2022年5月22日「喜びで満たされる」
2022年5月22日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編15編1-5節、ローマの信徒への手紙8章22-27節、ヨハネによる福音書16章12-24節
復活節の中を
私たちは現在、教会の暦で復活節の中を歩んでいます。イースターの喜びを心に留めて過ごす時期です。本日は復活節第6主日礼拝をおささげしています。来月の6月5日(日)には私たちはペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えます。
いま「イースターの喜び」と申しました。イースターの喜びとはすなわち、イエス・キリストが復活なさったことの喜びです。イエスさまは十字架の死よりよみがえり、「死は終わりではない」ことを私たちに示して下さいました。そして、私たち一人ひとりが、その復活の命に結ばれていることを示して下さいました。聖書はその復活の喜びを私たちに証しています。
いまは悲しんでいる人々の心に向けて
聖書において、「喜び」は最も重要な言葉の一つです。聖書にはたくさん、「喜び」という言葉が出て来ます。
たとえば、旧約聖書(ヘブライ語聖書)のエレミヤ書には、次のような一節があります。《そのとき、おとめは喜び祝って踊り/若者も老人も共に踊る。/わたしは彼らの嘆きを喜びに変え/彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる》(エレミヤ書31章13節)。
旧約聖書の詩編には、次のような言葉もあります。《あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました》(詩編30編12節)。
《涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。/種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる》(詩編126編5-6節)。
いま引用しました箇所には、「嘆き」や「悲しみ」、「涙」などの言葉も出てきました。喜びとは対照的な言葉ですね。これらの箇所からも分かることは、聖書における「喜び」とは、いまは嘆き悲しんでいる人々に向かって語られているのだということです。いまは涙を流している人々に向かって語られている言葉であることです。喜びたくても喜ぶことができない、悲しみのただ中にいる人々に向かって、これらの言葉は語りかけられていることが分かります。
イスラエルの民の歴史は、苦難の連続でした。喜びが失われた日々の中で、嘆きや悲しみが心を占める日々を生きる中で、しかし、イスラエルの人々は必ず「喜びの日」が訪れることを信じ続けてきました。いつの日か、救い主なるメシアが到来して、自分たちのこの悲しみを喜びへと変えてくださるとの希望です。先ほど引用した聖書の言葉も、その確かな信頼と希望に基づいて記されたものです。
私たちキリスト教会は、ナザレのイエスこそがその救い主であり、キリストが復活されたイースターが「喜びの日」であると受け止めてきました。このイースターの喜びもまた、いま悲しんでいる人々の心に向けて語りかけられているものである点において、引用したエレミヤ書や詩編の言葉と同じであるでしょう。
本日の聖書箇所ヨハネによる福音書16章12-24節の中にも、《ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる》というイエスさまの言葉がありましたね。イエスさまは弟子たちにおっしゃいました。《ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない》(22節)。
イースターの喜びは、いまは喜ぶことができない、いまは悲しみの中にいる一人ひとりの心に語りかけられているものであることを、ご一緒に心に留めたいと思います。
十字架の死を前に
本日の聖書箇所において、弟子たちはなぜ悲しんでいたのでしょうか。それは、イエスさまが「別れが近い」ことを伝えられたからです。《しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる》(16節)。いまを生きる私たちは、これが十字架の死を指し示していることを知っています。その場にいた弟子たちはイエスさまの言葉の意味がはっきりとは分かりませんでしたが、「別れの時が迫っている」ことを悟り、戸惑いと深い悲しみとを感じていたのではないでしょうか。
現在を生きる私たちもまた、弟子たちと状況は違っても、やはり戸惑いと悲しみとを感じながら日々を過ごしています。長期化するコロナウイルスの感染拡大がようやく落ち着きを見せ、私たちの社会がこれまでの生活を取り戻し始めたと思ったら、ウクライナで戦争が始まりました。一刻も早く、ウクライナでの戦争が停戦へと至りますよう切に願います。
私たちの近くに遠くに、日々、悲しいニュース、胸が締め付けられるニュースが絶えません。喜びたくても、喜ぶことができないような状況が続いています。皆さんも、様々な辛い気持ちを抱えつつ、日々懸命に生活をしていらっしゃることと思います。
私たちが経験する悲しみの中で、最も深いものが、死による別れでありましょう。本日の聖書箇所のイエスさまの言葉も、十字架の死を前にして語られたものです。弟子たちは、別れの予感を前に、ただ戸惑い、悲しむことしかできませんでした。私たち自身もまた、死の別れを前に、ただ涙を流し、立ち尽くすことしかできません。この2年半、世界中で、どれほど多くの涙が流されてきたことでしょう。またいま、ロシアとウクライナにおいて、どれほど多くの涙が流されていることでしょう。私たちの近くで遠くで、どれほど多くの人が涙を流し続けていることでしょう。
復活の命の約束
喜びたくても喜ぶことができない、悲しみのただ中にいる私たち一人ひとりに向かって、イエスさまは語っておられます。改めて22節をお読みいたします。《ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない》。
イエスさまはここで、いまはあなたがたは悲しんでいるが、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになると語っておられます。《その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない》と。
ここで指し示されているのが、復活の出来事です。死による別れは、永遠の別れではない。私は再びイエスさまと会うことができる。復活の出来事を通して、イエスさまは私たちに、「死は終わりではない」ことを伝えて下さいました。
またそして、私たち一人ひとりもまた、その復活の命に結ばれることをイエスさまは約束してくださいました。私たちのこの命と人生も死によって終わってしまうのではない。私たちもまた、復活の命に結ばれ、その命の光の中で、再び出会うことができる。愛する人々と再会することができる。その喜びと希望を、イエスさまは伝えて下さいました。
《真理の霊》が来るとき ~喜びは、遅れて訪れる
では、いつ、私たちはその喜びを実感することができるのでしょうか。イエスさまのご復活の意味を真に理解することができるのでしょうか。
本日の聖書箇所においては、《真理の霊》が来たるときが「その時」であることが語られています。《しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである》(13節)。
《真理の霊》とは、聖霊のことです。いまははっきりとは理解することができなくても、真理の霊が来るとき、私たちはイエスさまの言葉を理解することができるようになる。たとえいまは私たちの心は悲しみで満たされているのだとしても、聖霊が来るとき、私たちの心は喜びで満たされるようになる。
すなわち、聖書が語る喜びには、時間差があるのです。喜びは、遅れて訪れる――。十字架の死の後に復活が来るように、悲しみの後に喜びが訪れる。いまは私たちの心は悲しみで満たされているのだとしても、必ず私たちの心が喜びで満たされる(24節)日が来るのだということを、ご一緒に思い起こしたいと思います。
イエスさまはいま私たちと共に
《真理の霊》は、ヨハネによる福音書では《弁護者(ギリシア語でパラクレートス)》とも呼ばれます(14章16節、26節、15章26節、16章7節)。
この《弁護者》なる聖霊の根本なお働きは、私たちにイエスさまのことを「思い起こさせる」ことです。イエスさまの言葉を、そのご生涯を、十字架の死を、そして復活の命を、私たちの心に思い起こさせてくださる。そうして私たちがイエスさまを思い起こすとき、そこにイエスさまも共にいてくださることをヨハネ福音書は語っています。聖霊のお働きによってイエスさまを思い起こすとき、そこに、よみがえられたイエスさまも共にいて下さるのだ、と。
《弁護者》なる聖霊は遠い将来ではなく、いまこの瞬間、私たちに働きかけて下さっているのだと受け止めたいと思います。そうしていま、イエスさまご自身が、私たちと共にいてくださっているのだと受け止めたいと思います。
復活されたイエスさまはいま、私たちと共にいてくださり、私たちに語りかけて下さっています。ご自分がすでに、十字架の死よりよみがえられたことを。私たちはすでに、その復活の命に結び合わされていることを語り続けて下さっています。悲しみの中で涙を流すほかない私たちの傍らで、共に涙を流しながら(11章35節)――。
喜びはすでに芽吹いている
たとえいまだ私たちの心の内にあるのが悲しみであるのだとしても、いまだ涙を流し続けているのだとしても、私たちの存在の内に、すでに喜びは芽吹いています。この喜びは、他ならぬ、復活の命であるイエスさまご自身より湧き出でているものです。小さな芽のようであるけれども、失われることのない喜びがいま、私たち一人ひとりの内に芽吹いています。もはやこの喜びを私たちの内から奪い去るものはいないのだと私は信じています。
最後に、23-24節のイエスさまの言葉をお読みいたします。《その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。/今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる》。
皆さんの内にすでに芽吹き始めている喜びと希望とが、これからさらに豊かに育まれてゆきますように。そうして皆さんの歩みの一歩一歩を支える力となりますように願っています。