんと結婚をしています。
当時、横浜を拠点としていたプロテスタント宣教師たちが熱心に取り組んでいた事業の一つが、聖書の日本語翻訳でした。プロテスタントのバプテスト派宣教師であったネイサン・ブラウンは、1880年に日本で最初の新約聖書全訳『志無也久世無志與(しんやくぜんしょ)』を刊行、同年、S・R・ブラウンやヘボンらが属する翻訳委員社中による日本語訳新約聖書(後に旧約聖書と合わせて『明治元訳』へ)も刊行されています(参照:長坂綏子『盛岡とバプテスト派聖書』、同所収、68-71頁)。ポート宣教師も後に『志無也久世無志與』の改訂版の手伝いをされたそうです。
その頃、岩手にはすでにハリストス正教会とカトリック教会は伝わっており、教会も建てられていました。しかし、プロテスタント教会による伝道はまだなされてはいませんでした。
転機となったのは、1879年、盛岡在住のハリストス正教会のある信徒が横浜を訪れ、N・ブラウンらのいる横浜第一浸礼教会の礼拝に出席し、その帰りに聖書を持ち帰ったことでした(参照:同、74-77頁)。翌年刊行されることになる『志無也久世無志與』の分冊を何冊か盛岡へ持ち帰ったようです。それは、日本語で読める聖書との初めての出会いでありました。その方は非常な感銘を受け、その後、ハリストス正教会からプロテスタントのバプテスト派に転会することとなりました。日本語訳聖書との出会いは、その方の人生を変えることとなったのです。
その翌年の1880年、ポート宣教師はその信徒の方と仲間たちの求めに応じ、盛岡へ赴くこととなります。盛岡にて洗礼(バプテスマ)を執行し、新たな教会を設立するためです。当時、横浜から盛岡までの旅は、通常8日を要したようです。塩釜までは蒸気船、そこから盛岡までの320キロは人力車あるいは徒歩(参照:三原圭子『トーマス・ポートと妻ベルの生涯』、同所収、20頁)。大変な旅であったことと思います。その第1回目の伝道旅行において、岩手で最初のプロテスタント教会、盛岡浸礼教会が設立されました。ポート宣教師と有志の信徒の方々によって設立された盛岡浸礼教会が、現在の内丸教会です(参照:横山ユウ『ポートの東北伝道――明治初期バプテスト派宣教師の書簡』、同所収、150頁)。
その後、ポート宣教師は1885年までの5年の間に、計14回の東北への宣教の旅を行っています。2年間の長期休暇の後、1887年からは再来日して盛岡に定住、盛岡浸礼教会の牧師に就任されました(1892年まで)。ポート宣教師ご家族はおそらく盛岡に初めて定住した外国人家族であったとのことです参照:三原圭子『トーマス・ポートと妻ベルの生涯』、同所収、13頁)
『初めに言ありき――宣教師ポートの東北伝道』では、ポート夫妻の書簡集も紹介されています。ポート宣教師夫妻の日本での日々――その労苦と、そして喜び――をうかがい知ることができ、とても興味深い内容です。日本での生活には様々な苦労があったことと思いますが、ご夫妻の生活の根底には常に喜びと、そして愛があったことを感じ、拝読していて胸を打たれるものでした。
花巻教会前史
盛岡浸礼教会が設立された1880年の10月、第3回東北伝道旅行において仙台第一浸礼教会(現在の仙台ホサナ教会)が設立、そして11月に花巻にて花巻浸礼教会が設立されました。設立当初、会員は6名であったそうです(参照:横山ユウ『ポートの東北伝道――明治初期バプテスト派宣教師の書簡』、同所収、175-178頁)。ポート宣教師と花巻での伝道に尽力していた池田清道氏(後に献身、牧師に)を中心に設立されたこの花巻浸礼教会は、残念ながら1885年に解散、盛岡浸礼教会に合流することとなります。ただし、教会が解散となったその後も、花巻での集会は定期的に続けられていったそうです。
そのような中、1904年に、後に現在の花巻教会の母体となる第一回目の集会が開かれました。出席者は4名だけの小さな集会です。以降、この集会は場所をいくつか変えながらも、継続して開かれるようになりました。途切れることなく続いていったこの集会が現在の花巻教会――新生・花巻教会と言えるかもしれません――の母体となってゆくこととなります。
この集会を主催していたのが、後に花巻教会の初代の牧師となる阿部治三郎先生です。阿部先生は同年、アキスリング宣教師よりバプテスマを受けていました。阿部先生とアキスリング宣教師夫妻、ポート宣教師から受洗し後に内丸教会の伝道師となる佐藤たつ先生によって行われたのが、いま述べました第一回目の集会です。
1907年には、この集会は一つの場所に定めて開かれるようになります。いまの私たちの会堂の裏側あたりにあった宮沢家の貸家がその集会所になっていたそうです。
集会の主催者であった阿部先生はしばらくアキスリング宣教師の助手の役割をつとめておられましたが、ご自分も伝道者となって花巻の人々に福音を伝えたいという願いのもと、横浜バプテスト神学校(現・関東学院大学)へ進学されました。そうして4年の学びの後、再び花巻に戻って来られ、花巻教会が伝道所として認められた1908年7月21日に、伝道所の牧師(当初は仮主任者の位置づけ。翌年に正式に承認)として正式に着任されました。
ポート宣教師の伝道の中心にあった聖書
本日は創立記念ということで、ポート宣教師について、そして花巻教会の前史に当たる部分をお話ししました。私自身、これまで花巻教会の前史について理解があいまいな部分もあったのですが、ご紹介した『初めに言ありき――宣教師ポートの東北伝道』を通して、その輪郭線をよりはっきりと捉えることができるようになり、感謝です。
ポート宣教師ご夫妻による福音の種まきがあったからこそ、現在の花巻教会もまたあると言えるのではないでしょうか。『初めに言ありき――宣教師ポートの東北伝道』を拝読しながら、改めてそのことを実感いたしました。
この本を読んでいて強く印象に残ったことの一つは、ポート宣教師の伝道の中心に常にあったものは聖書であったということです。ポート宣教師は聖書を販売し、多くの人に聖書を届けることにとりわけ力を注いでいたことが伺われます。
メッセージの中でも、日本語訳聖書との出会いが、一人のハリストス正教会信徒であった方の人生を変えたことをお話ししました。聖書の言葉には、私たちが理解し尽くせぬ、大いなる力が秘められていることを思います。ポート宣教師ももちろん説教や聖書の解き明かしも熱心になさっていたでしょうが、同時に、必要なことは聖書の言葉自らがその人に語る、という確信があったのかもしれません。〈読みやすく〉〈分かりやすい〉聖書がここにあるのだから、それを手渡しすることさえできればいい。あとは、聖書の言葉自らがその人に福音を解き明かしてくれるはずだ、と。あるいは、たとえいますぐには芽が出なくても、ふさわしい時が訪れた時、必ず種は芽吹き、豊かな実を結んでゆくはずだ、と。
横山ユウさんはこのように記しています。《来日した宣教師の多くは、教育(学校・塾)と語学(英語)を宣教の最良のツールとしていたとされている。ポートは異色の履歴の持ち主であり、そのようなツールは持ち合わせていなかった。聖書一つを携えて東北に赴いたのであった。N・ブラウン翻訳の〈読みやすく〉〈分かりやすい〉聖書を携えて》(『ポートの東北伝道――明治初期バプテスト派宣教師の書簡』、同所収、148頁)。
ポート宣教師が建てた教会の中には、聖書販売人という役職もあったそうです。聖書の販売の仕事を通して、伝道に献身する人々がいたのですね。そしてその聖書販売人の方々が、教会を中心となって支え、ポート宣教師を支えていたことを知りました。このことからも、ポート宣教師の伝道の中心には聖書があったことが分かります。
聖書を新しい言葉で翻訳し直すこと
当時は、日本語で読める聖書の存在自体が、まったく新しいものでした。また、書かれた内容はもちろんのことですが、その日本語表現自体も、新しいものであったでしょう。日本語訳聖書が刊行された当時は、書き言葉と話し言葉が違っており、いまだ漢字表記が中心であった状況でした。そのような中、バプテスト派の『志無也久世無志與』の本文はひらがなの連続体の活字で表記されていました。「万人にとって分かりやすい」書物の誕生は、日本のキリスト教の歴史においてのみならず、日本語表現の歴史においても後世に大きな影響をもたらしたことでしょう。またそして、その翻訳が完成するまでに、どれほどの困難が伴ったことかを思わされます。
現在、日本語訳の聖書はたくさん出版されています。母国語で聖書が読めるというのは私たちにとって当たり前のことであり、明治時代の人々が日本語訳聖書と出会った衝撃、感動は想像することしかできません。
しかし、聖書を新しい言葉で翻訳し直すことは、いまも重要な課題であり続けています。現在を生きる多くの人々に「分かる」言葉、「伝わる」言葉に聖書の言葉を新たに翻訳し直すことは、大切な課題です。聖書本文に秘められた意味内容を的確に・そして新たに言語化することができたとき、聖書の言葉は自ずから、私たちの時代に対してまた新たなメッセージを語り始めてくれるのではないかと思っています。
神さまが「前もって決めておいてくださった仕事」
本日の聖書箇所である使徒言行録13章1-12節では、パウロとバルナバの宣教の旅の一端が記されていました。ポート宣教師と同様、パウロもまた、幾度も宣教の旅に出かけ、それぞれの地に教会を建てて行ったことはよく知られている通りです。いや、かつてパウロが歩んだ旅路を、ポート宣教師も歩んだのだと表現した方が的確でしょうか。
2節には、バルナバとパウロを宣教の旅に遣わすにあたって語られた聖霊の言葉が記されています。《さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために》。二人はその言葉に押し出され、キプロスをはじめ(4-12節)、様々な地で福音を伝えてゆきました。
私たち一人ひとりにもまた、神さまが「前もって決めておいてくださった仕事」が与えられているのだとご一緒に受け止めたいと思います。
それぞれが、神さまが「前もって決めておいてくださった仕事」が何であるかを祈り求め、その仕事をこの残された人生の旅路において果たしてゆくことができますように祈ります。