2022年9月4日「地の果てにまでも」

202294日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:イザヤ書517節、マルコによる福音書12112節、使徒言行録134452

地の果てにまでも

 

 

「異邦人」という言葉

いまお読みしました聖書箇所の中に、「異邦人」という言葉が出て来ました。聖書特有の言葉の一つで、ユダヤ人以外の外国の人々を指す言葉です。ユダヤの人々から見て外国人にあたる人々ですね。

 

旧約聖書(ヘブライ語聖書)を読みますと、ユダヤ人と異邦人との間には明確な一線が引かれていることが分かります。ユダヤの人々は自分たちこそが神によって選ばれた民族であるとの意識をもっており、一部の人々は他の民族との区別をとても強調しました。またそして、周辺諸国の脅威が増すにつれ、自分たちと異邦人とを区別する傾向はより顕著となってゆきました。自分たちの信仰と文化を守ろうとするゆえ、異なるものを排除するいわゆる「排外主義的」な傾向もまた増していったのですね。

 

イエス・キリストが生きておられた時代もやはり排外主義的な考えが力を持ち、ユダヤ人と異邦人の間の区別が強調されていた時代であったと言われています。たとえば、ユダヤの社会では一般に異邦人との交際や会食は禁止されていました。当時、ユダヤ人と異邦人の間には両者を隔てる「壁」があったのです。

 

そのことがよく分かる例として、エルサレム神殿を取り上げてみたいと思います。エルサレム神殿の構造は、当時の社会の状況を象徴しているものでもあるからです。

 

 

 

エルサレム神殿 ~当時の社会の構造を象徴するものとして

 

 スクリーンに映しているのは、イエス・キリストが生きておられた時代のエルサレム神殿(第二神殿)の模型です。この壮麗な神殿はエルサレム市街の中心に建っていました。ただし、この神殿は今はもう存在はしていません。紀元70年のユダヤ戦争の際にローマ軍によって破壊されてしまったからです。神殿の外壁だけは現存しており、その西側の部分は「嘆きの壁」と呼ばれ、ユダヤ教徒の方々の祈りの場となっています。

 

 神殿の門をくぐると、まず広い外庭に出ます。この外庭は当時、「異邦人の庭」と呼ばれていました。このスペースにはユダヤ人も外国の人々も入ることができました。ここで巡礼者を対象とした犠牲の献げ物の売り買いがなされており、大勢の人々で賑わっていたようです。

 

この「異邦人の庭」から2.4メートル高くなったところに、「女性の庭」と呼ばれる回廊がありました。この「女性の庭」には、異邦人は入ることはゆるされていませんでした。その境目には看板が立てられ、「異邦人であってその垣を超えるものは死をもって罰せられる」と記されていたそうです(参照:『新共同訳聖書辞典』、キリスト新聞社、1995年、259頁)

先ほど、ユダヤ人と異邦人の間には両者を隔てる「壁」があったと述べました。それは単なる比喩ではなく、このエルサレム神殿の造りにも表れているように、両者の間に実際に目に見える壁があったことが分かります。そしてこの区別は、現代の私たちの視点からすると差別になり得るものだと言えるでしょう。

 

神殿の中に存在する壁はそれだけではありませんでした。「女性の庭」からさらに内側には「男性の庭(イスラエルの庭)」と呼ばれるスペースがあり、そこにはユダヤ人の男性しか入ることができませんでした。女性は入ることはできなかったのです。また、病いや障がいをもっている人も入ることはできなかったそうです。ここにもまた、人々を分け隔てる壁が存在しています。

 

もちろん、これらはあくまで今から2000年前の話であり、現在のユダヤ教内においては多くの方々が差別の撤廃を求めて活動しておられることも心に留めておきたいと思います。

 

ちなみに、「男性の庭(イスラエルの庭)」の内側には祭司たちしか入ることができない「祭司の庭」があり、さらにその奥には神殿の「至聖所」がありました。至聖所は神が現臨すると考えられていた場所です。至聖所には大祭司と呼ばれるユダヤ教のトップの人物しか入ることができませんでした。一般の信徒と祭司たちの間にも壁があり、さらに祭司たちの中にも壁があったということが分かります。

 

 

 

私たちの社会に存在する様々な壁

 

ご一緒に、エルサレム神殿の構造を見てみました。この神殿の構造は、イエス・キリストが生きておられた時代の社会の構造そのものを象徴的に表わしていると言えるでしょう。社会の中に、幾重もの壁があるという構造です。民族や宗教、性別、心身の状態等によって、人を分け隔ててしまっている構造がここには見受けられます。

現代の私たちの視点からすると、これらの構造は差別に相当するものであるというのはもちろんのことです。当時の人々からすると、その壁は当たり前のものとして受け止められていたのかもしれません。しかし当時も、その壁によって苦しんでいる人はたくさんいたことでしょう。共同体から遠ざけられ、社会の片隅に追いやられ、人間としての尊厳を軽んじられ苦しんでいた人はたくさんいたことでしょう。

 

 このような社会の構造はもはや過去のもので私たちの社会はもはやそうではない、と言いたいところですが、現在の私たちの社会の状況を見ますと、やはり今も様々な壁が存在していると言わざるを得ません。私たちの社会にもまた様々な壁があり、多くの人が苦しんでいる現実があります。そのような現状を踏まえ、改めて本日の聖書箇所に私たちの心を向けたいと思います。

 

 

 

壁を打ち壊す新しい価値観

 

 本日の聖書箇所である使徒言行録134452節にはパウロとバルナバという二人の人物が登場します。キリスト教が誕生して間もない頃に活躍した人物です。この時、二人はイエス・キリストの福音を伝えるための旅をしていました。ここで注目したいのは、彼らの言葉を真っ先に受け入れたのは、異邦人であったと記されているところです。

 

4449節《次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。/しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。/そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。/主はわたしたちにこう命じておられるからです。

『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」

異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。/こうして、主の言葉はその地方全体に広まった》。

 

 異邦人たちは当時の社会にあって、差別を受けていた人々でした。自分たちと交際することも、会食することも禁じられている。また、当時の伝統的な考えに基づけば、異邦人は「神によって選ばれていない存在」であったことになります。ユダヤ人と異邦人との間には厚い壁がありました。その異邦人たちのところに、真っ先に救いが告げ知らされ、福音の喜びが告げ知らされていったことを使徒言行録は語ります。ここに私たちは、人々を分け隔てる壁を打ち壊さんとする新しい価値観を見出すことができます。そして当時も、多くの人々がこの教えに救いを求め、教会に集まっていったのでしょう。

 

47節には次の言葉がありました。《わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために》。イザヤ書496節からの引用です。《地の果てにまでも》という言葉が印象的です。

文字通りに受け止めれば、「地の果て」とは、その時代に世界の果てにあるとされていた国や地域を指すものです。その世界の果てにまでも、神の救いの光がもたらされることが語られています。

 

と同時に、「地の果て」を文字通りに解釈するのみならず、社会の片隅に追いやられている人々が生きる場を指す言葉としても受け止めることができるでしょう。社会の片隅に追いやられた人々が懸命に生きている場所――「地の果て」です。

「地の果て」と対照的な言葉は「中央(中心)」ですよね。エルサレム神殿で言うと、大祭司だけが入ることができる至聖所と、それを取り巻く「祭司の庭」「「男性の庭(イスラエルの庭)」がそれに該当するでしょう。その中央から遠ざけられた一番端が、「異邦人の庭」です。さらに神殿の外には、病気の人々や物乞いをする人々がいたと言われています。これらの人々もまた、中央から遠ざけられている存在です。

本日の聖書箇所では、そのように社会の片隅に追いやられ、人間としての尊厳を軽んじられ苦しんでいる人々に、まず救いの光が届けられたことが語られています。

 

 

 

「地の果て」にいるこの私に

 

またそして、「地の果て」にいる存在とは、他ならぬ私たち自身であると受け止めることもできるでしょう。苦しみ悩みの中にいる時、困難の中にいる時、私たちはまるで自分が世界の片隅に追いやられているような心境になります。人々から遠ざけられ、社会からも遠ざけられ、ここで独り苦しんでいる気持になります。

 

たとえば、いまコロナで療養中の方々の中には、そのような心境でいる方も多くいらっしゃるでしょう。会食はもちろん、外出も人と会うことも禁じられ、社会から隔絶されているような状態。様々な目には見えない壁に囲まれている状態。それはとても辛くしんどい経験です。

また、いま差別やいじめ、ハラスメントを受けている方々の中にも、人々から遠ざけられてこの世界で独り苦しんでいるような心境でいる方がたくさんいらっしゃることと思います。

 

そのような、「地の果て」にいるこの私に、神さまはいま、救いを告げ知らせてくださっています。幾重もの壁を打ち壊し、他ならぬこの私に、神さまは真っ先に福音の喜びを伝えようとしてくださっています。本日はご一緒にそのように受け止めたいと思います。イエス・キリストはそのために、この世界に来てくださった方です。

 

 

 

キリストはあらゆる壁を取り壊し

 

最後に、エフェソの信徒への手紙の言葉をご紹介したいと思います。エフェソの信徒への手紙21418節《実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、/規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、/十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。/キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。/それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです》。

 

エフェソの信徒への手紙は、イエス・キリストがあらゆる壁を取り壊し、平和を実現してくださったことを語っています。

ユダヤ人と異邦人とを隔てている壁。あるいは、国と国とを隔てている壁。女性と男性とを隔てている壁。いわゆる健常者と障がい者を隔てている壁。そして、人間と神を隔てている壁……。イエス・キリストは十字架を通して、私たちを隔てるあらゆる壁を取り除いてくださったというのが、新約聖書が私たちに伝える最も大切なメッセージの一つです。すべての壁は打ち壊され、いまや、すべての人が神さまのもとに招かれているのです。

 

イエスさまはあなたを民族や国籍では判断なさらない方です。思想信条でも判断なさらない方です。職業でも、社会的な身分でも、いま置かれている状況でも判断なさらない。性別、セクシュアリティでも判断なさらない。心と体の状態でも判断なさらない方です。ただ、あなたをあなたとして、その存在そのものを受けとめてくださっている方です。あなたという存在を、世界にただ一人の、かけがえのない=替わりがきかない存在として受け入れてくださっている方です。「クリスチャンである」ということは、この神さまの愛といつも固く結ばれていることを意味しているのだと私は受け止めています。

 

私たちの社会にはいまだ、様々な壁があります。人と人を分け隔てる幾重もの壁があります。その壁によって、いまもたくさんの人が傷つき、悲しみ、苦しんでいます。また私たち自身の内にも、他者と自分とを隔てる目には見えない壁があるかもしれません。

 

どうぞ私たちがイエス・キリストの平和の福音に立ち帰り、これらの壁を少しずつ取り壊し、一人ひとりが尊重される社会を築いてゆくことができますように願います。