2022年9月11日「最も大いなるものは、愛」
2022年9月11日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ホセア書11章1-9節、マルコによる福音書12章28-34節、コリントの信徒への手紙一12章27節-13章13節
アメリカ同時多発テロから21年
本日9月11日、アメリカ同時多発テロから21年を迎えます。2001年の9月11日、国際テロ組織アルカイダが旅客機4機を乗っ取り、ニューヨークの世界貿易センタービルに2機が衝突しました。またワシントンの国防総省に1機が衝突、1機は農村地帯に墜落しました。飛行機2機が衝突した世界貿易センタービルでは2753名の方が亡くなりました(全体では2977名の人が亡くなりました)。世界貿易センタービルに飛行機が衝突する映像、ビルが崩れ落ちる映像を皆さんも鮮明に記憶しておられることと思います。
アメリカ同時多発テロの翌月、アメリカはアフガニスタンへの空爆を開始しました。アフガニスタン戦争(2001年10月7日~2021年8月30日)は昨年の8月まで続く、アメリカ史上最長の戦争となりました。
テロから2年後の2003年にはイラク戦争(2003年3月20日~2011年12月15日)が勃発。共和党のブッシュ大統領(当時)は、自国アメリカを「悪を滅ぼす十字軍」のリーダーと宣言しました。イラクへの侵攻開始に際しては、スピーチの最期に「神のご加護があらんことを」と祈りました。キリスト教の「神」の名のもとに、戦争が開始されてゆきました。
イラク戦争による民間人死亡者数はある統計では10数万人、別の統計では50~60万人以上になるとも言われています。アメリカを中心とする有志連合軍による攻撃によって、イラク国内の多くの人々の尊い命が奪われました。
当然ながら、過激化組織によるテロ行為は許すことはできないものです。と同時に、その報復として甚大なる被害をもたらし続けた有志連合軍の行為も、決して許すことのできないものです。また、アメリカ軍が使った劣化ウラン弾などの有害兵器の環境汚染により、イラクではいまも多くの子どもたちの命と健康が傷つけられ続けている現状があります。
テロによって、戦争によって、いまも心身に深い傷を抱えながら生活している方々の上に主の慰めと癒しがありますよう、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。
イエス・キリストは《剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる》(マタイによる福音書26章52節)とおっしゃいました。武力による解決は、真の解決に至ることはありません。憎しみはまた新たな憎しみを呼び、報復はまた新たな報復を招きます。憎しみの連鎖、報復の連鎖を私たちはいかにしたら断ち切ってゆくことができるのか。その平和と和解の道をご一緒に祈り求めてゆきたいと思います。
またそして、2月24日に始まったウクライナでの戦争が一刻も早く停戦へと至りますよう、これ以上かけがえのない命が奪われ、傷つけられることがないように願います。
愛の賛歌
冒頭でお読みしましたコリントの信徒への手紙一13章は「愛の賛歌」とも呼ばれる、よく知られた聖書の言葉です。愛がいかに大切なものであるか、様々な文学的な表現をもって語られています。教会の結婚式の際に読まれることもよくあります。
愛について、たとえばこのような言葉がありました。13章1節《たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル》。たとえ人知を超えた言葉を語る能力をもっていようとも、そこに愛がなければ、それら言葉はさわがしいどら(楽器のどらです)、やかましいシンバルに過ぎない、と言われています。私たちの言葉、私たちの行動の根本に愛があることこそが大切なのであり、その愛がなければ、私たちの言葉も行動もすべて虚しいものだ、と手紙の著者パウロは語ります。
では、その愛とはどのようなものなのか。4節以下にその説明があります。4-7節《愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。/礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。/不義を喜ばず、真実を喜ぶ。/すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える》。
ここに書かれていることは大変すばらしいことであると同時に、私たちが日々の生活でなかなか実践できていないものでもあります。
また、ここに挙げられていることがらは確かに素晴らしい事柄ですが、それを他者に押し付けてしまう場合に問題となってしまうこともあるでしょう。《愛は忍耐強い。…すべてを忍び…すべてに耐える》などの忍耐に関する表現が際立つこれら言葉が、他者に耐え忍ぶことを押し付けるよう働くことにもなり得るからです。実際、キリスト教の歴史において、差別や暴力の被害に苦しむ人々に対し、忍耐を強いて泣き寝入りさせるためにこの愛の賛歌が利用されてしまった部分があるとの指摘があります(参照:山口里子氏『いのちの糧の分かち合い――いま、教会の原点から学ぶ――』、新教出版社、2013年、190-195頁)。
このコリントの信徒への手紙一13章が結婚式でよく読まれるということを先ほど申しました。結婚において、確かに互いに忍耐しあうことは大切なことです。と同時に、互いに想っていること考えていることを打ち明け、もし問題や課題があるのなら互いに率直に指摘し合うこともまた大切なことでしょう。愛は私たちに耐え忍ぶ力を与えてくれるものですが、耐え忍ぶことだけが、イコール愛なのではありません。
聖書が語る愛 ~相手の存在を重んじ、大切にすること
改めて、聖書が語る愛はどのようなものなのか、考えてみたいと思います。言うまでもなく、聖書において愛は最も大切な言葉の一つです。私たちも普段の生活で「愛」「愛する」という言葉を用いることがあります。中にはこの言葉を口にするのは恥ずかしい、照れくさいという方もいらっしゃることでしょう。愛は新約聖書の原文のギリシア語ではアガペーと言います。動詞形だとアガパオーです。
このアガペーという言葉にはもちろん「好き」「大好き」という感情も含まれていますが、それだけを表す言葉ではありません。たとえば、聖書におけるアガペーは、好きではない相手に対しても使うことができる言葉です。不思議なことのように思われるかもしれませんが、感情的には嫌い・苦手な相手であってもその相手を、「愛する」ことがアガペーにおいては可能なのですね。というのも、聖書の「愛する(アガパオー)」という言葉には、相手を「大切にする」「尊重する」意味が含まれているからです。
キリスト教が初めて日本に渡ってきたとき、愛という言葉を宣教師たちは「ご大切」と訳したそうです。とても素晴らしい訳ですね。愛するとは、言い換えると、大切にすること。「好き」という感情だけではなく、相手を大切にする具体的な行動を表しているのが、聖書における愛です。
私なりに表現すると、アガペーなる愛とは、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」です。このアガペーなる愛は、相手のことが「好き」か「嫌い」かを超えて、相手の存在を重んじ、大切にするように働くものです。
愛の反対は「軽んじる」こと
聖書が語る愛は、相手の存在を重んじ大切にすることだと申しました。では、愛の反対は何でしょうか。「重んじる」の反対は、「軽んじる」ですね。愛することと正反対の姿勢は、相手の存在を軽んじることであると言えると思います。
私たちは人から「軽んじられた」と感じるとき、悲しい気持ちになります。とてもつらい気持ちになります。それは子どもも大人も同様です。私たち人間の内にある普遍的な感情であると思います。
もちろん、相手を不当に軽んじ傷つけることは本来、決してあってはならないことです。たとえ心情的に好きになれない相手であったとしても、同様です。
「愛する」とは、個人的には好きになれない相手であったとしても、その人を軽んじる言動は慎むことを自らの内で決意している、その姿勢を指すものでもあります。好きになれない相手でも、その人を軽んじたり、意地悪をしたりすることは、しない。そしてその決意と姿勢が、相手の存在を実際に「重んじる」ことへつながってゆくのではないでしょうか。
いまの私たちの社会を見てみると、自分の好き嫌いや主観的な感情によって他者を軽んじ、傷つけることが至る所で生じている現状があります。あるいは、無自覚に他者を軽んじ、傷つけてしまっている現状があります。そうして、傷を負った人が復讐心に駆られ、自分を傷つけた相手に、あるいは別の人に怒りを向け、他者を傷つけてしまう悲しい連鎖も生じています。私たち自身、日々の生活の中で、他者から不当に軽んじられることもあれば、他者を不当に軽んじてしまうこともあるでしょう。
「互いを軽んじる」ことの連鎖を、私たちはいかに断ち切ってゆくことができるか。これは、いまを生きる私たちの喫緊の課題の一つです。またこのことは、最初にお話しした憎しみの連鎖・報復の連鎖を断ち切ること、平和と和解の道を歩むこととも密接につながっていることです。
神さまの目から見た一人ひとりの「かけがえのなさ」
この問題を考えるとき、私がいつも思い出すのは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)のイザヤ書43章4節の御言葉です。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――。ここでの「わたし」とは神さまのことです。「あなた」とは元来はイスラエル民族のことが意味されていますが、その「あなた」は、他ならぬこの私自身のことを指していると受け止めることができるでしょう。またそして、私たち一人ひとりのことをも指していると受け止めることができるでしょう。神さまの目から見て、私たち一人ひとりがかけがえなく貴いことを語る言葉です。
互いを軽んじることの連鎖を断ち切るには、この神さまの目から見た一人ひとりの「かけがえのなさ」を思い起こすことが重要であると受け止めています。
たとえ私たちの目には、ある特定の相手が大切な存在であるとは映っていなかったとしても、神さまの目にはその人も大切な存在として映っている。決して失われてはならない、かけがえのない、尊厳ある存在として映っているのだと私は信じています。
かけがえがないとは、替わりがきかないということです。私たちは一人ひとり、神さまから、かわりがきかない存在・代替不可能な存在として創られた。だからこそ、大切であるのです。
先ほど、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」がアガペーなる愛であると述べました。この愛を実現してくださっているのは、他ならぬ、神さまです。アガペーなる愛とはすなわち、この神さまから生じ、私たちに分け与えられているものです。
コリントの信徒への手紙一13章4-7節の《愛は忍耐強い。…すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える》という言葉も第一に、この神さまの愛を指し示しているものです。《すべてに耐える》との言葉をもって、「私たちの存在をかけがえのないものとして重んじ、どこまでも大切にし続けてくださっている」神さまの愛が語られているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
神さまの愛とそのまなざしに立ち帰る
この神さまの大いなる愛をはっきりと告げ知らせ、目に見えるかたちにし、手で触れて感じとることができるようにしてくださったのが、イエス・キリストその方です。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」。この言葉に表されている神さまの愛を、イエスさまは生涯をかけて、命をかけて、私たちに伝えてくださいました。いまも、私たちのすぐそばにいて、伝え続けてくださっています。
神さまの愛とそのまなざしに立ち帰る時、私たちは少しずつ、周りにいる人々もまたかけがえのない、神さまからの尊厳の光に包まれた存在であることを思い起こしてゆくことができます。この神さまの愛から、私たちの信仰も希望もまた生じてゆきます。
最後に、コリントの信徒への手紙一13章の最後の節をお読みいたします。《それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である》。