2022年5月29日「一つとなるために」
2022年5月29日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編102編13-19節、エフェソの信徒への手紙1章15-23節、ヨハネによる福音書17章1-13節
昇天日
私たちは来週、教会の暦でペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えます。ペンテコステはイエス・キリストが復活して天に昇られた後、弟子たちの上に聖霊(神の霊)が降った出来事のことを指します。日本ではクリスマスやイースターに比べると知られてはいませんが、クリスマス・イースターとともにキリスト教にとっては重要な祭日です。
このペンテコステの10日前に、「昇天日」というものがあります。「昇天」とはイエス・キリストが復活なさって40日後に天に昇られた出来事のことを言います。今年は先週の5月26日(木)が昇天日でした。
福音書に記されている昇天の場面を読んでみたいと思います。ルカによる福音書24章50-53節、ルカによる福音書を締めくくりにあたる部分です。《イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。/そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた/彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、/絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた》。
イエスさまは手を上げて弟子たちを祝福した後、彼・彼女らのもとを離れ、天に上げられたとルカによる福音書は記します。そうしてイエスさまのお姿は、弟子たちの目には見えなくなりました。弟子たちはイエスさまを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムへ帰り、神殿の境内でいつも神さまをほめたたえていた、そう記してルカによる福音書は筆を置きます。
イエスさまのお姿が見えなくなった、それは別れを意味します。イエスさまはこの地上での旅路を終えられ、神さまのもとへ帰られた。にも拘わらず、弟子たちの心は不思議と喜びにあふれています。それは、イエスさまが弟子たちに約束をしてくださっていたからです。ご自分のかわりに、聖霊を弟子たちのもとに送るという約束です。
直前の49節をお読みいたします。《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》。ここで《約束されたもの》と言われているのが聖霊です。この約束通り、その10日後に弟子たちのもとに聖霊が送られることになりました。それが、ペンテコステ(聖霊降臨日)です。そうしてそのペンテコステの出来事から新しい物語――キリスト教の誕生の物語が始まってゆきます。それを記しているのがルカ福音書の続編である『使徒言行録』です。
昇天の出来事を強調するルカによる福音書
ちなみに、すべての福音書にキリストの昇天の場面が記されているわけではありません。新約聖書にはマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の四つの福音書が保存されているのはよくご存じの通りです。その四つの中でキリストの昇天の出来事を強調して記しているのは、ルカ福音書です。先ほどご紹介した昇天の場面はルカ福音書だけが記しているものなのですね(マルコ16章19-20節の後世による付記を除く)。
ルカ福音書とは対照的に、昇天の出来事を強調しない福音書もあります。たとえば、マタイによる福音書には昇天の場面は記されておらず、復活したキリストの「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉で閉じられます。「いつもあなたがたと共にいる(あなたがたのそばにいる)」との約束で閉じられるのは、イエスさまが天に昇られて姿が見えなくなるルカ福音書とは大きな違いがありますね。マタイ福音書においてはイエスさまと私たちとの「近さ」が強調されています。対して、ルカ福音書においてはむしろイエスさまと私たちとの「遠さ(隔たり)」が強調されていると言えるでしょう。
このように、四つの福音書にはそれぞれ固有の視点があり、相違があります。そしてそれらの相違をそのままに保存しているのが新約聖書の特徴です。
違いがありつつ、一つ ~四福音書の相違と相互補完性
もちろん、これはある福音書の記述が正しく、ある福音書の記述が正しくない、ということを意味しているのではありません。四つの福音書のそれぞれが、違う視点から、イエス・キリストの大切な一側面を指し示しています。
そして、それらの異なる視点が合わさることによって、私たちの前に、より立体的なイエス・キリスト像が立ち現れてゆきます。ある一方の視点からだけではなく、四方向の視点から語られることによって、私たちはより多面的に、イエス・キリストの存在を受け止めることができるようになってゆくのです。四つの福音書に相違があることは否定されるべきことではなく、むしろとても大切な意味をもつことであるのですね。
四福音書にはそれぞれに固有性(=かけがえのなさ)があり、役割分担がある。言いかえますと、四福音書は「違いがありつつ、一つ」の関係性にある、というのが私の考えです。具体的に四福音書の間にどのような相違と役割分担があるのかについては、また近々、皆さんにお伝えしてゆければと思っています。
「違いがありつつ、一つ」――四福音書を通してこのあり方を改めて提示してゆくことは、キリスト教会においてのみならず、私たちが生きる社会においても重要な指針になり得るのではないかとも考えています。
イエス・キリストの最後の祈り
さて、メッセージの冒頭で本日の聖書箇所であるヨハネによる福音書17章1-13節をお読みしました。イエス・キリストが十字架におかかりになる前にささげられた祈りの前半部分です。ヨハネ福音書においてはイエスさまが私たちのためにささげてくださった最後の祈りであり、伝統的に「大祭司の祈り」とも呼ばれます。
イエスさまはこの祈りを終えられた後、捕らえられ、裁判にかけられることとなります。そして、十字架上で死を遂げられ、三日目に復活されることとなります。11節には次の言葉がありました。《わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです》。
イエスさまの地上での生活はもう間もなく、終わりを迎えることになる。その別れを前にして、残される弟子たちのために、そしてこの地に生きるすべての者のために、執り成しの祈りをささげてくださっているのがこの祈りです。その意味において、昇天を主題とする礼拝において読まれるのにふさわしい御言葉だと言えるでしょう。
一致への祈り
本日の聖書箇所において、イエスさまは様々なことをお祈りくださっています。ここでイエスさまが祈ってくださっている大切な祈りの一つに、「一致への祈り」があります。先ほどお読みした11節の後半部にも《聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです》とありました。
残された者たちが、これから生まれ出ることになるキリスト教会が、そして私たちすべての者が「一つとなるため」の祈りをここでイエスさまはささげてくださっています。
イエスさまは、この先、教会の内外で様々な対立や分裂が生じるであろうことをご存じでいらっしゃったのかもしれません。多くの人の心が、剣で刺し貫かれるようになることを予期していらっしゃったのかもしれません。だからこそ、ここで私たちのすべての者のために祈ってくださっているのだと受け止めたいと思います。神さまとイエスさまが一つであるように、私たち人類もいつか、一つになることができるように、と。イエスさまご自身が、私たちのために涙を流し、その心臓から血を流しながら(マルコによる福音書14章32-42節)――。
ペンテコステの出来事によって新しく誕生したキリスト教。その歴史は、分裂の歴史でもありました。現在、キリスト教には様々な教派が存在しています。教派が数多くあるということは、それだけ分裂を繰り返してきたということの証でもあります。
時には、同じクリスチャン同士が憎み合い、殺し合いをするという悲しい歴史も繰り返されてきました。キリスト教の歴史が戦争の歴史と切っても切り離せない関係にあることは、皆さんもよくご存じの通りです。これまでのキリスト教の歴史において、まことの一致は成し遂げられず、むしろ無数の争いが繰り返されてきました。
ヨハネ福音書が記された当時の状況
ヨハネ福音書が記された当時も、教会の内外に対立が生じ始めていたと考えられます。教会の外の対立とは、自分たちの母体であるユダヤ教徒の一部の指導者たちとの対立です。キリスト教が誕生して間もない頃、キリスト教はまだ周囲からユダヤ教の分派の一つだとみなされていました。しかし徐々に(特に紀元70年頃から)、母体であるユダヤ教とはっきりと決別し、自分たちの固有性を確立することを迫られるようになってゆきます。
そしてそのユダヤ教との決別と同時進行で、キリスト教会の内にも様々な対立が生じていったと考えられます。その対立の一つ、それは、「イエス・キリストは誰であるのか(私たちにとってどのような方であるか)」を巡っての対立です。
教会の内外に深刻な対立が生じ始めている状況の中で、福音書記者のヨハネは現在のヨハネ福音書の本体となる部分を記しました。「イエス・キリストが自分たちにとってどのような方であるか」を教会の人々にはっきりと示すためです。ヨハネが福音書を記したのはイエスさまが十字架刑で亡くなられてからおよそ60年後、紀元90年代のことであると言われます。
「イエス・キリストのどの側面を重視するか」の相違
先ほど、キリスト教の歴史は分裂の歴史でもあったと述べましたが、それはキリスト教が誕生して間もない時から、そうであったことが分かります。分裂をせざるを得なかった背景には、さまざまな事情があったことでしょう。その根本にあった要因は、私の考えでは、「イエス・キリストのどの側面を重視するか」の相違です。「イエス・キリストは自分たちにとってどのような方であるか」の考えの相違とは、言い換えますと、イエス・キリストのどの側面を重視するかの相違です。その相違が当時、互いにどうしてもゆずることができない相違であったゆえ、教会は分裂せざるを得なかったのです。
分裂をしたこと自体は、悪いことではありません。分裂のおかげで、多様な教派が誕生することができたからです。多様な教派や信仰理解が存在していること自体は豊かな、素晴らしいことです。問題であったのは、時に、自分たちとは相容れない信仰理解を持つ相手を「異端」あるいは「サタン」と断罪したことです。そうして、相手の存在自体を否定し、遂には憎しみと暴力の中に身を投じようとしたことです。そこに、キリスト教会の罪責があります。
その姿勢に最も欠如しているのは、愛です。愛とは、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじること」を指すのだとすると、私たちキリスト教会はその歩みの多くの場面において、隣人への愛を見失っていたと言わざるを得ません。愛し愛される(互いに愛し合う:13章34-35節)関係性を見失っていたと言わざるを得ません。
イエスさまの祈りに私たちも祈りを合わせて ~すべての人を一つにしてください
メッセージの前半で述べましたように、そもそも、キリスト教の土台・柱である福音書にも、相違があります。信仰の源泉である聖書自体に相違が内包されているのだから、それを受け取る私たちの間にも様々な相違が生じるのは当然のことであると言えるでしょう。私たちはそれぞれ、自分なりに精一杯、イエス・キリストのかけがえのない一側面を指し示しているのであり、そこに本来、「正しい」「間違っている」はありません。
そのことを踏まえた上で、私たちはいま改めて、「違いがありつつ、一つ」の関係性に心を向けることが求められているように思います。四福音書のそれぞれに違いがあり、役割分担があるように、私たちの信仰理解にも違いがあり、そして、役割分担がある。私たちは本来、それぞれ違いがありつつ、同時に、一つに結び合わされている関係性にあるのです。
そしてその際、私たちが土台とすべきものは、愛です。愛し愛される関係性こそが、私たちを互いに結びあわせている絆(コロサイの信徒への手紙3章14節)です。私たちがキリストの愛に根ざすとき、「違いがありつつ、一つ」である在り方は少しずつ、私たちの間に実現されてゆくのだと信じています。そうして、天におられるキリストへ向かって、《一つの体》として共に成長してゆくことができる(エフェソの信徒への手紙4章15-16節)のだと信じています。
イエスさまがささげてくださった最後の祈り、私たち人類のための執り成しの祈りに、私たちも祈りを合わせたいと思います。17章20-21節《また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします。/父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください》。