2022年11月20日「キリスト、油注がれた方」

20221120日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書233543節、コリントの信徒への手紙一152028節、サムエル記下515

キリスト、油注がれた方

 

 

謝恩日、収穫感謝日

 

本日は謝恩日、収穫感謝日を覚えて礼拝をおささげしています。謝恩日は牧師を隠退された先生方のお働きを感謝する日です。私たち花巻教会が属する日本キリスト教団はその感謝の思いを謝恩日献金というかたちで表し、隠退された先生方とご家族の生活をお支えすることをしています。お祈りのうちにおささげいただければ幸いです。

また本日は神さまから与えられた収穫の恵みを感謝する、収穫感謝日でもあります。教会によっては秋の収穫物を講壇の前に並べ、礼拝をささげる教会もあります。神さまの恵みによって日々の生活が支えられていることへの感謝の想いをご一緒に新たにしたいと思います。

 

 

 

メシア、油注がれた方

 

 私たちが神の子・救い主と信じるイエス・キリスト。「キリスト」は、名前ではない、ということは、ここにいらっしゃる皆さんはよくご存じの通りです。キリストは名前ではなく、「救い主」を意味する言葉です。イエス・キリストは、「イエスはキリスト、救い主である」と告白している表現なのですね。

 

キリストはギリシア語で、ヘブライ語ではメシアです。メシアは、もともとは「油注がれた者」という意味の言葉です。これは、古代イスラエルにおいて王や大祭司を任職する際、高価な油を注ぎかける慣習があったことに由来しています。冒頭でお読みしましたサムエル記下515節でも、ダビデが王となり、長老たちから油を注がれる場面が記されていましたね。

イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした(サムエル記下53節)

 

 時代と共に、このメシア(油注がれた者)は、「救い主」待望が込められた言葉へと変化をしてゆきました。この世界に平和をもたらすまことの王――メシア、油注がれた方が誕生してほしい、人々のその切なる想いが込められた語となっていったのですね。

 

 

 

イエス・キリスト ~まことの王・大祭司

 

 次週から、教会の暦でアドベント(待降節)の期間に入ります。アドベントは、救い主の誕生(クリスマス)を待ち望み、そのための準備をする期間です。聖書は、いまからおよそ2000年前にベツレヘムで生まれたイエスこそが、この世界に平和をもたらすまことの王・大祭司――すなわちキリスト、油注がれた方であることを語っています。アドベントは、このイエス・キリストの到来を待ち望む期間です。

 

 聖書はイエスこそがキリストであることを証しているわけですが、そのまことの王なるキリストは、どこか高い所から、私たち見下ろしている方ではありません。聖書は、まことの王・救い主なるキリストが、私たちと同じ一人の人間としてお生まれになり――それも貧しい家畜小屋で――、同じ一人の人間として生きてくださったことを証ししています。私たちと同じように、悩み苦しみを経験してくださったことを語っています。また、悩み苦しむ人々を自らお訪ねになり、その痛みを共にしてくださったことを語っています。そしてそのご生涯の最後に、十字架の上で、自らの命をささげてくださったことを証ししています。私たちがキリストとして信じるまことの王は、そのような方です。

私たちの痛みを知らない方ではなく、私たちの痛みをよくよくご存じであり、それを共にしてくださっている方。私たちに自分のために命を差し出せというのではなく、私たちのために命を差し出してくださった方。私たちの救いのために、ご自分のすべてを差し出して下さった方。そして死よりよみがえられ、いまも私たちの傍らにいてくださる方。この方が、私たちの信じるキリストです。

 

 

 

ルカ福音書が記す十字架の場面

 

 礼拝の中で、本日の聖書箇所の一つであるルカによる福音書233543節を読んでいただきました。イエスさまが十字架におかかりになった場面です。

 

 

 

 十字架にはりつけにされて苦しむイエスさまを取り囲む議員たちは、あざ笑って言いました。《他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい2335節)。ここで議員たちは、メシアという大切な呼称を、イエスさまを誹謗中傷し、その尊厳を傷つけるために用いています。兵士たちもイエスさまに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱します。《お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ36節)

 

イエスさまの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書かれた札が掲げてありました。いわゆる罪状書きです。「ユダヤ人の王を自称して、民衆を扇動しようとした罪」、言い換えると「ローマ帝国への反逆罪」によって、この者はこういう目に合っている、との意味が込められています。もちろん、これは冤罪でした。イエスさまはユダヤ人の王を自称し、人々を扇動されたことはなかったし、ローマ帝国へ反逆を企てておられたわけでもありませんでした。一部の指導者たちの策略によって裁判にかけられ、死刑を言い渡されてしまったのです。人々から心無い言葉を投げかけられる中、イエスさまは何もおっしゃらず、無言を貫かれます。

 

 

 

 イエスさまの両隣りには、同じく十字架にはりつけにされている人がいました。何らかの犯罪を犯した人であったのでしょう。その一人が、激しい苦痛の中、イエスさまをののしって言いました。《お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ39節)。すると、激しい苦痛の中、もう一人がたしなめて言いました。《お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない4041節)。体は激しい苦痛の中にありますが、この男性の魂はいまや、まっすぐに神さまの方を見ていることが分かります。そして、イエスさまに向かって、こう言いました。《イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください42節)

 

するとイエスさまはおっしゃいました。《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる43節)

まことのキリストであるイエスさまは、ご自分を誹謗中傷する人々の言葉には何ら応答をなさいませんでした。けれどもすぐ隣の男性の《あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください》という切なる願いには、はっきりと応答をされたことをルカ福音書は証しします。《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》。

 

まことの王、キリストなるイエスさまは、私たちの存在を決してお忘れになることはありません。イエスさまは私たちの人生を、私たちの存在を、いつも覚えていてくださいます。私たちが経験してきた喜び、悲しみ、その一つひとつを、イエスさまは覚えていてくださいます。そして私たちがこの生涯を終える時も、私たちの存在を決して忘れることなく、神さまのもとへ、復活の命の光のもとへ共に伴ってくださるでしょう。

 

 

 

イエスさまの両隣りで十字架にはりつけにされている二人の人物

 

 ご一緒に、ルカ福音書が記す十字架の場面を読みました。イエスさまの両隣りで十字架にはりつけにされている二人の人の言葉が、まことに対照的であることが心に残ります。

イエスさまのすぐ隣りで十字架にはりつけにされているこの二人の人物のどちらも、私たちの内にいると受け止めることもできるのではないでしょうか。

苦しみの中で、イエスさまをののしりたくなる私。自暴自棄になろうとする私。一方で、苦しみの中で、それでもイエスさまへ切なる願いを託そうとする、もう一人の私。神の国の希望を投げ出さずにいようとする、私。イエスさまを前に、両者の間でいつも揺れ動いているのが私たちの日々の率直な姿であるのかもしれません。

 

 

 

この私のすぐ隣にいてくださるイエスさま ~《あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》

 

 日々揺れ動かざるを得ないのが私たちですが、しかし、たとえいまの私たちの心の内がどのような状態であろうとも、変わらないことがあります。それは、イエスさまが私たちと共にいてくださるということです。この私のすぐ隣で、共に苦しみ、あるいは、共に喜んでくださっていることです。あなたがたとえどのような状態にあっても、どこにいても、十字架におかかりになったイエスさまは、いつもあなたの隣にいてくださいます。この真実は、決して変わることはありません。

 このイエス・キリストのお姿に私たちのまなざしを向ける時、私たちはイエスさまの約束の言葉を聴きます。《あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》――。

 

 

 次週から、私たちはアドベントを迎えます。イエス・キリストの到来を待ち望み、そのための準備をする期間です。アドベントのこの時、私たちのすぐ隣にいてくださるイエスさまにまなざしを向け、その命の約束の言葉を受け取り続けたいと思います。