2022年2月20日「神の国の権威」
2022年2月20日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編147編1-11節、ヤコブの手紙5章13-16節、マルコによる福音書2章1-12節
「君は悪くない(It's not your fault)」
私が時折思い出す映画のワンシーンがあります。1997年に公開された『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』という映画のワンシーンです。『グッド・ウィル・ハンティング』はマット・デイモンが演じる心に傷を負った青年と、ロビン・ウィリアムズが演じるセラピストの心の交流を描いた作品で、皆さんの中にもご覧になったことがある方がいらっしゃるかもしれません。私がこの映画を映画館で見たのは中学生の時ですが、ずっと心に残り続けているシーンがあります。
それは、映画の終盤、セラピストのショーンが、青年ウィルの心の傷の核心部に迫る場面です。青年のウィルは幼い頃に虐待を受け、それが心の深い傷となっていました。しかし実は、セラピストのショーンも幼い頃に同じ経験をしていたのでした。この場面において、セラピストのショーンは同じ苦しみを共有する友として、青年ウィルに語りかけます。「君は悪くない」――。英語では「It's not your fault」という言葉です。その言葉をきっかけに、青年ウィルの目から涙が流れ始めます。それはこれまで、決して人には見せまいとしてきた涙でした。
青年ウィルは、子どものときの辛い経験について、本来自分にはまったく責任はないはずなのに、ずっと心の奥底で「自分が悪い」と思い込んでいたのです。そしてその「赦されていない」感覚が、これまで彼の生き方を荒んだ、閉じたものにしていたのでした。
ショーンは青年ウィルの目をしっかりと見つめ、ゆっくりと、何度も、「君は悪くない」と繰り返します。その言葉を受けて、ウィルは子どものように泣きじゃくり始めます。そして、ウィルとショーンはしっかりと抱き合います。
このシーンが、ずっと私の心に印象深く残り続けて来ました。「君は悪くない」という言葉が、何か、自分自身の心にも語りかけられているように感じたからかもしれません。
「自分は悪い存在」という罪悪感
私たちは一人ひとり、育ってきた境遇が異なります。映画の主人公のウィルのように、幼い頃から、本当に辛い経験をしてきた方もたくさんおられることでしょう。私たちはそれぞれ育ってきた環境、これまでの人生の歩みは異なります。しかし多かれ少なかれ、私たちはみな心のどこかに「自分が悪い」「自分は赦されていない」との気持ちを抱きながら生きている部分があるのかもしれません。それは「罪悪感」という言葉で表現することもできるでしょう。
この場合の罪悪感の特徴は、本人には責任がないことで罪の意識を抱いていることがある、という点です。たとえば、映画の主人公のウィルは、自分が幼い頃に経験した辛い経験について何ら責任はありません。けれども、「自分が悪い」という考えを埋め込まれてしまっていました。
この罪の意識は、私たちの自尊心を損なわせ、私たちから生きる力を奪ってゆきます。そうして、「自分などいないほうがいいいのではないか」「自分は価値のない人間だ」との否定的な想いに私たちを追いやってゆきます。この罪の意識を、別の言葉で「原罪意識」と言い換えることもできるでしょう。自分が自分で在る自体ことを「悪い」ものとし、否定してしまう意識です。
冒頭でご紹介した映画『グッド・ウィル・ハンティング』の「君は悪くない」という言葉――。この言葉は、私たちの心の奥に深く根を下ろす罪悪感(原罪意識)に向けて語りかけられているものだ、と受け止めることができます。主人公の青年ウィルは「自分は悪い存在」「生きる価値のない存在だ」との想いに苛まれながら生きてきました。ショーンはウィルに「君は悪くない」と何度も語りかけることで、ウィルをその罪悪感の苦しみから解放したのです。またそしてそのことによって、セラピストのショーン自身の悲しみも癒されていったのだと思います。
罪悪感と罪の自覚の相違
聖書を読んでいると、イエス・キリストが人々の「罪を赦す」場面が出て来ます。それら場面において、「罪」と呼ばれていることは、一体何なのか、またその「罪が赦される」というのはどういうことを意味しているのか。分かるようでいて、自明のことではありません。
先ほどから、「罪悪感」についてお話しをしてきました。「自分は悪い存在なのではないか」、「自分などいないほうがいいいのではないか」、そう思ってしまう否定的な意識のことを、ここでは罪悪感と呼んでいます。 それに対してもう一つ、「罪の自覚」ということがあります。ここでの罪の自覚とは、自分の過ちや罪責を率直に認めることを言っています。この罪の自覚と罪悪感は、似ているようで、まったく異なるものです。
聖書に出てくる「罪の赦し」にも、私たちの具体的な過ちに対する赦しと、私たちの罪悪感に対する赦しと、そのどちらもあるように思います。
たとえば、イエス・キリストが十字架におかかりになる際、弟子たちが主を見捨てて逃げてしまった罪は、どうでしょうか。これは、「師を裏切り、見捨てた」という具体的な過ちです。弟子たちにとってそれは取り返しのつかない過ち・決して赦されることのない過ちに思えたことでしょう。けれども、その過ちをイエスさまは赦してくださった、いや、はじめから赦してくださっていました。これらが、聖書が証しする私たちの具体的な過ちに対する、神の赦しです。
一方で、このような具体的な過ちに対してではなく、「自分は生きていていいのだろうか」という私たちの「罪悪感」に対して語りかけられている赦しの言葉も聖書には記されています。その一例が、本日の聖書箇所であるということができるでしょう。
本日の物語には中風を患う人が登場します(聖書協会共同訳では《体の麻痺した人》)。中風とは、脳卒中(脳血管障害)などの後遺症によって、身体にしびれや麻痺がある状態を言います。ここで登場する人は、身体に何らかの麻痺があり、自分で自由に体を動かすことが出来ない状態にあったようです。この人に対して、イエスさまは罪の赦しをお語りになりました。
この場面においてイエスさまは、中風の人が何か過ちを犯したから、それに対して「赦す」とおっしゃったわけではありません。そうではなく、イエスさまはこの人がこれまでの人生の中で抱いてきた深刻な罪悪感――すなわち、自分は「罪人」であり「悪い」存在であるとの認識に対し、赦しと解放の言葉を語りかけてくださったのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。ここでの赦しの言葉とは、言い換えれば、まさに、「あなたは、悪くない」という言葉で表すことができるものです。
当時の病気に対する認識 ~病いは「罪」に対する「罰」
中風を患う人が抱いていた深刻な「罪悪感」を理解するためには、当時の病気に対する認識を踏まえておく必要があります。当時のイスラエルの社会では、病気は本人または両親や先祖が「罪」を犯した結果であると考えられていました。ここでの「罪」とは律法違反の罪のことを指しています。病いとは、その「罪」に対する「罰」として与えられるものだ、というのが当時の一般的な考え方であったのです。
もちろん、現代の私たちの社会においては、病気によって人をわけ隔てすることは差別であり、人権侵害に相当します。病気が何かの「罰」であるということは決してあり得ません。イエス・キリストご自身もそのことをはっきりと否定しておられます(ヨハネによる福音書9章1-3節)。これらはあくまで古代の世界における病気の認識であるわけですが、これらの認識がいかに病いを患う人々を苦しめ、深刻な罪悪感を抱かせることになっていたかを思わされます。
現在のウイルスに対する認識
置かれた状況は大きく異なるものの、病いと罪悪感とがつながっている点においては、現在の私たちも同様の状況にあるのかもしれません。オミクロン株の感染が拡大する中で、いま多くの人が「罪の意識」に苦しんでいます。「感染するかもしれない」「感染させてしまうかもしれない」という罪意識です。あるいは、実際に「感染した」ことについての罪の意識です。昨年に比べると感染を「罪(悪)」と捉える見方は薄れてはいるかもしれませんが、依然として感染を「あってはならないもの」と捉える風潮は私たちの社会に根強く存在しているように思います。
感染したこと・感染させた(かもしれない)ことに、本人に責任はありません。ウイルス感染は自然現象であり、私たちの責任を超えたものです。けれどもこの2年余り、本来本人には責任がないことで、多くの人が罪の意識を植え付けられてしまっている現状があります。感染した「自分が悪い」と思わされてしまっている現状があります。
もちろん、感染対策をすることは重要です。引き続き感染対策は心掛けつつ、私たちは罪の意識からは自由になる必要があります。感染したこと、感染させてしまったかもしれないことは、決して「罪」ではありません。私たちは、感染対策と罪の意識は区別をする必要があります。感染した方々に適切な治療がなされますように、主の癒しと支えがあるように祈ると共に、私たちはいま互いに「あなたは悪くない」というメッセージを発してゆくこと求められています。
中風を患う人の物語
改めて、本日の物語をご一緒に見てみたいと思います。その日、イエスさまがカファルナウムという町を訪れた際、話を聞こうと家の中に大勢の人が集まってきていました。たくさんの人が集まったので、戸口の辺りまですきまがないほどでした。
中風を患う人も、4人の男性に運ばれて、その場に来ていました。何とかしてイエスさまに病いを癒していただきたいと願っていたのでしょう。しかし、群衆に阻まれて、イエスさまのもとへ近づいてゆくことができません。人々からの冷たい視線も感じていたことでしょう。
すると、四人の男性は驚くべき行動に出ます。イエスさまがいらっしゃるあたりの家の屋根をはがして穴を空け、中風を患う男性が寝ている床をつり降ろしたのです(マルコによる福音書2章1-4節)。イエスさまの話を聞いていた人々は何事かとびっくりしたことでしょう。
屋根をはがすのはやりすぎだ、との意見もあるかもしれません。なぜ人々の後ろで、会える機会が来るのを待たなかったのか、という意見もあることでしょう。けれども、中風の人と彼を運ぶ4人の男性にしてみれば、それは決死の行動であったのだと思います。群衆の後ろでおとなしく待っていたら、いつまでも主に出会うことはできないかもしれない。自分たちから行動を起こさなければ、主の前には出られない、との懸命なる想いがあったのではないでしょうか。そして主の前に出ることさえできれば、主が必ず自分たちに目を留め、癒しを与えてくださるはずだと彼らは信じていたのです。
「あなたは、悪くない。あなたは神の目に尊厳ある存在」
イエスさまは彼らのご自分に対する信頼をご覧になり、中風の人に、《子よ、あなたの罪は赦される》(5節)とおっしゃいました。私なりに意訳すると、「愛する人よ、あなたは、悪くない。あなたは神の目に尊厳ある存在」――。主イエスは病いを抱えるこの人に対して、そうおっしゃってくださったのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。イエスさまは神の国の権威に基づいて、この赦しの言葉を宣言してくださいました。
中風の人の人生を長い間縛り続けてきた誤解が、この瞬間、ほどかれました。自分は生まれながらの「罪人」として、神さまから「罰」を受けていたのではなかった。そうではなく、自分は神さまの目に大切な存在として、――きわめて「善い」存在として――愛されているのだ。この真実を知らされた瞬間、中風の人の足元に、神の国が到来しました。そして、この神の国の福音が、中風を患う人の心と体と魂を再び立ち上がらせました。
その後、《起き上がり、床をかついで家に帰りなさい》(11節)とのイエスさまの言葉の通り、中風の人は起き上がり、床を担いで皆が見ている前を出て行きます。これは一つの大いなる奇跡ですが、その奇跡が起こる土台として、イエスさまの罪の赦しの宣言があることを私たちは心に留める必要があるでしょう。この福音こそが、中風を患う人を再び起き上がらせたのです。
福音の風穴を開ける
本日の物語では、中風を患う人とその4人の友が意を決して、家の屋根に穴を空けました。その屋根の穴を通して、彼らはイエス・キリストと出会うことができました。彼らの勇気ある行動によって、閉塞した状況の中に、福音の風穴が開けられたのです。
その風穴から、イエスさまは神の国の力を示してくださいました。罪の赦しの宣言を人々の間に響き渡らせてくださいました。この声は、いまも私たちの間に響き続けています。
《子よ、あなたの罪は赦される》――「愛する人よ、あなたは、悪くない。あなたは神さまの目に尊厳ある存在。価高く、貴い存在」。主イエスはいま、私たちにそう語りかけておられます。
この赦しの言葉を胸に、私たちの社会に福音の風穴を開けるべく、共に勇気をもってその一歩を踏み出してゆきたいと願います。