2022年8月7日「違いがありつつ、一つ」
2022年8月7日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編13編2-6節、マルコによる福音書9章33-41節、コリントの信徒への手紙一12章14-26節
平和聖日
本日は平和聖日礼拝をおささげしています。平和を覚え、ご一緒に礼拝をささげる日です。私たち花巻教会が属する日本キリスト教団は8月の第一週の日曜日を平和聖日に定めています。
今年度、奥羽教区(青森県・秋田県・岩手県で構成)が諸教会に配布した祈りの課題には、「朝鮮半島の二国間緊張が緩和されるように」「原発及び再処理工場等の『核燃料サイクル』への依存をやめ、原発に頼らない国作りのために」「防衛のための軍備増強ではなく、外交による紛争解決がなされるように」「安全保障法制・共謀罪法制が廃止されるように」「沖縄辺野古・高江米軍基地建設が中止されるように」「平和憲法である『日本国憲法』が守られるように」「多様性や包摂的社会を目指す世界にあって、人々が等しく恐怖や欠乏から、免れ暮らせるように」が挙げられていました。
最後の祈りには、《人々が等しく恐怖や欠乏から、免れ暮らせるように》との文言がありました。2月24日に始まったウクライナでの戦争はいまだ停戦に至ることなく、現在に至っています。ウクライナにおいていまも多くの人々が恐怖や欠乏の中で生きることを余儀なくされています。どうぞ一刻も早く停戦へと至りますように、これ以上、ウクライナとロシアの人々の命が奪われ、その尊厳が傷つけられることがないようにと願います。平和を覚えて礼拝をささげる今日、改めて平和への決意を私たちの心に刻みたいと思います。
核兵器を巡る現状
昨日は8月6日、広島の原爆の日でした。原爆が投下された8時15分には、広島をはじめ、国内外で原爆で亡くなった方々への鎮魂の祈り、核廃絶と平和への祈りがささげられたことと思います。原爆の投下から77年が経った現在も放射線による健康被害に苦しむ多くの方々がおられます。悲惨な記憶に苦しみ続ける多くの方々がおられます。明後日9日、私たちは長崎の原爆の日を迎えます。
ちょうど今月、核不拡散条約(NPT)運用検討会議がニューヨークで開催されています。岸田首相は日本の首相として初めて出席、「核兵器のない世界」に向けて歩みを進めていく決意を表明する一方で、核兵器禁止条約について言及することはありませんでした。核兵器禁止条約は2017年7月7日に国連で採択された、核兵器を全面的に禁止する初の国際条約です(2021年1月22日に発効)。この核兵器禁止条約に、戦争における唯一の被爆国の日本が参加していない現状があります。昨日の平和記念式典のスピーチにおいても、岸田首相は「核兵器のない世界と恒久平和の実現に向けて力を尽くす」と述べる一方で、核兵器禁止条約には言及しませんでした。
現在も、世界には約1万2700発の核弾頭が存在しています。この度のロシアによるウクライナ侵攻以後、プーチン大統領は核兵器の保有を誇示する発言を繰り返し、核使用への懸念が高まりました。今回のように核が実際に使用されることへの懸念が高まったのは、あの冷戦時代以来のことでありましょう。国際社会に核使用への緊張が高まる中で、日本でも「核共有(アメリカの核兵器を日本国内に配備し共有すること)」、非核3原則の見直し等を求める声が一部で高まってきています。
私たちの社会ではいまも核抑止論がある一定の力を持っています。破滅的な破壊力をもった核兵器を保有することで、かえって核戦争を抑止することにつながる、国家の安全を守ることにつながるとの考え方です。しかし、この度のプーチン大統領の言動であらわになったことは、指導者の一存によって実際に核兵器が使用され得る、という現実であったのではないでしょうか。
昨日の平和祈念式典において、広島県知事の湯崎英彦氏はこの度のウクライナ侵攻を踏まえ、《核兵器は、現実の、今そこにある危機》であると述べておられました。その上で、《力には力で対抗するしかない、という現実主義者は、なぜか核兵器について、肝心なところは、指導者は合理的な判断のもと「使わないだろう」というフィクションたる抑止論に依拠》していると述べ、核抑止論を明確に否定しておられました。私たちが直視しなければならない現実とは、《核兵器が存在する限り、人類を滅亡させる力を使ってしまう指導者が出てきかねないという現実》である。だから、《人類全体、さらには地球全体を破滅へと追いやる手段》である核兵器を手放しておくことこそが、《現実を直視した上で求められる知恵と行動》ではないか、と(朝日新聞デジタル、『【あいさつ全文】「核兵器は現実の今そこにある危機」広島知事が訴え』より、2022年8月6日)。
湯崎知事が指摘する通り、核抑止論は、「各国の為政者たちは実際には核兵器を使用しない」というある種のフィクションに依拠していると言えるのではないでしょうか。核兵器が為政者たちの手元にある限り、そのスイッチが実際に押される危険は常に存在しています。私たち人類および地球上のすべての生命を脅かし続けるその危機をなくすには、核兵器を根絶してゆく他、道はありません。
私たちはいまこそ、イエス・キリストの次の言葉を心に刻むべきでありましょう。《剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる》(マタイによる福音書26章52節)。
コリントの信徒への手紙一12章14-26節 ~一つの体、多くの部分
本日は平和聖日礼拝ということで、奥羽教区の祈りの課題を共有し、また、現在の核兵器を巡る現状についてもお話ししました。
奥羽教区の祈りの課題の一つに、「多様性や包摂的社会を目指す世界にあって、人々が等しく恐怖や欠乏から、免れ暮らせるように」とありました。「多様性(ダイバーシティ)」は現代を生きる私たちにとって大切な言葉の一つとなっています。平和を考える上でも、多様性はキーワードの一つであると言えるでしょう。と同時に、この言葉が指し示す範囲はとても広く、様々な文脈で使うことが出来る言葉なので、時に混乱してしまうこともあるかもしれません。
もう一つ、「多様性(ダイバーシティ)」とセットとなるキーワードとして挙げられることが多くなっているのが、「包摂性(インクルージョン)」です。多様性と包摂性(ダイバーシティ&インクルージョン)は、違いを認め合い、互いを活かしあうことを意味する言葉です。近年、企業でも積極的に取り入れられている考え方です。
本日の聖書箇所であるコリントの信徒への手紙一12章14-26節は、多様性と包摂性の意義について、聖書の観点から伝えてくれている箇所です。もちろん、当時はまだ多様性と包摂性という言葉自体は存在していませんでしたが、私たちは本日の聖書箇所から、多様性と包摂性についての大切なメッセージを汲み取ることができます。
改めてコリントの信徒への手紙一12章14-22節を読んでみましょう。《体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。/足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。/耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。/もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。/そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。/すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。/だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。/目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。/それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです》。
聖書が語る多様性(ダイバーシティ) ~かけがえのなさ(固有性)の発見
この箇所から、私たちは幾つかの大切なメッセージを汲み取ることができます。一つ目のメッセージ、それは、体の各部分が異なった働きをしているように、私たちにはそれぞれ、聖霊なる神さまから、異なった、かけがえのない役割が与えられているのだ、ということです。ただ「違いが存在している」というだけではなくて、そこに「かけがえのなさ(固有性)」を見出しているのが聖書の多様性(ダイバーシティ)の特徴です。
「かけがえがない」ということは、言い換えますと、「替わりがきかない」ということです。私たちは一人ひとり、替わりがきかない存在として神さまに創られた。必要のない人というのは決して存在しない。それぞれが、神さまから大切な役割を与えられている――。私たちはこの根本のメッセージを、パウロの体のたとえから汲み取ることができるでしょう。
この在り方と正反対であるのが、違いを認めることができず、「あなたも自分と同じになれ」と他者に強要しようとすることです。固有性=かけがえのなさを否定し、相手を自分と無理矢理同化させようとするその在り方は、聖書が伝えるあり方とは正反対のものです。
聖書が語る包摂性(インクルージョン) ~相互補完性の発見
本日の聖書箇所から汲み取ることができる二つ目のメッセージ、それは、私たちはそれぞれの役割を通して、互いに補い合い支え合っているのだ、ということです。体の各部分が異なる働きを通して互いに補い合っているように、私たちはそれぞれ、固有の役割を通して、互いに補い合っている。互いに活かし合っている。私たちの関係性に「相互補完性」を見出すのが、聖書の包摂性(インクルージョン)の特徴です。
ここには、私たち人間は本来的に、互いに補い合い、支え合って生きる存在であるのだとの根本の理解があります。私たち人間は「共に生きる」存在であるとの視点ですね。
この在り方と正反対なのが、違いを受け入れることができず、自分とは異なる他者を「あなたは要らない」と排除しようとすることです。手紙の中に、次の言葉がありましたね。目が手に向かって「あなたは要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「あなたたちは要らない」とも言えない(21節)。他者に対して、「あなたは要らない」と言うことは、本来できない。異なる相手を切り捨て、排除しようとする姿勢はやはり聖書が伝える在り方とは正反対のものです。
違いがありつつ、一つ
聖書が語る多様性と包摂性(ダイバーシティ&インクルージョン)――。それは、私なりに言い換えると、「違いがありつつ、一つ」である在り方です。違いを否定して一つになるのではなく、むしろ違いを通して一つとなる在り方を聖書は伝えてくれています。
この「違いがありつつ、一つ」である在り方を見失うとき、平和ではない状況もまた生じていってしまうと言えるのではないでしょうか。私たちの近くに遠くに、平和ではない現実があります。戦争は、その平和ではない現実の最たるものです。違いを否定し、個々人のかけがえのなさ=尊厳を否定する力が国家において働くとき、甚大なる惨禍がもたらされます。そうならないためにも、私たちは日ごろから、「違いがありつつ、一つ」である在り方について学び続ける必要があります。
弱さの役割
最後に、次のパウロの言葉に注目してみたいと思います。本日の聖書箇所から汲み取ることができる三つ目のメッセージ、聖書が語る多様性と包摂性を考える上で、とても大切な言葉です。《体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです》(22節)。
また続けて、こうも記しています。《わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。/見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。/それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。/一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです》(23-26節)。
パウロは、私たちが「違いがありつつ、一つである」ために、大切な役割を果たすのは弱さであると述べています。弱さは「要らない」ものではなく、私たちにとってなくてはならない役割を果たしてくれていることを語っています。なぜなら、私たちの目に弱く見える部分があることで、私たちは互いに支え合うことを学んでゆくからです。互いの個性を尊重し合い、重んじ合ってゆくことを学んでゆくからです。《それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています》(25節)。
聖書が語る包摂性の核心にあるものが、弱さの役割です。「違いがありつつ、一つ」である在り方を見失わないためには、互いの弱さを尊ぶ視点を見失わないこと、またそして、いま弱い立場にある人々への配慮を見失わないことが肝要であることを思わされます。
共に生きる道を
弱さを互いに受け止める中で、私たちの間には共に生きる道が切り開かれてゆきます。共に生きるその道は、《一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ》(26節)道です。
どうぞ私たちが互いの違いを受け止め合い、互いを尊重し合って、共に生きる道を歩んでゆくことができますように。この地に神の国の平和が実現するために、それぞれが自分にできることを行ってゆくことができますように願います。