2022年2月13日「涙と共に種を蒔く人は」
2022年2月13日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編126編1-6節、コリントの信徒への手紙一2章6-10節、マルコによる福音書4章1-9節
イエス・キリストのたとえ話
新約聖書の福音書の中には、イエス・キリストのたとえ話がたくさん収録されています。いまお読みしました「種を蒔く人」のたとえ(マルコによる福音書4章1-9節)も、よく知られたたとえ話の一つです。イエス・キリストは人々に教えを伝えるにあたり、好んでたとえを用いられていたことが分かります。
このイエスさまのたとえ話に関して、ある方がおっしゃったことで「なるほど」と思ったことがありました。その方いわく、イエス・キリストがたとえ話をよく用いるのは、「答えを与えるのではなく、聞いた人が主体性をもって決断することができるようにする」意義があるとのことでした。確かに、たとえ話はそれを聞いた私たちに自ら考えることを促します。たとえ話は、必ずしも、すぐに「答え」を教えようとするものではありません。聞く人が自らいろいろと思いを巡らし、じっくりと考えることができる伝達手段、それがたとえ話であると受け止めることができるかもしれません。
本日の聖書箇所である「種を蒔く人」のたとえにはイエスご自身の解説が記されていますが(13-20節)、これはむしろ例外的なことで、イエスさまのたとえ話には基本的に解説が付されることはありません。ですので私たちは、様々な解釈を試みたり、その日その時にふさわしいメッセージを汲み取ることができます。
「種を蒔く人」のたとえ
改めて、ご一緒に「種を蒔く人」のたとえをゆっくりと味わってゆきたいと思います。イメージしていただきたいのは、ミレーの絵『種を蒔く人』です。種蒔きと言いますと、土の中に数粒ずつ蒔いてゆくやり方をイメージする方もいらっしゃるかもしれませんが、当時のパレスチナの種蒔きは、種がたっぷり入った種袋を腰に巻き付け、種を手で掴み、耕した土の上に振りまいてゆくやり方でした。ですので、このたとえ話にあるように、中には道端に転がって落ちたり、石だらけの場所に落ちたりする種もあるのですね。
3-4節《「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。/蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった》。まず語られるのは、道端に落ちた種です。道端に転がり落ちた種は、鳥に食べられてしまいます。鳥も道端に種が落ちるのを待ち構えていたのかもしれません。道端に落ちた種は芽を出すことができませんでした。
次に語られるのは、石だらけの地に落ちた種です。5-6節《ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。/しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった》。石だらけで土の少ないところに落ちた種はすぐに芽は出しますが、根がないために、日が昇ると枯れてしまいます。
三番目に語られるのは、茨の中に落ちた種です。7節《ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった》。茨の中に落ちた種は、芽を出し成長はしますが、茨に妨げられ実を結ぶまでには至りません。
最後に語られるのは、良い土地に落ちた種です。8節《また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」》。良い土地に落ちた種は芽を出し、成長して、実を結びます。しかも三十倍、六十倍、百倍もの実を結びます。湖のほとりでイエス・キリストからこのたとえ話を聴いたパレスチナの人々の頭には、収穫の時期に黄金色に輝く麦畑の様子が浮かんだことでしょう。
「種」=神さまの言葉
13節以下に記されているイエス・キリストご自身の解説を参照しますと、このたとえ話の「種」は神さまの言葉を指していることが分かります。《種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである》(14節)。では、蒔かれた場所は何を表しているのでしょうか。それは、私たちの心です。道端、石だらけの場所、茨に覆われた場所、そして良い土地、これらは私たちの心のあり様を表しているものなのですね。たとえば、石だらけの場所。「神さまの言葉=種」を喜んで受け入れるけれど、それが長続きしない、すなわち、言葉がしっかりと根を張るまでには至らない私たちの心を表しています(17節)。
ここで改めて注目したいのは、神さまの言葉が「種」で表されているところです。このたとえ話にあるように、植物の種というのは実を結ぶまで時間がかかるものですよね。芽を出し、根を張り、茎を伸ばし葉を茂らし、花を咲かせ、そして実を結ぶ。時間もかかるし、様々な成長の段階があります。神さまの言葉が、たとえば飲んですぐにパッと効果が表れる「特効薬」のようなものではなく、結果が出るまである一定の時間を要する「種」で表されているところに、大切なメッセージが含まれているように思います。
すぐに「結果」を求める私たち
すぐに「結果」を求める、すぐに「答え」が欲しくなる――私たちは日々の生活の中で、よくそのような心境になるものです。パソコンやスマホが普及して、よりそのような傾向が加速しているかもしれませんね。いまはインターネットで検索すると、すぐに情報が出てきます。そのように、こちらの求めに対してすぐに答えが与えられる、結果が与えられることに私たちの心が慣れてしまっている部分があるかもしれません。
ベストセラーの棚や新聞広告を見ますと、「即効性」を謳う本がたくさん並んでいますね。「5分でわかる」とか「たちまち効果が出る」とか、「この1冊を読めばすべてが分かる」とか。そのような謳い文句を目にすると、つい手に取ってみたくなる私たちです。
それはそれだけ、私たちの日々の生活において、余裕が失われていることの表れであるのかもしれません。ゆっくり待つ、じっくり考えてみる、そのことに耐えうる力が一時的に失われてしまっているのですね。「早く、早く……!」と常に何かに急かされているような、そのような心境で生活しているのがいまを生きる私たちです。それは大人だけではなく、子どもたちもそうでありましょう。先ほどのたとえ話で言いますと、種をしっかりと受け止める力、じっくりと守り育もうとする力が、私たちの内から失われている状態ですね。蒔かれた種を食べようと待ち構えている鳥がいたり、そもそも石だらけで土が少なかったり、茨で土が覆われてしまっていたり……。私たちのいま社会はすぐに「結果」や「答え」を求める傾向にあり、蒔かれた種を忍耐をもって受け止める力が弱くなっていることを思わされます。
ネガティブ・ケイパビリティ ~《答えの出ない事態に耐える力》
このコロナ禍の中で、改めて注目されている言葉があります。「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉です。日本語にすると「消極的能力」とも訳すことができる言葉ですが、この言葉を日本に紹介した精神科医・小説家の帚木蓬生さんの表現をお借りしますと、これは《答えの出ない事態に耐える力》のことを指しています。《性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力》のことです(帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』、朝日選書、2017年、3頁)。本が出版されたのは2017年ですが、コロナ禍の中で、この「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉が改めて注目されています。
新型コロナウイルスの世界的感染拡大から、2年あまりが経ちました。実に、2年という長期間にわたって、私たちは様々な困難に直面し続けています。その中で、私たちはすぐには答えが出ない、難しい状況に直面しました。すぐには答えが見つからない、すぐには解決策が見つからない難しい状況に直面し続けてきました。そのような中で、この2年間、《「急がず、焦らず、耐えてゆく」力》(同書、本の帯より)、すなわちネガティブ・ケイパビリティに多くの人の関心が向けられました。問題をすぐに解決する力だけではなく、今すぐに解決できなくても、何とか持ちこたえてゆく力、それも私たちが生きてゆく上で大切な力であることに気づかされたからです。
帚木蓬生さんの本の中で、スクールカウンセラーをしている臨床心理士の方にもらった手紙が紹介されています。ネガティブ・ケイパビリティの意義を的確に言い表した文章で、とても印象的なものです。その一部を引用したいと思います(同書、199-201頁)。
《ネガティブ・ケイパビリティの考え方は、現在、生徒指導上の難問が山積みになっている学校現場にこそ必要な視点だと存じます。(略)学校にいますと、ときに指導困難、解決困難な事例に出会うことがあります。そんなとき、誰もが、途方に暮れてしまうことになります。/そのような、どうやっても、うまくいかない事例に出会ったときこそ、この「ネガティブ・ケイパビリティ」が必要となってきます》。
この臨床心理士の先生は、すぐには解決できない問題だらけの学校現場にこそ、問題解決能力以上に、性急に問題を解決してしまわない能力=ネガティブ・ケイパビリティがあるかどうかが重要であると指摘し、そして大人だけではなく子どもたちにもこの力を培ってやるという視点が重要ではないかと語ります。
《解決すること、答えを早く出すこと、それだけが能力ではない。解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく。消極的(ネガティブ)に見えても、実際には、この人生態度には大きなパワーが秘められています。/どうにもならないように見える問題も、持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き、解決していく。人間には底知れぬ「知恵」が備わっていますから、持ちこたえていれば、いつか、そんな日が来ます。/「すぐには解決できなくても、なんとか持ちこたえていける。それは、実は能力のひとつなんだよ」ということを、子供にも教えてやる必要があるのではないかと思います》。
たとえいまは解決することができなくても、その不確かな状態に耐えてゆける力を身に着けることの大切さを思わされます。性急に答えを急がない中で、不確かな状況に踏みとどまる中で、私たち自身の考えもより鍛えられ、深められてゆくのではないでしょうか。
またそして、そのように持ちこたえているうちに、いつか自ずから解決策が見つけるかもしれない。自分なりの答えが見つかるかもしれない。そのことを信頼し、忍耐と希望をもって目の前の難しい問題に向かい合ってゆくことが重要であるのでしょう。
《良い土地》 ~蒔かれた種を受け止め、守り育もうとする心
《種を蒔く人が種蒔きに出て行った。(略)ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった》。本日はご一緒に「種を蒔く人」のたとえを読んでまいりました。改めて、《良い土地》とはどのような土地でしょうか。種を芽生えさせ、多くの実を実らせる《良い土地》。本日はこの《良い土地》を、蒔かれた種をしっかりと受け止める心、大切に守り育もうとする心を指しているものとして、ご一緒に受け止めたいと思います。
神さまの言葉は、私たちにとってすぐに理解のできるものではありません。聖書を読んでいても、むしろ不可解な言葉、よく分からない言葉の方が多いものです。たとえすぐに意味は分からなくても、答えは出なくても、その言葉を大切に心にとどめ、思い巡らしてゆく姿勢が大切であるのでしょう。種が芽を出し、実を結ぶまでには時間がかかります。しかしきっと、実を結ぶ時が来る。いつか必ず、収穫の時が来る。その信頼を私たちの内に新たにしたいと思います。
涙と共に種を蒔く人は
礼拝の中で、詩編126編を読んでいただきました。詩編126編5-6節《涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。/種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる》。胸を打つ御言葉で、愛唱聖句にしている方もいらっしゃることと思います。
ここでは、涙と共に種を蒔いた人も、いつか喜びの歌と共に実った穂を刈り入れることの希望が語られています。種袋を背負い泣きながら出て行った人も、いつかきっと、実りの日に、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
この詩編の背景には、国が滅び、異国の地で捕囚になっていた人々の祖国への帰還の出来事があります(1-2節)。バビロン捕囚と、その捕囚からの帰還です。イスラエルの人々にとって歴史的な喜びの日がこの感動的な詩編の背景にはあります。置かれた状況は大きく異なりますが、この詩編を、いまを生きる私たち自身の詩編として受け止め直すことができるでしょう。私たちは一人ひとり、この人生において、「種を蒔く人」でもあります。私たちはそれぞれ、日々懸命に、まだ見ぬ明日に向かって、種を蒔き続けています。
種が芽を出し、実を結ぶまでには時間がかかります。すぐには結果が出ることはありません。失敗が続き、時には、泣きながら種を蒔くこともあるでしょう。しかし、いつかきっと喜びの日、収穫の時が来る。豊かな収穫の時が来ることをこの詩編は語っています。
もしかしたら、私たちが生きている間には結果が出ないこともあるのかもしれません。でもいつか、喜びの歌と共に実った穂を刈り入れる日がくる。私たちが涙と共に蒔いてきた種を、神さまは御心のままに、用いてくださる。私たちにはその信頼と希望をも、与えられています。