2022年5月15日「愛にとどまる」
2022年5月15日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:出エジプト記19章1-6節、ペトロの手紙一2章1-10節、ヨハネによる福音書15章1-11節
本日5月15日、沖縄が日本に復帰してから(返還されてから)50年を迎えました。この50年、沖縄の方々は「基地のない平和の島」を訴えてきましたが、全国の基地の約7割がいまだ沖縄に集中し続けている現実があります。なぜこのような状況であり続けているのか、今も私たち自身が問われています。沖縄の基地問題は他ならぬ日本の問題であること、沖縄県外の地域に住む私たち自身が問われ続けている問題であることを、今一度心に刻みたいと思います。
《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝》
メッセージの冒頭で、ご一緒にヨハネによる福音書15章1-11節をお読みしました。《わたしはまことのぶどうの木》という言葉で始まる、よく知られたイエス・キリストの言葉の一つです。この聖書箇所ではイエス・キリストは「ぶどうの木」であると語られ、私たちはその「枝」であると語られています。
《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ》(15章5節)。
私達の住む花巻でもぶどうが栽培されていますね。早池峰山の麓で栽培されているぶどうからは、ワインも作られています。皆さんもよくご存じの通り、ぶどうはつる性の植物です。主となる幹があり、そこから四方にたくさんの枝が伸びてゆきます。その枝から葉が生い茂り、時が来るとたくさんの実を実らせます
本日の聖書箇所では、イエス・キリストが全体を支える太い幹であること、そして私たち一人ひとりはその幹に結ばれた枝であることが語られています。幹であるイエスさまにつながっていることにより、私たちは時が来ると豊かに実を結ぶことができるのだ、と。
愛にとどまる
このぶどうの木のイメージを通して、イエスさまは私たちに何をお語りになっているのでしょうか。イエスさまが語っておられることの一つ、それは、「愛にとどまる」ことの大切さです。
9節には、次の言葉がありました。本日の聖書箇所の中心となる一節であると言えるでしょう。《父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい》。
ここでの「父」は、神さまのことです。神さまが独り子であるイエスさまを愛されたように、イエスさまも私たち一人ひとりを愛してくださっている。このイエスさまの愛にとどまっていることの大切さが語られています。ぶどうの枝が幹から離れないでいつもしっかりつながっているように、いつもキリストの愛に結ばれていること。その大切さをイエスさまはここでぶどうの木のイメージを通して伝えてくださっているのですね。
イエスさまが私たちを重んじて下さったように、私たちも互いに重んじ合うこと
聖書は、神さまが私たちを愛するゆえ、独り子であるイエス・キリストを私たちのもとにお送りくださったことを語っています。またイエスさまも私たちを愛するゆえ、ご自分の命をもささげてくださったことを語っています。それは、イエスさまがそれほどまでに私たちを重んじてくださっていることを意味しています。
聖書が語る愛とは、私なりに言い換えますと、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」です。イエスさまは私たちを極みまで愛するゆえ、その存在をかけがえのないものとして重んじて下さるゆえ、私たちのためにその命をもささげてくださった方です。
イエスさまが私たちを重んじて下さったように、私たちも互いを重んじ合うこと。これが、イエスさまが私たちに与えて下さっている《新しい掟》――《互いに愛し合いなさい》という掟です(13章34-35節)です。互いに愛し合うこと――互いに重んじ合い、大切にし合うこと。それが、私たちが遵守すべき《新しい掟》です。
本日の聖書箇所でも、この掟について述べられていましたね。《わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる》(10節)。「互いに愛し合う」という掟を守ろうとすることが、すなわち、イエスさまの愛にとどまっていることにつながるのだと語られています。
他者の痛みに対する無関心、分断や対立が生じている現状
改めて、ぶどうの木のイメージについて思いを巡らしてみたいと思います。
このイメージの特徴は、常にぶどうの木の全体がイメージされているところです。全体を支える主となる幹があり、そこから伸びるたくさんの枝葉がある。それらの全部を含めて、一本のぶどうの木が形づくられています。
私たちは日々の生活において、つい自分だけの世界で完結してしまっていることが多いのではないでしょうか。ぶどうの木で言うと、自分の枝葉の部分しか見えていない。もしくは自分と周囲の枝葉のことしか見えていないことが多いように思います。自分とその周囲の枝葉、そしてそこから生じるであろう果実にばかり関心を注いでしまう。視点をより拡げて、ぶどうの木全体のことを考えるという機会は少ないかもしれません。本当は、枝の一本一本が同じ一つの幹に結ばれているにも関わらず――。私たちの生きる社会では現在、他者の痛みや苦しみに対する無関心がまん延してしまっている状況があるように思います。
あるいは、別の枝が自分にとって不要なものに思えてしまうこともあるかもしれません。自分にとって厄介な存在とみなし、敵視してしまうこともあるかもしれません。私たちの社会ではさまざまな場面において、分断や対立が生じている現状があります。
ぶどうの木のように本当は「一つ」であるはずなのに、私たちはそれをなかなか実感できない。なかなかその関係性を現実に生きてゆくことができない。言い換えますと、「互いに愛し合う」掟を守れず、「愛にとどまる」ことができていない現状があります。
違いがありつつ、一つ
いま、私たちは本来「一つ」であると申しました。私たちは同じぶどうの木につながっている枝であるのだ、と。
ここで、聖書が語る「一つ」について確認をしておきたいと思います。聖書が語る一つとは、「みんなが同じになる」ことを意味するものではありません。違いを消し去って一つになることが、聖書が語る一つではないのですね。そうではなく、聖書が語っている一つとは、「違いがありつつ、一つ」である在り方です(参照:コリントの信徒への手紙一12章12-31節)。違いをなくすのではなく、むしろ違いを大切なものとして受け止め合ってゆく中で実現されてゆく調和が、聖書が語る調和であるのだと私は考えています。
私たちにはそれぞれ、違いがあり、個性があります。「わたし」とまったく同じ人というのは、この世界に存在しません。私たちは一人ひとり、この世界にただ一人だけの、かけがえのない存在です。
「かけがえがない」ということは、「替わりがきかない」ということです。私たち一人ひとりはかけがえのない=替わりがきかない存在なのであり、神さまからの大切な役割が与えられています。私たちは本来、他者に対して「あなたは要らない」ということはできないのです(コリントの信徒への手紙一12章21節)。
そしてそのように違いがある私たちが、同じ一つのぶどうの木に結び合わされている。「違いがありつつ、一つである」関係性として、互いに結び合わされている。それが聖書が証しする、私たちの本来の関係性なのではないでしょうか。互いの違いを受け止め合い、理解し合ってゆくことを通して、私たちは一つに結び合わされてゆく、そのことをご一緒に心に留めたいと思います。
時に違いをゆるせなくなってしまう私たち
もちろん、違いを受け止めあうというのは、なかなか難しいことでもあります。気が付けば、違いを受け入れることができなくなってしまう私たちです。時には、違いがあること自体が、ゆるせなくなってしまう。そうして「あなたも自分と同じになれ」と、相手を無理矢理自分にあわせようとしてしまう。
あるいは、相手を攻撃し、「あなたは要らない」と排除しようとしてしまう。そのような振る舞いをしてしまうのが、私たちの率直な姿でもあります。特に、自分こそが正しいと思えば思うほど、私たちはそのような極端な状態に陥ってしまうことがあるでしょう。そのように互いに頑なになる中で、分断や対立もまた生じてゆきます。
たくさんの枝葉を支える幹の存在 ~キリストの愛に心を向けて
そのような中、今一度私たちの心を向けたいのが、キリストの愛です。ぶどうの木のイメージで言いますと、枝葉ばかりを見るのではなく、枝を下から支える幹の存在に心を向けること。
ぶどうの幹はたくさんの枝葉を下から支えています。また、根から大地の水分や養分を吸い上げ、一つひとつの枝葉に送っています。ぶどうの枝葉は日々、幹に支えられ、育まれています。私たちもまたそのように、大いなる愛の中で共に生かされ、支えられている存在であることをご一緒に思い起こしたいと思います。
たくさんの枝葉を根底から支え、「一つ」に結び合わせている太い幹。本日の聖書箇所は、この幹こそが、イエス・キリストその方であると語っています。そして私たちはその愛によって支えられ、育まれている枝であるのだ、と。
私たちを支えるその幹は、イエス・キリストがおかかりになっている十字架を表すものとして受け止めることもできるでしょう。私たちはキリストの十字架と、そこに現わされた神さまの愛によって生かされています。(スク―リンに映してますのは、以前私が描いた絵です。ぶどうの木全体を支える幹を、十字架の形で描いています)。
この十字架のキリストの愛の内で、私たちは一人ひとり、かけがえのない、替わりがきかない存在とされています。神さまの目から見て、価高く、貴い存在(イザヤ書43章4節)とされています。私たちは一人ひとり、この大いなる愛の光の中で、共に生かされ、支えられています。私たちは常にこの愛に立ち帰り、この愛にとどまり続けることが求められています。
《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である》――。どうぞいま、私たちの存在を支えてくださるキリストの愛にご一緒に心を向けたいと思います。そうしてキリストの愛にとどまる中で、この私たちの言葉と振る舞いを通して、現実に神さまの愛が実を結んでゆきますように願います。